42話
人間の王が住む城は山の上にある。久木野の邸宅がある山の一つ隣。城下町からはどちらも見上げる形にはなるが、人間の王城はあけっぴろげに見え、久木野邸は森に囲まれほとんど認識することはできない。
びゅーっと冷たい空気が王城を通り抜ける。城門である鉄格子は僅かに揺れカタカタと音を鳴らす。冬が近づいてきているため空気はツンと澄んでいて、鼻で息をすると乾燥して少しだけ痛い。空は雲一つなく、真っ白に近い満月が煌々と石畳を照らしていた。
「……っ、さみぃな」
男性の平均身長を優に超えた大柄な男はブラウンのマフラーの中に鼻先を埋めた。男のザンバラに切り揃えた硬い黒髪は風に吹かれても靡くことを知らない。革で出来た黒ジャケットとジーンズのズボンを身にまとった男は堂々と城門の前に向かった。
「貴様、何者だ」
城門前で見張をしていた兵が二人、男が近づくと即座に銃を構えて威嚇した。男は細い目をぎろりと動かし、二人を鋭い眼光で見ると一つ溜息を吐いて両手を上げた。
「叙勲式だろ?呼ばれたからわざわざ来たってえのに、話通ってねえの?」
「貴様ような身なりのものが式典に出れるわけないだろう!」
「はぁ……」
今にも撃とうとする兵に男は顎をしゃくりマフラーから口元を見せニヤリと笑った。
「な、な……」
兵は男の態度に狼狽えた。撃たれても構わないと言うような挑発的な表情に兵の一人はぐっと歯を食いしばった。何かして来たら撃ち殺してやる、と。
だが、その問答も終わりを告げる。静かだった森の中から隠れていた鳥たちがギャーギャーと鳴き一斉に飛び立った。兵たちと男の視線が自然と空を仰ぐ。
「何をしている」
騒々しい音がシンと静まり返る。騒ぎ立てていた鳥たちがぴたっと鳴きやみ森へ帰っていく。兵達は門の向こうから聞こえた声に振り向き、現れた人物に目を見開いた。
「た、大尉殿……」
「おい、久木野。何とかしろ」
狼狽える兵たちをよそに、男はくすっと鼻を啜り、門の向こう側にいる久木野利津に声をかけた。
癖の強い銀色の髪を揺らし式典用の貴族が着る正装に身を包んだ利津は門の前にたどり着くと翡翠色の瞳で男を睨んだ。
「大尉殿のお知り合いですか?」
兵の一人がおずおずと声をかける。兵が向ける銃口が僅かブレると大柄な男はそっと手を下ろした。
兵の問いに利津は眉間に皺を寄せゆっくりと口を開いた。
「北佐倉だ。門を開けろ」
「えっ、コイツが?」
驚くのも無理はない。大柄な男が仮に北佐倉だとするならば何もかも話が違うからだ。
そもそも、利津を含め吸血鬼たちにはいくつか種類がある。一つ目が利津のような生まれながらにして吸血鬼である真祖。彼らは真祖同士の間から生まれた純血の血を継ぐ者たちで、およそ銀色の髪に緑色の瞳をしている。
北佐倉とは真祖名家の一つ。兵たちも男の見た目が利津と似通っていたならばすぐに信じられたであろう。だが、男は黒髪に黒い瞳を持ったただの人間の男にしか見えない。
「……元人間てことか?」
もう一人の兵が誰に問うでもなくぽつりと呟いた。
真祖は人間を吸血鬼化し、自分の眷属として従えることができる。真祖が噛みつき、その者に自分の血を与えて契約が完了する。元人間のため牙が大きく生えるだけで見た目は人間の頃と変わらない。ただし、血を欲する時、自分が人間であることを解除した時、その見た目は変貌する。真祖に似て非なる質の悪い白髪に、瞳の色は血によく似た真っ赤に変わる。
だが、どうだろう。兵は訝しげに男の顔を覗き込んだ。元人間の吸血鬼ならば牙が生えているはずなのに、男の口元は人間と変わらない。
「聞こえなかったか?さっさと門を開けろ」
冷たい空気を切り裂くように更に冷えた声が兵たちの前をすり抜ける。静かに怒りを見せる大尉、利津に一人の兵は一度敬礼をして門を開けた。
