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40話

 世那は利津に言われた通り地下の牢獄ではなく、与えられていた部屋に向かった。部屋の中は以前と変わっておらず、美玖に命ぜられる前に読んでいた本まできちんとテーブルに置かれたままだった。

 ベッドの上には着替えと小さなメモ書きが置いてあるのを見つけ手に取った。


『お疲れ様です』


 丸く可愛らしい文字でそれだけが書かれていた。何度か見たことのあるリリィの字。たったそれだけの言葉でさえ世那は心が熱くなった。戻ってきた。その事実がとても嬉しかった。


 世那は着替えを持って脱衣所に向かい、軍服を脱いで何日かぶりのシャワーを堪能した。ギトギトになっていた髪は何度か洗って漸くさらりとし、体も磨くように丁寧に洗った。

 タオルで体と頭を拭き、下着を身に着けると着慣れた紺色の浴衣に袖を通して帯を腰にくるりと巻いた。もう何度着たかわからない浴衣からほんのり香る懐かしい匂いに自然と頬が緩む。


「終わったか?」


 聞きなれた声が聞こえ、世那は脱衣所のドアを開けた。

 いつ入ってきたのか利津はベッドに腰を下ろしていた。世那と目が合うと立ち上がり近づく。指先が触れる距離まで来ると利津は手を伸ばしほんのり水気の残った世那の黒髪に触れた。


「……利津?」


 世那が名前を呼ぼうと利津は答えなかった。黒髪を指の腹で滑らせながら小首を傾げ目を細めて笑っている。まるで慈しむような所作に世那の背筋がひやっと冷たくなる。


ーー何か嫌な感じがする。


 世那がそう思ったところで指から髪がするりと抜けた。利津の表情はもう固いものに変わっている。


「あの日ここに侵入したのも、父が亡くなったのも、全て世那の意志ではないことがはっきりした。もうここにいる理由はない」


 脈絡のない言葉に世那は目を丸くした。


「出て行けってことか?」

「……そうだな。もう吸血鬼ではないのだから好きにしろ。日の光に怯えることも、誰かわからぬ親に怯えることもない」


 利津はこの計画を思いついた時から決めていた。佐藤の血で世那の吸血鬼化が治った暁には世那を自由にしようと。

 世那は元々吸血鬼が嫌いだった。両親を殺した仇と同じ生き物に堕ちて苦しかったに違いない。

 そもそも世那がここにいなければならない理由をもう見つけられなかった。

 

「俺はいない方がいいのか?」


 世那の声は震えている。何故、どうして今更切り捨てることを言うのか理解できないと言いたげな表情と声。

 利津は視線を逸らした。本心を見抜こうとする世那の視線に居た堪れなくなって踵を返しその場から離れようと重心を動かした。

 しかし、次の瞬間には利津の足は止まってしまった。


 鼻腔をくすぐる甘い血の香り。発生源がどこからかなど振り向いて確認しなくてもわかる。

 利津の大好きな匂いに理性とは関係なく本能がここにとどまれと命令する。


「何をしている」


 利津は裏返りそうになる声を必死に平然を装って低く尋ねる。


「吸血がまだだろ」

「貴様はもう人間で、そのような行為はもう……」

「利津には必要だろ」


 利津は口をはくはくと動かし、今にも噛みつきたいのかごくりと喉を鳴らした。それでも残った理性が邪魔するのか利津はぐっと歯を食いしばると世那に背を向けたまま扉の方へ歩き出した。

 みすみすと逃すわけがない。世那は少しだけ張り上げた声で名を呼んだ。


「利津」

「っ……」


 名を呼ばれただけで利津の息が詰まった。

 本当はここにいて欲しい。だから捕縛しても軍や警察に突き出すことはしなかった。自分の血だけを与え中毒にさせたのもここにいる理由をつけたかったから。真祖の血、いや利津の血でなければダメなのだと世那の身体に、本能に教え込んだ。

