5話
食事も摂った。風呂も入った。水も飲んだ。左足の枷は邪魔だが久しぶりに筋トレもした。
夜も更け、日差しに怯えることなく過ごせる時間帯になったにも関わらず世那の身体は調子が悪い。
ここ久木野邸で捕まり目を覚ましてから2日目の夜のことだった。
捕まっている身としては贅沢すぎる生活を世那は送っていた。だが、圧倒的に足りないものが一つだけあった。軍にいるころは毎日支給されていたアレがない。歩ける範囲の部屋の中は探した。女が持ってくる食事についてきたかと思ったりもした。
血液の入ったスパウトパウチがない。
「うぅ……っ、クソ」
頭の中で何かがガンガンと鳴り響く。地鳴りのような音が鼓膜を震わせ、吸血衝動による渇きがすぐそこまで来ていた。満たそうにも足枷が邪魔で部屋を出ることもできず、枷に埋め込まれた銀が更に吸血鬼化を急く。
毎日甲斐甲斐しくやってくる女に噛みつくこともできたが、世那はそうしなかった。
生身の人間に直接噛みついたことがないわけではない。国から支給される幾人の血が入ったいつのものかわからないスパウトパウチなど目ではないほど美味しいことも知っている。そんなことはわかっていた。
けれども世那は嫌だった。身体は吸血鬼になろうと人間であった自分を否定したくない。人間は噛みついたりしない。血を欲したりなどしない。獣のような行為は残された人間の矜持に背く。
父さんと母さんが見たら悲しむに違いない。
そう思って世那は行動に移さなかった。
しかし、その理性も限界に近い。世那はとうとう布団の中にいるのも辛くなり、地面に転がるように倒れた。どしんと背中を打ち痛みを覚えたがそれどころではなく、喉を掻きむしられるような飢えに耐えようと這いつくばって床に爪を立てた。
欲しい、欲しい、血が欲しい……。
「2日で降参か?」
いつの間に入って来ていたのだろう。ドアがバタンと音を立てて閉まり、コツンコツンと嫌味たらしく革靴が鳴りながら誰かが世那に近づく。世那は音だけで誰かわかった。ここにやってくるのは世話をする女と、憎らしいあの男だけだ。
「っはぁ……、クソ」
世那は溜息交じりに怒りをぶつけた。人間のものではない白髪を揺らし、真っ赤な瞳で利津を見上げると、思っていた以上に利津は近くにいて靴の先が世那の鼻に当たるところまで来ていた。利津はいつもの白軍服を纏い、光のない翡翠色の瞳で世那を見下している。部屋の明かりはついていないが利津も世那も夜目が利くため、閉められたカーテンの隙間から入る月と星々の煌めきだけで顔を認識できる。
こんな奴の顔、見たくもない。
そう思っても世那の視線は利津を捉えて離さない。意志とは関係なく身体が求めている。真祖の甘い血を。
世那の喉ぼとけがごくりと上下に動く。その動きを利津は見逃さず、ニヤリと口角を上げた。
「血が欲しいか?」
ヒクっと世那の肩が動く。見上げている視線は少ない光を吸い込んでギラギラと輝き、人のものではない牙がカチカチと音を鳴らす。
欲しい、よこせ。早くその甘美な血を……。
本能に飲み込まれた世那の視線に利津は熱い吐息を一つ漏らすと興奮に似た悦に酔いしれながら腰に装備している短剣を引き抜いた。そしてぎらりと光る抜き身の刃を躊躇なく左手で強く握り皮膚を引き裂くように一気に動かした。その瞬間、鮮血が溢れボタボタと床を濡らしていく。
「っは、……」
鋭くなった嗅覚で匂いをたどり、顔を上げた世那は利津の手を見ると無意識に笑みを浮かべていた。餌を出された犬のようにだらしなく口を開け、溢れる唾液を喉を鳴らして飲み込んだ。こちらによこせと、指先から血が滲もうと世那は何度も何度も執拗に床に爪を擦り付けた。
「メイドに噛み付くことなく耐えたのか?……ふふっ、いい子だ」
問うたところで世那は返事をしない。利津は世那の前にしゃがみそっと手を差し出した。
真っ赤な鮮血が見えると世那はうっとりとした笑みを浮かべ大きく口を開いた。吸血鬼化で鋭くなった牙を見せ利津の手のひらにねっとり舌を這わせた。
人間の理性を手放し獣になった世那を利津は恍惚とした表情で見つめた。
「世那……」
血を啜ることに夢中な世那には届かないとわかっているからこそ利津は溜め息交じりに名を呼んだ。