大柄な男は「ありがとよ」と低い声で礼を言って門の中に足を踏み入れた。それを確認した利津は男を待つことなく踵を返して城の方へ歩き始めた。男はふーっと大袈裟に溜息を吐いて利津の後ろをついて行った。
「友之」
突然名を呼ばれ男、北佐倉友之は顔を上げ眉を顰めた。名で呼ばれたことが気に入らずチッと舌打ちをしたが、こちらを伺う利津の視線に少しだけ駆け足になって利津の隣に並んで歩いた。
「どうやってここまで来た」
「バイク」
「当主はどうした」
「兄貴か?来ねえよ」
「……」
「来ねえもんは来ねえの」
知之の答えはまるで駄々っ子が言い訳をするような口ぶりだった。利津はギロリと横目で睨むと呆れたようにフンと鼻息を鳴らしてそっぽ向いた。
城の入り口に着くと兵たちが敬礼をし、一人が木製の大きなドアをゆっくりと開けた。完全に開く前に人一人が通れるくらいに開くと利津はズカズカと中に入っていった。戸惑う兵たちに友之は片手を少し上げて会釈し、利津について行った。
王城の中は吹き抜けになっていて、大きな階段が真正面に、まるで玉座のように居座っている。天井は高く、煌びやかな電飾は見上げてもキラキラ輝くだけで細部までは認識できない。行き交う城の兵やメイド、執事たちは利津を見つけると仕事をやめ、足先を揃えて背筋を伸ばした。
利津は目もくれず中央の階段を登っていく。友之はぺこっと小さく頭を下げて利津について行った。
「……相変わらずだな、お前」
「何がだ」
「一つ挨拶してやれば労いになんのによ」
「俺には関係ない」
「少しは大人になったと思ったんだがな」
「知之は俺よりも7、8歳年上なだけだろう」
「……大分離れてんだろうが」
軽口を叩きながら城の廊下を堂々と闊歩した。すれ違う人間たちは利津を見ると即座に端に避け、深々と頭を下げる。
利津は軍では若いながら大尉の称号を得ており、爵位は生まれが公爵家であれど個人で子爵を賜ったほどの男。そして今日、子爵を返上し、利津の父が持っていた公爵の地位を引き継ぐ。22歳の若造には重すぎる地位だというのに利津は緊張するそぶりもない。
そうこう話しているうちに目的の部屋に着いた。利津はドアノブを捻り開けると中に入ってドアを抑えた。何も言わずとも中に入れということはすぐに理解できて、友之は「お邪魔します」と行って足を踏み入れた。
壁の端から端までびっしりと何かの模様が編み込まれた絨毯は廊下のものより比べ物にならないくらいフカフカしている。バイクに乗るため重たいブーツを履いている友之が歩いても跡一つつかない。黄金色に輝く照明が辺りを柔らかく照らしてはいるが部屋全体はどちらかと言うと暗い。豪華絢爛なソファが二台とローテーブルが一つ。全身鏡とその隣にスライド式のドアがある。
友之は断りなくソファにどかっと腰を下ろした。利津は部屋の鍵を閉めるとスライド式のドアを開けた。利津が手探りで部屋の中の電気をつける。友之は少し身体を傾けて中を覗いた。
壁同士で突っ張ったポールにはあらゆる衣装が掛けられていた。サイズも豊富なのかあらゆる大きさの同じような服がずらりと並んでいる。
「XLか?」
衣装部屋から利津の声が聞こえ、友之は顔を上げた。
「あ?」
「服」
「んなわけねえだろ。3Lか4Lだ」
がさごそと衣装同士が擦り合う音が聞こえ、暫くして何着か抱えた利津が友之の座るソファの上に持ってきたものを投げ捨てた。
「何だよこれ」
「着替えろ」
「お前の?」
「……そう見えるのか?」
「いや?」
「ならば無駄口を叩かずとっとと着替えろ。式典まであまり時間がない」
相手にする気はないと利津は踵を返してまた衣装部屋に戻って行った。友之は置かれた服をじろっと見るだけで着替えようとしない。徐にジャケットの内側ポケットに手を入れ綺麗に畳まれた紙切れを一枚取り出した。