 でもダメだ、と利津はぎゅっと唇を噛んで俯いた。


 そう決心したが、世那は悲しげな声で更に言葉を重ねた。


「俺の血は嫌か?……あぁ、あの女が飲みたくないって言ってたな。不味いんだっけ」

「そんなわけ……」


 とうとう怒りに任せて利津は振り向いてしまった。ドアはすぐそこにあった。ノブを掴んで開けて出ていけばよかったのにどうしても世那の言葉が許せなかった。


 だって世那の血はどんな血液よりも甘く、香しく、全てを満たしてくれる。


「だったらいいじゃねえか」


 利津の内心に答えたような言葉に利津は無意識に頬をひくっと動かした。

 世那は自分の浴衣の襟元を緩め首筋に爪を立てていた。加減なく切り裂いたため、傷口からはじわっと鮮血が溢れ、首から肩と鎖骨へ枝分かれして流れている。今すぐ噛みつきたい、その衝動を抑えるように利津は後ずさったが、コツンとドアに踵が当たり動けなくなった。


「っぅ……」


 理性は崩れていき、鼓動が高鳴る。噛みつけ、そう本能が告げる。震える身体は立っていることも出来なくなっていき、とうとう膝から崩れ落ち屈んでしまった。


「駄目だ……っ。世那は人間でいるべきだ。俺が噛めばまた吸血鬼に堕ちることになる」


 自問自答するように呟く利津に世那は蠱惑的な笑みを浮かべた。風呂上がりのせいもあって妙に色っぽい。

 世那は利津と視線を合わせるように僅か屈んで血濡れた指先を利津の前に差し出した。


「舐めろよ」


 ずくんと利津の腰が重くなった。愛しい男からの命令にに利津は目頭が熱くなり、視界がぼやける。なけなしの理性はモヤのように掻き消えていき、香しい世那の血に誘われるまま利津は舌先を出して指先に舌を這わせた。

 どこか恥ずかしそうに目を伏せ銀色の睫毛が震える。白い肌が桃色に染まり、真っ赤な舌は指先の血をあっという間に舐め取った。

 妖艶。その言葉が妙にしっくりきて世那は困ったように笑いながら深い溜息を漏らした。


「利津、ここ噛んで」


 濡れてテラテラと光る指先で世那は自分の首を指差した。利津の視線は世那の指から首へ移り、鮮血が目に入ると利津はぐっと身構えた。

 利津の翡翠色の瞳が欲に濡れ、真っ赤に染まっていく。今舐めたはずなのにもう喉がカラカラで息も上手く出来ない。

 それでも言わなければならないと思い、利津は眉間に皺を寄せ鋭い眼光で睨んだ。


「いいか。俺は始祖でなくとも真祖だ。俺が噛みつけば世那はまた……」

「利津の眷属になれるんだろ」

「人間ではなくなるのだぞ。陽の光を浴びることも出来なくなり、人とは違う欲に苦しめられる。……人間の貴様にその不幸を背負わせる理由がどこにある」

「あーもう。めんどくせえな」


 そういうと世那は利津の後頭を掴むと自分の首に顔を近づけさせた。目の前に鮮血を見れば理性などあってないようなもの。世那もそうだった。利津の血が見えれば興奮し、耐えられない渇きに抗えない。

 世那の思惑通りやっと保っていた利津の理性は瓦解し、世那の肩に腕を回し強く抱きついて鼻先を世那の首筋に擦り付けた。


「っは、ぁ……」

「不幸かどうか俺が決める」


 いつだったか、前にも世那は同じことを言っていた。利津が嫌う眷属は自分で考えることはしない、というより出来なくなる。それは世那も例外ではない。利津が吸血鬼の親となれば世那はもう利津の前で笑うことも怒ることもなくなる。わかっている。わかっているが、利津は荒くなる呼吸に身を任せて唾液でびっしょり濡れた舌を世那の首筋に這わせた。


「噛んで、利津」


 世那の一言を待たず、利津は口を大きく開け深く息を吸うと露わになっている首筋に牙を突き立てた。


「っぅ……」


 世那は吸血鬼だった頃に噛み付かれた時とは違う強い痛みを覚えた。びくっと震え、体に力が入り、自然と息が詰まる。利津の髪を強く握り痛みを逃がしているとすぐに違う感覚が脳を痺れさせていく。

