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47話



 寒い、を通り越して痛い。


 男は重たい瞼をゆっくりと開けた。カチコチになった身体に力を込める。指の第一関節、第二関節と意識しながら動かしていき、やっとのことで上半身を壁から引き剥がした。パーカーとズボン、フードを被っただけの姿で冬の夜空の下で眠っていたのだから身体が思うように動かないのは当然だ。

 普通の人間は勿論、吸血鬼でさえこんな状況で眠ることは不可能だ。しかし男は多少時間はかかるが寒空の下で眠っても凍死することはない。


 何故か。男は不死である吸血鬼の祖だからだ。



 城下町から少し離れた郊外の路地裏。夜9時も過ぎれば人通りはほとんどない。遊びたい者は城下町に行くし、それ以外は静かなベッドタウンに帰り温かな家に帰る。


 男は日が陰り始めると路地裏に入り一夜を過ごす。そして日が昇ると眩しさから目を覚まし、冒頭のようにカチカチに固まった身体をゆっくりほぐして、人間世界に紛れ込む。


 男の人生は途方もない。それでも長い長い時の中でも何度か分岐点はあった。

 ひとつ目は愛しい女との出会い。ふたつ目は小さな男の子との出会い。そしてみっつ目は、年老いた夫婦との出会いだった。


「……」


 じゃりっと足元で音が鳴る。気づけば男は街中を抜けて舗装されていない砂利道を歩いていた。雲ひとつない青と乾燥した空気が鼻をひりつかせ、くしゅっとくしゃみをした。


「墓参り、行くか」


 誰に言うでもなく男は呟き、足は墓場の方へ進んで行った。


 男が一人だった頃は月命日すら忘れず墓場に通っていた。その日はどんな用事があろうと欠かすことはなかった。それだけ男にとって最優先事項が二人に会いに行くことであり、世界の全てだった。


 砂利道を抜け、再び舗装された道に出る。冬の空っ風を受けて葉をなくした木々は不気味な音を鳴らす。昼間だと言うのにこの空間だけはどこか重い。

 綺麗に並んだ墓石の前を通り、ある墓前に着くと男はフードを脱いで膝をついた。少し硬めの黒髪が風に揺れる。ほんのり寒さを感じて身体が震えた。


「父さん、母さん。……いや、たけし美津子みつこ。久しぶり」

 

 男は墓石から墓標に目をやった。墓標には亡くなって十数年経つ老夫婦の名が刻まれている。

 その老夫婦の名は影島かげしまたけしとその妻、美津子みつこ。そして、名もなき水子が二人よりも更に数十年前の日付で刻まれている。生まれることを許されなかった子を夫婦は「世那」と名付け呼んでいた。刹那の時でも世にいたからね、と二人は笑顔で話していた。


 二人は本当に優しく温かな人たちだった。男が人ならざる者だと気づいていたか、気づかなかったのか最後まで定かではないが、浮浪者と変わらない男を何の疑いもなく数日住まわせてくれた。特に美津子は大層人が良く、男がどうしてここまで親切なのか問うと「息子ができたみたいで嬉しいのよ」と柔らかな表情を浮かべていた。


 何もかもが懐かしく遠い。男は視線を墓石に戻すと手を合わせ、ゆっくり瞼を下ろし視界を閉じた。


 始祖の存在は全てを狂わせる。男はそれを知っていた。だから始祖が始祖としていられるのは東の真祖、ただ一人の前とした。

 東は代々始祖の守り人だった。嫡子のみが本当の始祖の存在を知ることが出来て、たとえ嫡子の伴侶や次子であったとしても、始祖が存在することを知り得ない。

 守り人は真の始祖を知りながら偽りの始祖である久木野を容認し、下につくことを厭わない。久木野が始祖の直系で吸血鬼の中で最も血が濃いとすることで本当の始祖を守ることにつながる。そのため久木野は勿論、他の真祖や人間たちは久木野が唯一の始祖であると信じている。