さほど時間が経たない間に利津は箱を数個持って友之の元へ戻ってきた。31、32、33と靴のサイズが書かれたそれらを友之の足元にどさっと落とした。
「着替えろと言ったはずだ」
「式典は出ねえよ」
「なに?」
「俺なんか出たら大騒ぎだろ。一応北佐倉家として祝福しにきただけだ」
「着替えて式典に出ろ」
「出ねえよ」
頑なに否定する友之に利津は眉間に皺を寄せた。だったら何をしにきたんだと口を開きかけた時、さっきまでなかったものが友之の手の中にあり利津は首を傾げた。
「それは何だ」
「ん?あぁ、ほら。前血を抜いた時の結果」
「……?」
利津の眉がぴくっと上がる。全く身に覚えがないと言いたげな利津の表情に友之はきょとんとして見返した。
「お前がやれって言ったんだろーが」
「何の話だ」
とことんすっとぼける理由がわからず友之は紙を開いて利津の前に差し出した。
「1ヶ月くらい前。親なし吸血鬼が牢に入っててソイツの血じゃないと飲みたくねえってテメェが駄々こねたやつだ」
差し出された紙を手に取ると利津の表情は一変した。そこにあったのはどこでも見る血液検査の結果なのに、利津はまるで往年の宿敵にでもあったかのような目でその紙を睨み、友之に投げつけた。
「っ、乱暴にすんなよ」
投げつけたと言っても一枚の紙はふわっと舞い、友之は溜息混じりに諌めながらその紙を手に取った。
「テメェが調べろって言ったよな?」
「帰れ」
「……あ?」
式典に出ろと言ったり、帰れと言ったり。利津の言動に友之は細い目を更に細めて利津を睨んだ。
血を抜け、と言ったのは確かに利津だった。本来ならば利津が最も仲良くしている西和田隆にでも頼めばいいのにと友之は思った。けれどもその時の利津の声があまりに必死だったことを思い出す。
なのに今はどうだろう。利津は最も愛していたであろう男のことが書かれた紙を拒絶し、友之を鋭い目で睨んでいる。
「二度とこの男の話をするな。名を見るだけでも吐き気がする」
何があったか、利津に問うことは難しそうだ。友之は大人しく紙をテーブルに置いてソファに深く体を預けた。
すると重い空気を裂くようにドアをノックする音が響き返事を待たずに開けられた。
「あーここにいた。ちょっと利津様、皆探してるんすから早く行ってくださいよ」
気の抜けた声と共に20代に入ったか、まだ10代か微妙な男が入ってきた。紺色を基調としたスーツに革靴、式典用に固めているのか髪はオールバック。茶色のくりっとした目が友之を捉えて男、佐藤はぺこっと頭を下げた。
「……コイツか?」
友之はスンと鼻を動かし、ソファから立ち上がって佐藤に近づいた。
「え?え?何すか」
佐藤もそこそこ身長があるのに友之の大きな大きな身体の前では小さい。頭ひとつ分違う筋骨隆々な男が近づいてきて佐藤は一歩後ずさった。
だが友之は悪びれる様子もなく近づき、佐藤の肩をがしっと掴んだ。
「ひぃっ」
佐藤が喉に引っ付くような高い声をあげても友之は離れず、それどころか知之は佐藤の首に顔を近づけスンスンと匂いを嗅いだ。
「やべえな……コレ」
「は?」
低く呟く友之に佐藤はがたがた震えながら利津に視線を向けた。利津は腕を組みじっと2人を見つめているだけで何も言わない。
助けてくださいよ、と佐藤が言おうとする前に友之が身体を離した。
「コイツの血を飲ませたのか?」
「……だったらなんだ」
この話はまたあの男に通ずる。そう思うだけで利津は奥歯を噛み、ギロリと友之を睨んだ。友之はその視線に気付きながら佐藤の肩をポンと叩いて利津に向き直った。
「あの男はどこだ」
「人間に戻ったから追い出した」
その言葉で佐藤はピンときてつい名を呼んでしまった。
「世那さんのことすか?」
利津は鬼の形相で佐藤と友之を睨んだ。
