39話
美玖は人間の警察に連れていかれた。真祖の頂点である始祖でさえ、人間には敵わない。下位の真祖である利津や隆に命令をしようとしたが、人間に戻ってしまった世那のせいで全てうまくいかなくなってしまった。
物々しかった廊下に夜の静けさが戻る。リリィは散らばった紙を拾いどこかへ行ってしまった。世那はふーっと息を吐いて髪をかきむしりながらその場にしゃがみこんだ。久しぶりに動いたせいか、それとも人間に戻ってしまったせいか身体が重い。そんな世那を利津は見つめながら自然と口元が緩んだ。
いつもの世那がそこにいる。それだけで利津は鼓動が高鳴る。そして嬉しさを隠すように視線を落とした。
「どうなってんだよ」
納得がいかない男が一人、怒気と呆れとどうにもならない気持ちが入り混じった声を漏らした。利津は世那から視線を隆に向ける。隆は眉を顰めて利津を睨んでいた。
「何がだ」
「何もかもだ、ふざけんな」
「さっきも言っただろう。貴様なら怒って乗り込んでくるだろうと」
「そりゃ、……あんな状態のアンタを放っておけるほど俺はロクデナシじゃないんでね」
「……ふっ」
腕を組みながら利津は片方の手を口元に持っていき指先で唇を隠すように笑った。弱り切っていた利津はどこにいってしまったのかと思うほど普段の調子を取り戻している姿に、隆はまだ何か言いたい気持ちを大きな溜息を吐くことで抑えた。
「わぁった。……あーね、利津の手の上で転がされていたわけだ。俺は」
「俺の思い通りに事が運んだように見えているのか?」
「そうだろ?ムカつく……」
幼馴染として多少信頼されていると思っていた隆の気持ちはいとも簡単に否定された。自分ばかりが利津を心配していたのだとわかればわかるほど、隆は寂しさを覚え舌打ちをして視線を逸らした。
子どものように不貞腐れてしまった隆に利津は淡々と言葉を足す。
「貴様が俺を案じてここに乗り込む。俺に裏切られたと思っても尚、世那が俺の元へ来る。隆と美玖が言い合っている隙に裏切っていたはずのリリィが大元のデータを盗む。そして美玖が自白する。一つでも外れていれば叶わなかったことだ」
さも何でもなさげに言う利津に隆は更に眉間の皺を深くしてじっと睨んだ。
「嘘も大概にしろ。アンタがそんな賭け事するわけがない」
「そうか?」
「だって他人任せすぎるだろ。利津らしくない」
らしくない。そう言われてしまえばそうだな、と利津はまるで他人事のように鼻で笑った。
全てはあの日から始まった。
――――
「お仕事ですよ、ご主人様」
清と清子が亡くなった日。美玖が始祖の力を使い利津を屈服させ、出て行ったあの瞬間。リリィは利津を見下ろしながらぽつりと呟いた。利津は答えず床に這いつくばったまま強く拳を握っている。
何も言わない利津にリリィは近づいて視線を合わせるようにしゃがみ、強く握られた利津の手に自分の手を重ねた。
「反撃の準備をします」
思いもよらない言葉に利津は目を見開き、顔を上げてリリィを見上げた。さっきまで冷たかったはずのリリィはいつものようにまっすぐ熱い視線で利津を見つめている。何故そんなことを言い出したのか、利津には理解できなかった。対するリリィは戸惑いを隠さない利津に微笑みかけた。
「敵を欺くならまず味方から。兵法の基本です」
何故兵法なのか。そんな疑問が利津の頭に過るが聞けなかった。リリィが鼻息を荒くし、まだ続きがあるのだと話し続けたからだ。
「私のご主人様は久木野利津様しかいらっしゃいませんよ。それに……一応吸血鬼の性分は理解しているつもりです。人間よりも弱肉強食がはっきりとしているのですから、真祖であるご主人様が始祖に近いあの女に正攻法で勝てるわけがないということも」
まったくもってその通りなのだが如何せん思いやりのない言葉に利津は意表をつかれ目をぱちくりさせた。常人ならば傷ついただろうがいつものリリィがそこにいることにほっとする気持ちの方が強くあって利津は俯き苦笑した。