「ずっと忘れててごめん」


 人と交わらないようにしよう。男自身が決めた取り決めを自ら破り、罪のない人間が、武と美津子が亡くなった事実は変わらない。

 始祖が関われば人も吸血鬼も皆狂う。永遠の命、唯一無二の存在である男は否応なしに畏敬と畏怖の念を向けられ、対等な存在はない。




――――



 今から16年前。影島老夫婦が亡くなったのは桃か桜の花が綺麗に散った後。温かな季節だった。


 男はその日も同じように路上でひっそり暮らしていた。久しぶりに影島家にでも顔を出そうか、など気軽な気持ちで二人が住む家に向かった。


 二人の家に着いたのは空が橙色に染まり始めた頃だった。男は家の前に着いた時から異変に気付いていた。いつもは家の中にあるはずの動く気配がない。郵便受けには夕刊が刺さりっぱなしで違和感が確信へと変わった。男はチャイムを鳴らすことなく門を開けていた。数段の石階段を駆け上がり、玄関のドアノブを握る。がちゃり、と音が鳴ってドアが開く。男の目は見開かれ見えるはずのないドアの向こうを凝視した。


「っは……」


 男の口から空気が漏れる。冷たい汗が一筋背中を滑り落ちた。

 ドアノブを引き、声をかけることなく家の中へ入った。玄関には二人の靴ともう一つ見慣れない男物の革靴が脱ぎ捨てられていた。男は乱暴に靴を脱いでリビングに駆け込んだ。


「あ、あぁ!始祖様!」


 テレビがかけられた壁の前には血濡れた男が立っていた。血相を変えて入ってきた男を見て嬉しそうに笑っている。


「お前は……」

「あぁ、まさかぼ、僕のことご存じで?」


 男は知っていた。東の当主の眷属の一人、大上おおかみと言う男だ。40歳近く、軍人だというのに気弱でビクビクしていて頼りない男だという印象しかなかったはずが、目の前にいる大上は男を見つけると下瞼を持ち上げひしゃげた笑みを浮かべながら血まみれの手を振り上げている。


「始祖様、始祖様!ぼ、僕やりましたやりました!こいつらが始祖様を殺そうとしていたところをぼぼ僕が、僕が止めたんです」


 ギラギラとした目で始祖である男を見ながら叫び、膝をつき、まるで神に祈るように大上は指と指を絡めて額に当て座り込んだ。その手はガタガタと震えていた。

 男は大上を無視してテレビの前のソファに駆け寄った。


「っ……」


 男は目を瞠った。バクバクと耳の中で自分の鼓動が木霊する。

 そこにいたのは変わり果てた姿の武と美津子だった。首からは真新しい血が流れ、二人は寄り添うようにソファに座らされていた。


「始祖様、始祖様、これ。これぇ!知ってます?……北が作った吸血鬼を殺す薬ですって。ふふふっ、危なかったですよ。こんな危険な薬を、ねえ!人間風情が、ねえっ」


 男の気持ちを知る由もない大上は震えながらポケットから小瓶を取り出すと床に落とした。コトンという音で男は振り返り、狂喜する大上と視線が交わる。大上は嬉しさから顔をゆがませ笑った。


「ぼ、ぼ、僕、殺されますよね?だってどんな悪人でも始祖様の大好きな人をやっちゃったんだから。だったら僕、始祖様に血を全部抜かれたいなぁ。ねえ、ねえ!いいでしょう」


 大上は震えながら小瓶を拾うと男の前に差し出した。琥珀色の液体が瓶の中で揺れる。男は大上から瓶へ視線を下ろした。


「へっ、へへっ、どうか、どうか始祖様。僕に、僕にお恵みを」

「黙れ」


 男は拳を強く握りながら大上を見下ろした。黒かった髪は銀色に変わり、瞳の色も太陽のような黄金色へと変貌している。男が一言凄むだけで一眷属でしかない大上はその場に腰を抜かし息を詰まらせた。

 

