43話
式典は厳かに終わり、利津は堅苦しい貴族衣装の襟を緩めながら車に乗り込んだ。運転手の佐藤は利津が乗り込んだのを確認すると後部座席のドアを閉め、運転席に乗り込んだ。帽子をしっかり被りブレーキを踏みエンジンをかけ、ルームミラーで利津がシートベルトをしたことを確認すると「発車します」とだけ言ってゆっくりと車を走らせた。
世那が軍で働くようになってから賑やかになっていた車内も今はシンと静まり返っている。以前に戻ったと言えばそれまでだが、佐藤は寂しく思っていた。
何かあれば「世那」「世那」と呼んでいた利津の口からその名を聞くことは無い。世那が人間に戻れたら久木野の邸宅から出すとは言っていたがあんまりな気がする、と佐藤は思った。
「利津様」
佐藤は声をかけてみた。だが、利津は腕を組み深くシートに体を預けたまま流れる景色をぼんやりと見つめ何も言わない。
「今日は大変だったけど俺、結構イケてましたよね?利津様のボディーガードもしっかりできたし」
佐藤は努めて明るく話しかけた。しかし、利津はちらりとも佐藤に視線を向けないどころか瞼を下ろしてしまった。佐藤は前方に視線を戻しその後は話しかけなかった。
久木野の邸宅に着くと辺りはすっかり暗くなっていた。佐藤は運転席から出て利津の乗る後部座席のドアを開けた。ヒヤッとした風が車内に吹き込み、利津は瞼を震わせ目を開けた。
「着きましたよ」
利津は佐藤の声にゆっくりと覚醒し、シートベルトを外して車から降りた。その時も佐藤に声をかけることはなく邸宅の玄関にまっすぐ向かった。
「……はぁ。つまんねえ」
利津が邸宅に入ると同時に佐藤の口からぼやきが漏れた。以前から利津はあまり話さないタイプだったが今は輪をかけて話さず、まるで目的を失ったかのように無気力になっている。
佐藤は帽子を脱ぎ髪をかき乱しながらポケットから煙草を一本取り出した。それを咥えながら車に寄り掛かって火をつける。嗅ぎなれた煙を肺いっぱいに吸い込み空を見上げた。
「あ?」
屋根の上に何かいる。佐藤は目を凝らしてそちらをじっと見つめた。黒い人影が此方を窺っている。その影に佐藤は覚えがあった。
「ふっ、そういうこと……」
何も見ていないと人影に伝えるように佐藤は円満な動きで視線を森の方へと動かした。
利津は眷属たちの言葉に耳を貸さず自分の部屋に戻ってきた。夕飯はいるか、風呂はどうする、明日の予定は……など。父、清の眷属達は従う者をなくし、利津に仕えようと必死だ。元々リリィと佐藤だけで事足りていたものを無理矢理使っているため、利津から眷属たちに頼むことは何もない。
利津は重たい貴族衣装を肩から滑り落とし、中のシャツのボタンを外すとソファに腰を下ろした。固い靴も紐を緩めて乱暴に脱ぎ捨てる。ソファの背もたれに頭を乗せ、天井を仰ぎながら利津は深く息を吐いた。
何のためにこの地位まで上り詰めたのだろう。利津は思い出せないでいた。理由はわからない。ここ1ヶ月何か大切なものが抜け落ちていることはわかっていた。
祖母と父が亡くなり利津がずっと欲しかった公爵の地位を手に入れた。決して2人の死を望んでいたわけではない。吸血鬼、いや真祖として罪を犯した元婚約者、田南部美玖を捕まえ、嫌だった婚約もなくなった。
そもそも何故そんなに嫌だったのか。美玖が好きかと言われれば好きではなかった。だが、貴族として家と家を繋げる目的も、血をつなぐ理由も利津はよくわかっていたから仕方がないと割り切ってもいた。今になってみれば嫌かと言われればそこまでではなかった気さえする。
今の利津には虚無感と身に覚えのない渇きだけが残っている。どうにも居心地が悪い。
「失礼します、ご主人様」
聞き慣れた声が聞こえ、利津は目だけをドアの方へ向けた。利津専属のメイドであるリリィがカートを引きながら入ってきた。カートの上には温かな夕飯がのっている。利津の鼻は匂いをたどり僅か動いたが食べたいとは思えず視線を逸らした。
「こちらに置いておきます。もし何かありましたら内線してください」
リリィは佐藤と違い、変わってしまった利津に最低限話すだけでそれ以上関わろうとはしない。今は1人でいたいのだろう、と配慮しての対応だ。
リリィはカートの上にのった夕食をお盆ごとテーブルに置くと散らばっている貴族衣装を拾い、それらをカートに乗せ、頭を下げ出て行った。
また1人になった利津は暫く天井を見つめていたが、ゆっくりとした所作で立ち上がった。残りの貴族衣装も脱ぎ、カゴに放ってシャワーを浴びた。リリィがしっかり準備してくれた白の浴衣に袖を通し、癖のある髪をタオルで拭きながら窓辺に向かう。
ふわふわとした雲の中から細い三日月が出たり入ったりしている。夏とは違う薄い雲。木々の葉は枯れ、ぴゅーっと高い音を鳴らしながら風が木々の隙間を通る。その音だけで外は帰ってきた時よりも寒くなっていることがよくわかる。間違っても窓を開けるべきではない。