「舐められたものだな……」
「正攻法では、と申し上げました。ご主人様一人ではどうにもならない。私も、佐藤も、そして世那さんも。どんなことがあってもご主人様のために動きますよ」
自分の主人が女に跪かされ、情けない姿を見せたにも関わらずリリィは普段と同じように淡々と返答する。リリィの決心はずっとずっと固いものだった。始祖である久木野、と言う名に縛られていたのは利津だけでリリィはそこに価値を置いていない。久木野利津個人に従っているのだとはっきりと告げられ、利津は胸の内がきゅっと苦しくなった。
「お待たせしましたぁ……って、何してんすか二人とも」
ノックもなしにドアが開いた。帽子を指に引っ掛けてくるくる回しながら入ってきた佐藤はしゃがんだままの二人を見てぶっと噴き出して笑った。お気楽な佐藤に二人はぎろりと佐藤を睨むとすくっと立ち上がって淡々と話し始めた。利津の瞳からはもう絶望の色は消えていた。
「美玖が帰ってくる前に簡単に済ますぞ」
「かしこまりました」
「えー、ちょっと。もう仕事モードすか?」
佐藤のツッコミを無視して利津とリリィはもう一度佐藤を睨んだ。すると佐藤は諦めたのか両手を上げて苦笑した。
「はいはい。わかりましたよ」
降参の意を示す佐藤に利津は「ん」と小さく頷くとリリィに視線を戻した。
「リリィ、貴様は今まで通り美玖の傍にいながら隙を探ってほしい。今のような小さなものでいい。大きな隙は俺が作る。美玖はもう俺が何もしてこないと思っているだろう」
「はい」
しゃんと背筋を伸ばしてリリィは頷く。
佐藤は美玖が帰ってこないか確認するため廊下に繋がるドアにもたれかかった。命令されたわけでもなく自分で考え行動する佐藤に利津は口端を上げ小さく頷きリリィに向き直った。
「とは言え、美玖の気まぐれで噛みつかれれば終わりだ。眷属化は理屈じゃない」
「わかっております」
「今ならまだ断ってもいい」
「ふふっ、心配してくださるんですか?」
はたから見れば冷血漢の久木野利津から出てくるとは思えない言葉かもしれない。だがリリィも佐藤も利津の本性がわかっているため、二人ともくすっと小さく笑った。
「大丈夫ですよ。佐藤からもらった煙草もあります」
そういうとリリィはエプロンの内側ポケットから煙草ケースを取り出し利津に見せた。微かだが佐藤が愛煙する煙草の匂いが利津の鼻の前を通り抜け、利津はふぅんと頷き腕を組んだ。
「少しなんですけど、こうやって揺らすと匂いが出てくるみたいです。絶対ってわけじゃないですが吸血したくなくなるのではないかと」
「……わかった。お前に任せる」
「はい」
柔らかい口調でリリィは言っているが並々ならぬ覚悟に利津はまっすぐリリィを見つめ頷いた。女だから子供だからと甘やかすことのない利津にリリィは一層背筋を伸ばして返事をした。
「情報の交換は二人に任せる。俺が余計な接触をすれば美玖に疑われかねない」
「利津様」
ドアにもたれかかっていた佐藤が背中を離して利津に向き直った。
「なんだ」
「俺が申し上げるのもなんですが、俺とリリィのこと疑わなさすぎじゃないですか?」
真面目な話をする時だけ佐藤は妙に丁寧な敬語を使う。佐藤は本当に利津を案じているのだろう。その気持ちもわかっているため利津は落とすように笑った。
「俺にはもう何もないからな。単なる真祖で、まがりなりにも血のつながった父と祖母を亡くし、その罪が世那に向かってしまっている。……美玖が本当の親だろうと予想できていたのに、止めてやることができなかった」
「世那さんはやってないっすよ」
「1番に銃口向けた奴の台詞か?」
「そりゃあ、ご主人様守るのが俺の役目すから」