熱を持った舌が利津の手のひらを滑る。舐めても溢れる鮮血を舌の上に乗せると世那は喉を鳴らして飲み込んだ。血液パウチでは味わえない濃く甘い真祖の味。
程なくして息が整い始めると世那の髪色は元の黒色へと戻っていった。
やっと自分がしていた行為に気付くと恥ずかしさと悔しさが入り混じった複雑な気持ちになって動きを止めた。
すると利津は反対の手で世那の髪を乱暴に掴んで上を向かせた。翡翠色の瞳はぎらりと光り、歪んだ笑みを浮かべていた。
「始祖の血を貪り満足したか?」
「っ……」
「感謝の意も唱えられないのか」
「うるせえ」
「ククッ、まぁいい。次に発作が起きた時が実物だな」
世那は悔しそうに表情を歪ませ、髪が抜けることを覚悟し首を振って利津の手から逃れた。勢いが良すぎたため、引き抜かれていく髪は利津の手のひらを切り、細い傷が何本か出来てしまった。そして間を置かずうっすら血が滲んだ。
利津は口端を上げその傷をわざとらしく世那に見せつけた。
「支給される血など二度と飲めない体に変えてやる。始祖……いや、俺の血に溺れて狂ってしまう程にな」
見せつけるように指先の切り傷に舌を這わせ、ニヤリと笑みを浮かべると利津は部屋から出て行った。
パタンとドアが閉まると同時に世那は床に頭を叩きつけた。やっと自分に下される罰が何なのか理解してしまったのだ。
ゆったりした生活、衣食住に困らない夢のような生活。ただこれは利津の道楽に過ぎない。本当の目的は血に飢えた世那で弄ぶことだろう。腹立たしさと悔しさとどうにも出来ない自分の無力さに世那の目からは一粒の雫が溢れ床を濡らした。
―――
「おはようございます」
開け放たれたままのカーテンの日差しを避けるように世那は布団にくるまっていた。
3日目ともなれば何時頃に女が来るか大体予想がつく。世那は布団の隙間から女と時計を見た。短い針は10を指している。
女は世那と視線が合うとにっこり笑い、もう一度だけ挨拶をした。
テーブルには食事が置かれ、女は窓際に向かうと丁寧にカーテンを閉めた。室内灯をつけ再び世那の元へ戻ると視線を合わせるようにしゃがんだ。
「今日は床の掃除をします。あ、食事にはかからないようにフードをかけてありますが、モップで擦るだけなので塵が舞うことはないと思います」
そう言うと返答を待たず女は脱衣所に向かった。水を汲み、モップを濡らすと柔らかく絞ってそっと床にあてた。慣れた手つきで滑らせながら昨夜血で汚してしまった床を何も言わず丁寧に掃除している。
仮に何があったかわかっていてもそれについて聞きたくなるものだろうが、女は何も言わない。
世那はおずおずと布団の中から出た。女はちらりと世那をみるとにっこり微笑みぺこりと頭を下げた。人懐っこい笑みに世那は何だか気まずくて視線を逸らしてしまった。今まで向けられたことのない優しい表情に戸惑ってしまったからだ。
「なあ……」
世那は勇気を振り絞って声をかけた。すると女は手を止め、きちんと世那に向き直り首を傾げた。
「はい、なんでしょう?」
「……」
「……?」
礼が言いたかった。苦しくなるだけの日差しを遮ってくれたこと、ご飯を運んできてくれること、掃除をしてくれること。何より軽蔑の眼差しを向けないでいてくれること。
何も言えず黙り込んだ世那に女は小さく笑って話し始めた。
「仕事ですから」
「……え?」
「ご主人様の命でお仕事をしているだけです。何も気負わずのんびり暮らしてください」
ご主人様と言うのは利津のことだろう。懐柔したいのか、した末に冤罪を罪と認めさせ何か企んでいるのか。だとすればなぜこんな回りくどいことをするのか。
考えれば考えるほど世那にはわからなくなっていった。
「よかったらご飯どうぞ。掃除も終わりましたので私はこれで失礼いたします」
世那が考えあぐねいているうちに女は早々に掃除を終わらせるとモップを片手に頭を下げ、掃除道具を手に持って部屋のドアを開けた。
「名前!」
咄嗟に大きな声が出てしまい世那は顔を真っ赤にして俯いた。女は目を丸くしたが、優しく微笑み答えた。
「リリィです」
「リリィ……?」
「ここの人たちは私をそう呼びます」
そう言うとリリィはもう一度だけ丁寧に頭を下げた。
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