だと言うのに、利津は窓の鍵を開けた。開ける理由はない。何故開ける。利津の身体はその問いに答えを見出せぬまま窓を開け放った。
そこで利津の記憶はぶつっと途切れる。
次に利津が意識を取り戻したのはまだ日が昇り切らない早朝。地平線の向こう側から昇る冬の日は、どの季節よりも強く冷たく辺りを照らす。その眩しさに利津は布団を握り目を細めた。
「……朝、だと?」
ゆっくりと覚醒し始めた頭で利津は布団を跳ね除けるように上半身を起こし辺りを見渡した。
昨夜開けたはずの窓は閉まっている。だが、カーテンはされておらず、強い光が部屋全体と利津を照らしていた。はらりとおちてきた銀色の髪がチラチラと光る。利津は煩わしさから低く唸って前髪を上げた。
最近の利津はどこかおかしい。それを周りも知っていたし、利津自身も違和感を覚えていた。何が起きているのか、思案する。しかし利津の意思とは関係なく何かに阻まれ考えることをやめさせられる。姿形のない何かが思考を支配している。
気味が悪い、と利津は無意識にひくっと喉を動かし生唾を飲んだ。
「……?」
昨日まであったはずの不気味な渇きがなくなっていた。
――――
冷たい風が訓練場を包むように吹いている。雪はまだ見られないが、それでも見上げれば薄い雲が溶けたように空を覆っていて冬の訪れを知らせていた。
利津は午前の会議後、訓練用の軍服に身を包み城と訓練場を繋ぐ外廊下を歩いていた。行く者たちは今まで以上に気を張り、利津の姿が見えると同時に端に寄って頭を下げた。利津はその者たちに目もくれず歩を進めていると見慣れた姿を見つけ足を止めた。
「よっ、公爵殿下」
利津の幼馴染である西和田隆は片手を上げて軽く挨拶をした。利津と同じように訓練用の軍服は着ているが、襟元が緩められ見るからにやる気がなさそうだ。
殿下という割にくだけたままの言動に利津は目を細め小首を傾げた。
「何の用だ」
「あー?会ったからご挨拶をってな」
「用がないのならば俺は行く」
「真面目だねえ。ほんとのところ、俺たちに訓練なんか必要ねえのにさぁ、やらされてさぁ、気が滅入るっつーか……」
「俺は人間の部隊を任されている。お気楽な貴様と一緒にするな」
「あーね。吸血鬼である俺たちが持てない銃を構えた人間たちの訓練ねえ……。後ろから撃たれそうで俺は嫌だな」
軽口を叩く隆を無視し、利津は隆の横を通り過ぎた。すると隆は「待てよー」とさも楽しそうに声を発し、利津の横に並んだ。
「昨日の今日くらい休みたかったな」
利津は答えない。
「というより、なんだって北は来なかったんだ?東はわかる。国から外された今、東の連中が王城に入ることはできないからな。でも、北は?アイツは真祖として参加すべきだっただろう」
「知之が来た」
「は?……あぁ、北の弟か。それにしても利津は偉いよな。俺は頼まれてもダンピールとなんか話したくないね」
隆は大げさに溜息を吐いて首を振った。利津はちらりと隆の様子を見て足を止めた。翡翠色の鋭い視線に隆は乾いた笑いを浮かべて両手を上げる。
「俺は忙しい。貴様と遊んでいる暇はない」
「遊んでるわけじゃねえって」
「ならばさっさと要件を言え」
じれったそうに睨む利津の視線に隆は一つ呼吸を置いてゆっくり口を開いた。
「影島は本当に人間になったのか?」
利津は無意識に拳をぎゅっと握った。一つトーンを落とした隆の声に自然と表情は固くなる。
「言ったよな。アンタんとこの運転手の穢れた血を飲んだら人間になったって。そんなことあり得ないんだよ。吸血鬼は真祖だろうが元人間だろうが不死身じゃない。あんな汚い血を飲んだら即死のはずなんだ」
利津の心がざわつく。それでも平然を装いツンとした表情で隆を見据えた。
「俺が嘘を言っていると」
「嘘か真か、そんなことどうだっていい。影島は無事なのかと聞いてるんだ」
「生きていただろう。あの日、美玖と対峙した時確かに」
「その後は?」
隆のターコイズブルーの瞳が核心に迫る。利津の握った拳に力が入り爪が食い込みじわっと血が滲んだ。甘い真祖の血の香りが隆の鼻腔をくすぐる。飲んだのは一度だけだと言うのに身体はよく覚えているもので、咥内が濡れることに気付きハッと息を飲んだ。首を横に降り意識を逸らすと隆は利津の手に視線を向けながら更に問うた。
「利津。吸血はどうしている」
昨夜、知之にされた同じ問いがふってきて利津は内心で呆れた。
吸血鬼は血が必要だ。利津だって知っているしわかっている。けれども今は必要ない。
何故。わからない。
利津は努めて平然を装いふっと口角を上げた。
「俺には必要ない」
「そんなわけねえだろ」
「ただの真祖如きに何がわかる」
「は?」
「他の吸血鬼は血を欲するだろう。父も祖母も眷属を持っていた。俺は己を律し、必要なくなった」
強く握っていた手のひらは緩められ、利津は歩き始めた。隆とこれ以上話すつもりはない。言わずともわかる行動に隆は立ち止まったまま利津の背を睨んだ。
「……アンタだって、ただの真祖だろうが」
隆の呟きは誰にも届くことはなく空に溶けた。




