41話
「うっ……」
低く呻くような世那の声に利津は目を開け顔を離した。
「……世那?」
利津の呼びかけに答えることなく世那の手が利津の肩を押して強く引き離す。反動で利津が数歩下がると、世那はうずくまるようにしゃがんで頭を抱え叫んだ。
「あ゛ああぁあ!」
「っ!?」
地響きのような唸り声が部屋に響く。小さく体を丸めた世那がまるで何かに襲われたような悲鳴を上げた。
眷属化した。ただそれだけでこんな状態になるなど聞いたことがない。
真祖は人間に噛み付き、血を与えると同族に堕とす。それも完璧な吸血鬼ではなく陽を苦手とし、主人の前では意思すら出せない劣った存在へ変えてしまう。そこに苦しみはないはずなのだ。寧ろ快楽に酔い、吸血鬼にしてくれた真祖に感謝するくらいだと言われている。
なのにどうして目の前の世那は苦しんでいるのか、利津には全くわからなかった。ただどうすることもできない歯痒さに利津は片膝をついて世那の肩に触れようと手を伸ばした。
「……なんで、こんな……」
世那は鼻にかかった声で叫ぶように呟いたため利津の手が世那に触れることは叶わなかった。泣いているのか肩がひくひくと動き、頭を押さえていた手はいつの間にか顔を覆っていたが、世那は真っ白な髪を揺らして利津を見上げた。
「なん、だと」
顔を抑える指の隙間から見えた世那の瞳の色に利津は開いた口が塞がらなくなった。
純血の吸血鬼、真祖は産まれた時から緑色に近い瞳を持っている。髪は銀色に近く、一目で人間ではないと判断できる。
一方、元人間の吸血鬼は、元が人間だったため見た目だけでは吸血鬼だと判断するのは難しい。血を吸うために変化した牙は八重歯にも見えるし、何より通常時が人間の時のままだからだ。ただ、吸血をする時、血が枯渇した時に真祖よりも質の悪い白髪、真っ赤な瞳に変化する。
世那の瞳の色は元の黒色か、真っ赤でなければおかしい。なのにどうしてだろう。世那の瞳はまるで太陽のように金色に輝いているではないか。
「……始祖」
利津が呟いた瞬間、世那から異様な覇気が利津に向けられた。最も始祖に近い血を継ぐという田南部美玖から出されるものなど比べ物にならない。利津の膝から力が抜け体勢を崩し尻餅をついた。
――怖い、こわい……。
らしくない感情が利津の心を占め無意識に体がわなわなと震える。
真っ青な顔の利津に世那は自分の見目が元の鞘に収まったことを知らされる。世那は全てを思い出した。記憶の波がどっと押し寄せて悲鳴をあげたが、もうすっかり理解してしまった。
ここにはいられない。
世那は涙と鼻水でぐっしょり濡れた顔を浴衣の袖で拭い、利津の脚を跨ぐように立つと片膝をついて座り両手を伸ばして利津の頬を包んだ。
世那の指先は変わらず優しい。利津は誘われるまま顔を上げた。当然のように世那の視線と利津の視線が交わる。その瞬間、あれだけ震えていた利津の身体がぴくっと動かなくなった。
「……あ」
利津は思い出した。その昔、おむつも取れない自分が母から聞いた寝物語を。
『ねえ、利津。皆には内緒よ。……始祖様はね、とってもすごいの。お日様みたいな目で何でも叶えられるのよ』
皆が知る『始祖』のおとぎ話にそんなものは存在しない。しかし、利津の母はしーっと口元に人差し指を当てながら何度も何度も利津に教えた。
『もし始祖様に会えたらお日様の目の時は絶対見つめたらダメ。あなたの大事なものを全部持っていかれるわよ』
遅かった。
利津は世那の瞳に捉えられ、息すらすることを忘れてしまった。金色の瞳の奥、更にもっと奥を見つめたい。まるで催眠にかかったように利津の思考が止まる。
「『久木野利津は影島世那が大嫌いだ』」
世那は決して強くなく、いつもの優しい声で残酷な言葉を投げかける。
何故……
利津は問いたくても問うことができなかった。意識が濁っていき、自分が自分ではないような感覚に飲まれていく。気持ちは拒絶しても利津の口は正反対の言葉を紡いでいった。
「世那が、きらい……」
「そうだ。お前は世那が憎くて、憎くて許せない。名を聞くことすら嫌悪に思うようになる」
「俺は……世那が憎い」
「利津は世那が大嫌いだ」
「……俺は」
世那が紡ぐまま利津は答えた。だがその度に利津は心の中で「違う」と何度も否定した。世那が納得すればこのやりとりも終わるかもしれない。もしかしたら、始祖の力に抗えるかもしれない。
一筋の希望に全てを託し利津は賭けた。ずっと心の中で否定していればいい。
嫌い、違う、嫌い、違う、嫌い、嫌い、嫌い……。
言霊というものは本当にあるのかもしれない。未知の始祖の力も相まって利津は徐々に世那の言葉の通り、世那が嫌になってきた。
愛しい、好き、ずっとそばにいたい。なのに憎らしく、嫌い。なんで、どうして?