あの日、田南部美玖が捕まった翌日。影島世那はもういなくなっていた。リリィが部屋を訪ねた時にはおらず、利津が世那の使っていた部屋のベッドで眠っていた。
目を覚ました利津にリリィが軽い口調で「世那さんは?」と聞いた。たったそれだけにも関わらず利津は火山が噴火したのかと思うほど怒り狂った。たまたま近くを通った佐藤が諫めてことなきを得たが、明らかにおかしい主人に佐藤も疑問を持っていた。
「そうそう、そのセナって奴。生きてるのか?」
怯える佐藤とは違い、友之は日常会話のように普通に尋ねた。式典用に上げた利津の前髪が一房眉の下に垂れる。
「生きていようがどうなっていようが、俺が知るわけなかろう」
「テメェの眷属だったんだろ?今まで1人も眷属を作らなかったお前が、そのセナって奴だけ大事にしてただろ。なのになんでキレてんだ?ここにもいねえし、……」
「黙れ!」
つらつら話す友之に利津はとうとう苛立ちが爆発し、牙を剥き出しにして叫んだ。ビリビリっと壁が震え、佐藤は耳がキーンとした。
「その男の名を出すなと言ったはずだ。佐藤、貴様も」
「久木野」
怒る利津に友之は冷めた目で見つめながら首を傾げた。
「吸血はどうしている」
世那の血だけを欲していた利津が、今ここにはいない男からどうやって血をもらえると言うのだろう。
佐藤も不思議に思っていたため、恐怖しながらじっと利津を見つめた。利津は世那がいなくなってから一度も血を飲んでいない。田南部美玖によっておかしくされた血液パウチも数日で元の物に戻ったと知っても利津は欲しがらなかった。
あれから1ヶ月。利津は狂うどころか以前よりも肌艶が良くなり健康的になった。血を飲んでいないのに。
「必要ない」
「んなわけねえだろ」
「さっさと着替えて来い。佐藤、ソイツの着替えが終わったら連れてこい」
そう言って利津は落ちた前髪を掻き上げて部屋から出て行った。
バタンと強めにドアが閉まり、佐藤は大きく肩を落とした。
「何なんだよ、あの人……」
元から身勝手なところは多かったが今は目に余る。佐藤は折角固めた髪をかき乱し、ネクタイを緩めて振り向き、ハッと息を飲んだ。
「あ、やべ……」
利津の客人がいたことを忘れていたため、佐藤の顔から血の気が引いていく。
友之はフッと鼻で笑うとテーブルに置いた血液検査の結果の紙を取り、佐藤に差し出した。
「ご主人サマがいらねえって言うけど渡しとく」
「なんすか、これ」
「セナとかいう奴の検査結果」
「はぁ」
数字とアルファベットの羅列に佐藤は首を傾げた。
「全ての値が正常値だった。何も悪いところもなく健康体だと書かれてる」
「そっすか」
「ただ……」
「ん?」
「血の型が普通とは違えんだ。現代の人間が持ってるのはほぼほぼ見つかっている。だからって未発見の珍しい型、という物でもなく、存在しないと言った方が正しい」
佐藤には難しすぎてわからない。むーっと唸り出した佐藤に友之は「とりあえず保管しとけ」と言ってソファから立ち上がった。
「着替えられます?」
「いや帰る。長居して吸血衝動が出てもメンドクセぇし」
「誰が?」
「俺が」
「……?」
ますます訳がわからなくなって佐藤は首を傾げた。頭のてっぺんから足の先まで人間でしかない友之が血を飲む姿が想像できない。元人間の吸血鬼特有の牙もないのにと。
「ダンピール……?」
佐藤がぽつっとつぶやいた言葉に知之はフンと鼻を鳴らした。
ダンピールとは真祖と人間の合いの子のことを指す。現在の帝国では最も禁忌な存在ゆえ知らない者の方が多い。知っていてもそれを口にする者は存在しない。
だが、佐藤は何の気なしに呟いた。そして真祖の名家、北佐倉を名乗っている目の前の男は肩をすくめて笑っている。
「他で言うなよ」
その声色はとてもやさしかった。