 人間の自分が地に落ちていくような、それでいて甘く、知らない悦び。田南部美玖が噛みついた時のことはよく覚えていない。だがきっと比べ物にならないはずだ。

 だって今、利津に噛みつかれていることの方がずっと気持ちいいに決まっている。


「……は、あぁ。すげえ……」


 ジュルジュルと血を啜る音だけが世界の全てになっていく。利津の熱い息遣いと、柔らかな銀色の髪の感触、利津の性格を表してるのかと思うほどツンとした爽やかな匂いが何も考えられなくしていく。

 久しぶりの吸血のせいもあって利津はなかなか離れようとはしない。既に牙を立てることはやめているが丹念に舌を這わせ、傷口がなくなるまで舐め続けるつもりかしつこい。

 利津がひと舐めする毎に世那の力は抜けていく。髪をつかんでいたはずの手も今は添えられているだけになっていた。


「……世那」


 異変に気付いた利津は少しだけ顔を上げて世那の顔を覗き込んだ。乳白色の髪、真っ赤な瞳。世那の見た目はもう人間のものではなくなっていた。

 利津は眉尻を下げて世那の頭を撫でた。欲に濡れた真っ赤な瞳が利津の翡翠色の瞳を射抜く。自分を欲している。それだけで利津はたまらなくなり口元が震え、歪な笑みを浮かべた。


「俺の血が欲しいか?」


 世那は呆然としたまま答えない。


「ふっ、眷属化とはこういうものだったな。主人の承諾がなければ噛みつくこともままならぬか」

「っ……うぅ」


 焦らす利津の言葉に世那は牙を見せるように歯を食いしばり唸る。


「いいぞ、飲め」


 許可が下りると同時に世那は大きく口を開き利津の肩を乱暴に掴むと利津の首に牙を立て皮膚を裂いた。


「ッ……」


 以前ならば利津は本当の親ではなかったため相当の痛みを伴った。だが今はどうだろう。少しも痛みを感じることはなく、むしろ牙が皮膚を裂く瞬間、絶頂にも似た快楽が利津の脳を犯していった。


「は……、ははっ、いい。世那、……世那」


 真祖の、利津の濃い血は喉を潤すどころか更なる渇きへと誘うようで初めての吸血かと思うほど世那は何度も噛み付いた。

 獣のような呻き声を漏らしながら世那は利津の首に顔を埋めている。利津は優しく撫でながらうっとりしたように溜息を漏らし、世那の頭に頬を擦り寄せた。


 何度経験しようと世那への吸血も、世那からの吸血も甘い。甘ったるくて身体が痺れる。

 過度に吸血され利津の意識はふわふわし始めた頃、世那は顔を離した。


「……」


 いつもなら人間の形に戻るはずが世那は真っ白な髪、真っ赤な瞳のまま呆然と立ち尽くしている。

 利津は拒絶しなかった。それどころか目を細め世那の頭を優しく撫でた。変わり果てた世那の様子を気にすることなくいつものように話しかける。


「世那、俺が眷属にしたいと思ったのは貴様が初めてだ」

「……」

「何も心配はいらない。今も昔も、この先の未来も俺が世那を愛していることに変わりはない」


 利津は初めて本心を告げた。一世一代の告白。しかし世那は表情ひとつ変えず虚な目で利津を見つめているだけで答えることはない。利津が、本当の親がそばにいる限り世那が自分で考え行動することはない。

 それでも構わないと思って利津は噛み付いたのだ。世那が望むなら、たとえ自分の考えに反していても叶えたいと、そう思って。


 利津は世那の柔らかな髪をまた一撫ですると両頬を包むように手を添えた。


「……愛している」


 胸が熱くなるような、指先から血が引くような、形容しがたい感覚に利津はふっと息を吐いた。そしてもう一度だけ愛を呟き、顔を傾け世那の唇に自分の唇を重ねた。

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