「この人たちが俺を殺すつもりだったって?」

「は、は、ははははっ」

「こたえろ!」


 大上は狂ったように笑うだけで答えない。

 仮に大上の言う通り二人が男を殺そうとして用意したものだと言うのならば理由が知りたい。持っているはずもなければ二人が男を殺す意味がわからない。

 もし大上がでっち上げた嘘ならば大上はどのようにして二人の存在を知り得たのか。そしてその薬をどのように手に入れたのか。

 男は大上の落とした小瓶を奪い取り男に見せた。


「これは本物か?」

「ほ、んもの?ほんもの、本物だっ」


 手の中にある小瓶を優しく握り、男は目を閉じた。


 武は、美津子は、もうこの世にいない。二人が男を殺したかったのか、大上が、それか他の誰かがそんなことはどうだっていい。男は思った。少しでも誰かと関わりたいと思った自分が皆を不幸にしている。

 

 男はひとつ息を吐き、ゆっくりと瞼を上げた。

 今までのゆったりした時間が急激に加速する。男は小瓶の蓋を開けて口に含んだ。


「え」


 狂喜していた大上がひくっと喉を鳴らして固まった。想像しなかった男の行動に今まで興奮し赤らんでいた大上の顔から血の気が引いていく。


「うぐっ……」


 空っぽになった小瓶が男の手から滑り落ちる。カランと甲高い音が響き、同時に男の肢体は床に転がった。


「やっ、やぁ!始祖様、始祖様ぁ!」


 大上の叫ぶ声が段々遠のいていく。始祖の死を一眷属でしかない大上が耐えられるはずもなく、大上は逃げるようにその場から走り出した。リビングを抜け、玄関のドアを開けて家を出て行った。外の匂いが男の鼻腔を僅かくすぐる。


 男はぼやける視界で武と美津子を見やった。男は二人が大好きだった。


――もし生まれ変われるなら次は絶対人間になりたい。二人の子どもになれたらいい。


 内臓も骨も脳も、全てが溶けていくような熱い感覚に支配されながら男の目から熱い雫が頬を滑る。死ぬことが出来たら来世は幸せに違いない。現世に未練などない。

 その時、鈴音が鳴るような可愛らしい声が聞こえた。


『始祖さま』


 消えかかる意識の中、小さな小さな男の子が自分を呼ぶ。銀色の癖っ毛がふわふわ揺れ、翡翠色の瞳が年に似合わず艶っぽく歪む。


『おとなになったらけっこんして』


 少年は無垢な瞳で男を見つめている。

 これは死に際に見る走馬灯って奴か、と男は思いふっと口元を緩めて居もしない少年に語りかける。


「無理だろ。だって、俺もお前も男……」

『こどもほしい?』

「は……?」

『始祖さまがほしいなら、女の子になる』

「ば、かじゃねえの」


 そう言いながら男の口から大量の血が溢れ出す。ヒューヒューと空気が抜ける音が喉を通り、思考も滲んでいく。

 だというのに幻覚の少年は鮮明に浮かび上がって来る。男の前に跪き、血濡れた男の顔を覗きながら眩い笑みを浮かべた。


『やくそく』


 その子どもの記憶は消した。あの子はきっと幸せに生きている。吸血鬼だが真祖だ。大丈夫。あの子は幸せになる。絶対。


「……リツ」


 自分がポロポロと溢れ落ち消えて行く感覚に身を任せ男は意識を失った。

 


――――




 男は血の繋がらない架空の家族を見上げた。


 なんて愚かなのだろう。二人を追いかけて死のうとして、吸血鬼でなくなり、都合よく記憶を改ざんして過ごして。また吸血鬼に堕ちて、そして会ってしまった。


「笑っちゃうだろ。いや……怒ってるか?お前たちで懲りたはずなのにまた……」


 武と美津子を愛する方向とは全く違う重い愛に気づかされ男は苦笑した。

 男の頬に冷たい何かが当たる。視線を上に向ければ白い雪がハラハラと空から舞い降りて来ていた。さっきまで明るかった空がどんよりとした雲に覆われている。


「また来る」


 男は黒いフードを被りなおし立ち上がった。

 



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