問いたくてももう声すら出せないのに、世那の呪詛は止まらない。
「『影島世那は人間になり、この屋敷を出た』」
光を失った翡翠色の瞳はゆっくりと瞼に閉ざされ、利津は意識を失った。
「……」
利津が意識を失う瞬間、世那は利津の頭をしっかり支えて抱き寄せた。癖の強い銀色の髪に顔を埋めた。ツンとした爽やかな香りの中にどこか甘い匂いがする。嗅ぎなれた大好きな匂い。
「……利津」
世那の口から愛が溢れる。この気持ちをもう無かったことにはできない。
冷淡で、傲慢な男。それでも利津はどんな時も世那を中心に考えていた。
世那はいつの間にか絆されていた。足に枷をつけられ、苦手だった陽の光を浴びせられ、血も最低限しか与えられず、人権すら認められない環境におかれていたというのに。
なのに今はどうしてこんなにも愛しいのだろう。いや、初めて会った時からもう堕ちていたのだろう、きっと。
思えば思うほど世那の胸は苦しくなっていく。まるで心臓を掴まれじりじりと締め付けられるような感覚。痛みにも似たそれを誤魔化すように世那はもう一度利津を強く抱きしめ、そのまま抱き上げた。脱力しきった身体は元の体重よりも重く感じるが、世那は軽々と持ち上げ自分が使っていたベッドに下ろした。柔らかな羽毛布団をそっと引き寄せ利津の肩口にかけてやると、一度だけ利津の頭を撫でた。
世那の視線が自然と窓の方へ向く。いつだったかリリィが準備してくれたままのポロシャツとズボンがハンガーにかかっているのを見つけ、世那はそれらに着替えて裏口から外へ出た。
初めて世那がここにやってきたのはまだ少し肌寒い春だった。田南部美玖という親に操られ、何の因果か久木野利津に再会してしまった。
「……会いたくなかった」
世那の呟きは冷たい秋風にかき消され誰にも届かない。始祖である証の銀髪は月明かりを受けてより一層輝き、金色の視線は自然と空へ向かう。じゃり、じゃり、とラウンドアバウトを囲う砂利を踏む音だけが空しく響き、時折冷たい風が吹いて濡れた頬を撫でる。
大きな門の前に来ると世那は地面を軽く蹴って飛び上がり、門の向こう側へと降り立った。同時に世那は髪と瞳を人間のものへと戻す。始祖の力で開かれていた聴覚や視覚は一気に狭まる。気配も人間のものになると世那はふーっと溜息を漏らした。ここに来ることは二度とない。地面を踏みしめ一歩進もうとした。
「あれ?世那さん!」
邸宅から少し離れた屋根付き駐車場の方から佐藤が手を振っている。人間の感覚にしたせいで佐藤に気づくことが遅れた。
今し方門を越えたのを見られただろうか、銀色の髪だった自分を見ていないだろうか。
世那の不安をよそに佐藤は駆け足で近づき門の鉄格子に触れ寂しそうに眉尻を下げた。
「行っちゃうんすね」
「……あぁ」
疑うことのない佐藤の言葉に世那は平然を装って小さく頷いた。門の外側にいることの違和感すらないのか佐藤はニコニコ笑いながら話し続けた。
「世那さんに噛まれて血抜かれてフラフラだったのを久木野の吸血鬼が輸血してくれて。あ、勿論人間の血をですよ。いやぁ、利津様が主人になってから改心したのかな。俺やリリィに対しての当たりも前ほどじゃなくなったんすよ」
そう言いながら佐藤はニカッと笑ってポケットから煙草を出して火をつけた。ジュッと先が焼け、フワッと苦い煙が世那の方へ流れ込んできた。
「っ!?」
間近で紫煙を嗅いでしまい世那の表情は曇った。親なし吸血鬼の時に嗅いだ時よりもずっとずっと濃く感じ、逃げ出したくなる。
佐藤が愛煙する煙草は対吸血鬼用で、吸血鬼が嫌う臭いが煙となって出てくる。この場からすぐに離れたい。だがここで逃げ出せば人間ではないと言うことがバレてしまうだろうと思い、世那は拳を強く握った。
「どうしました?」
鋭い佐藤の問いに世那はひくっと喉仏が上下した。佐藤はそれを見逃さず煙草を深く吸い、携帯灰皿に押し込んで消した。なるべく世那にかからないように顔を背けて煙を吐き出すと人懐っこい笑みを浮かべて首を傾げた。
「そういえば、人間にもどってどこに行くんすか」
「……まだ、決めていない」
「そっすか」
そう言うと世那は踵を返して森の方へ足を向けた。ふわふわと香る煙草の匂いが耐えられない。
「そだ、世那さん」
その場を離れようとした世那に佐藤はもう一度声をかけた。世那は仕方なく足を止め、顔だけ振り向いた。
「ここの邸宅の屋根、セキュリティ効いてないって知ってました?」
「そんなこと大声で言うなよ」
「あと……」
佐藤が押したせいでガシャンと鉄の門が揺れる。
「利津様には世那さんしかいませんよ」
二章 完