ふんぞり返る佐藤にリリィは呆れたと言わんばかりに大きく溜息を漏らした。だが利津はそんな佐藤の態度も平穏に感じて小さく笑った。こんな風にリリィと佐藤と話ができるようになったのは少なからず世那のおかげだと利津は感じた。
――――
その後、リリィは美玖の傍を片時も離れなった。リリィと利津が会話することは一切なく、リリィは美玖に言われるまま仕事をこなした。時には美玖に忠誠を誓い、弱気な演技をする利津を敵のように睨み、美玖からの愛を二人で取り合った。そうすることでより一層美玖はリリィを信じ、そして利津のことも信用してしまった。
佐藤はというと、リリィが部屋に戻ってくると必要な情報を集め、探し、まとめていった。利津の送り迎えの際に口頭であったことを伝え、普段と変わらないことを装った。もとより美玖は佐藤に見向きもしなかった。吸血鬼が嫌う血の匂いを佐藤が発していることもあるが、そもそも性格が全く合わなかったことが功を奏した。
「で?」
すっかり黙り込んでしまった利津に隆は低く唸るような声で尋ねた。
「影島からどうして吸血鬼の気配を感じないんだ。病気じゃねえんだから治ったりするもんじゃ……」
隆の問いに利津はふふっと小さく笑った。お前はもう知っているだろうと言うような視線と笑みに隆ははっと息を飲んだ。
隆はその昔、利津に頼まれてある男を検査したことがある。利津が気まぐれで拾った「佐藤」という人間。彼は北の違法薬物中毒になっていた。人間がおよそ服用してはならない薬から、人間には害がなく吸血鬼が飲めば死に至ると言われているものまで。普通ならば生きていられないはずがアンバランスな薬を交互に服用したせいで佐藤の身体は毒と薬が妙な均衡を保っている状態にある。
そんな状態にあるので並みの吸血鬼ならば佐藤に噛みつこうとは思わない。
ただそれは並みの吸血鬼ならば、の話だ。
隆の眉間の皺が更に濃くなって利津を睨み、ドカドカと床を踏みつけ利津に詰め寄ると胸倉を掴んだ。
「アンタまさか……」
「貴様に相談しなければならない義務はないだろう」
何も悪いことはしていないと言いたげな利津の視線に隆の背筋は凍った。
冷淡。その言葉で収まるほど生易しいものか。いや、違う。北の薬で穢れた佐藤の血を世那に飲ませた。それはつまり一か八か、世那の命をかけて根拠のない実験をしていたということになる。
まるで狂人を見るような視線に利津はふーっと溜息を漏らし、胸倉を掴む隆の手を掴み引き剥がした。
「自惚れるな。別に医学的な話ができるのは貴様だけではない」
「他に誰がいるってんだ?」
詰め寄る隆に利津はとうとう飽きて世那の元へ向かった。世那は近づいてくる利津を見上げようと顔を上げたが、利津が自ら片膝をつき視線を合わせることになった。
「部屋に戻れ。リリィに風呂の準備をさせている」
有無を言わせない物言いに世那はぐっと言葉を飲み込んだ。言いたいことはたくさんあった。けれども利津が後でと言うなら従った方がいいだろうと世那は思い「わかった」と頷くと世那は立ち与えられていた自分の部屋へ帰っていった。
「利津!」
話の核を伝えようとしない利津に隆はとうとうキレた。普段の穏やかさはなく、牙をむき出しにしながら利津を睨む。
「あの男、佐藤の血は危ないと言わなかったか?たまたま影島が無事だっただけで。いや……後から何か副作用が出るかもしれない。その時アンタはどうするつもりだ?」
まくしたてるように話す隆に利津はじろりと視線を向けた。
「隆、まだ話し足りないだろうが後日まとめて報告する」
「……なんだよそれ」
散々関わらせてふざけるな、と隆は言いたかった。しかしこうなってしまった利津はどんなに問おうと無駄だ。
「……あーね。どうなっても俺は知らないからな」
それだけを言うと隆は踵を返して久木野邸を出た。
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