38.5話
(side:世那)
牢に閉じ込められてから利津は一度も来なかった。
佐倉とかいう大男が血を抜く算段をしてから定期的に久木野の眷属がやってきた。満タンになったパウチを空のパウチと変えていく。佐倉の腕がよかったのか1日に取られる量は一定で俺に負担はほぼない。抜いたこの血はどこに向かうのか、考えなくてもすぐわかる。
パウチが回収される度に利津を思った。彼が何をしてどう過ごしているかわからないが、俺の血を飲んでいるとしたら嬉しい。
その事実が俺を高揚させる。利津が俺を欲し、俺の血を体に流し込んでいる。それだけで多幸感いっぱいで満たされた。だがそう思えたのもおそらく一日か二日。じめっとした地下牢の中で時間の感覚も与えられず、ただ食事をさせられ血を抜かれる生活に段々気が狂い始めていた。そして気づく。
食事では満たされない欲が渇いていく。血が欲しい。やってくる久木野の眷属を襲ってもよかったのかもしれない。ただ俺はそうしなかった。
その後の罰が怖かったから?……違う。利津の血が欲しいんだ、俺は。
ここ最近は互いに血を求め合えていたのに。
不公平だ。
ギリギリと聞きなれない音が聞こえる。無意識に俺は歯を食いしばり歯ぎしりしていた音だった。満たされない渇き。欲しい、欲しい、利津の血が欲しい。
馬鹿言うな。利津の父さんと婆さんを見殺しにしておいて。
昼夜もわからない俺の思考は段々と混濁していく。時折ふっと目が覚め理性的になり、答えのない自問自答が始まる。
罪は償えない。ならば生きている間は、利津が求める間は俺ができることをしよう。
俺にできること?
俺が利津にしてやれることなんてないだろ。
だって利津は田南部美玖と結婚して、真祖の王として、公爵として、俺が交わらない世界で生きていくのだから。
俺のいない世界で。
そう思うと苛立ちと吐き気と黒い感情で頭がいっぱいになっていた。
ふざけるな。
お前は俺のものだろ。
そう思ったところで俺ははっきりと自覚してしまい、強張っていた体の力が抜けた。気づけば岩肌の壁に頭をこすりつけ涙と嗚咽が止まらなくなっていた。泣いているのか笑っているのか自分でもわからない。ただ……。
どうしようもなく利津が欲しい。
――――
佐藤に噛み付いた瞬間、咥内いっぱいに溢れる汚水のような血液が流れ込む。匂いも味もおよそ人の体に流れているとは思えない苦味に俺はすぐに口を離した。
「ゔぇっ……ッ」
胃から込み上げてくる吐き気に耐えられず俺は牢に備え付けられていた便器に顔を突っ込んで吐いた。始めは飲んだ血液を吐いた。でもすぐに胃の中は空っぽになって空の嗚咽だけが何度もやってくる。
「ははは、そんなに不味いのかぁ」
のんきな佐藤の声が妙に響く。
俺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を便器に突っ込んだまま息を整えようと深く息を吐いてはほしいままに新鮮な空気を吸った。すると背中にぽんと大きな手が乗っかり、優しくさすってきた。相手が誰かなんて確認しなくても今ここにいるのは俺と佐藤だけだ。
「っ、何のつもりだ」
「介抱してるんすよ。あーあ、折角噛ませてあげたのに吐くなんて失礼だねえ」
字面通りの失礼な言動に俺はトイレの水を流し佐藤の手を振り払って洗面台に向かった。蛇口を捻り細い筋を作り落ちてくる水で口を濯ぎ、顔を洗った。顔を上げると調度いいタイミングでタオルが視界に入り、奪うようにとって佐藤を見た。
「……あ?」
「ん?」
俺のあげた声に佐藤はきょとんとした目で俺を見ながら首を傾げた。
おかしい。何かがおかしい。俺はタオルで顔の水気を取って佐藤の顔を覗き込んだ。
佐藤は自分が吸血鬼になったと言っていた。確かに利津の気配が佐藤にあった。けれども……なんだ。
俺の疑問に答えるように佐藤はフフンと鼻を鳴らし自慢げに笑った。
「だーまされたー」
意表を突かれた俺に対して佐藤は自分の口に指を入れ見せつけるように犬歯をむき出しにした。そう、佐藤に牙はなく人間の犬歯がそこにあるだけだったのだ。
「血飲まなさすぎて少しの利津様の気配でもキレるんすね。いいっすか?俺から利津様の気配がするのには理由があるんです。ひとつめ、利津様が俺の首に穴を開けた。まぁ、医療用の針でぶすっと刺しただけなんで勿論吸血鬼化はしません。ふたつめ、嫌というほど利津様が俺に抱きついてきた。んでみっつめ、俺が利津様の血液を飲んだから」
「血を?人間のお前が?」
「くそまずいっすよ。2度と飲みたくない」
べーっと舌を出して嫌そうに首を振る佐藤は俺の知っているいつも通りの佐藤だった。俺は何だかホッとしてつい笑ってしまった。笑うと思っていなかったのだろう。佐藤は口から手を放してフンと鼻を鳴らしてさも怒っているように腕を組んだ。
「笑ってる場合じゃないっすよ。自分がどうなったか確認したらどうっすか?」
「え?」
「わかんない?ほら、洗面台のとこに鏡あるでしょ。サビてるけど少しは見えんじゃない?」
俺は言われるまま洗面台の壁に埋め込まれているなけなしの鏡に自分の姿を映した。真っ黒な髪と黒い瞳の俺がじっとこちらを見つめている。
「俺、だな」
「そりゃそうでしょうよ」
佐藤の意図がわからず俺は食い入るように自分の顔や髪、目に入るものを確認した。でも特に変わったことはない。
わからない俺に佐藤はとうとう嫌気がさして声を張り上げた。
「察し悪いなぁ!アンタ血飲めてなくて狂ってたんでしょ。なのに今は?」
言われるまで気づかなかった。2日も吸血をしなければ狂ってしまっていたのに今の俺はどうだろう。さっきまであんなに欲しかった血への欲がない。
「どう言うことだ、これ」
俺は鏡越しに自分を見つめながら自分の頬に触れ、髪の生え際、指を突っ込んで口を大きく開けた。佐藤と同じように人間の犬歯があるだけで吸血鬼らしいところなど初めからなかったように跡形もなく消えていた。
元人間の吸血鬼が人間に戻るなど聞いたことがないし、あるわけがない。存在するなら今頃、親なし吸血鬼と呼ばれる存在が街中を闊歩しているわけがない。
「説明して分かるかな?」
「あ?」
馬鹿にされたような気がして俺は威嚇するような低い声を漏らして振り向いた。佐藤はというと悪気なさそうにいつもの調子でニマニマ笑っている。
「大丈夫。世那さんが信じていれば何も悪い方向にはいきませんよ」
「信じるって何を」
「アンタをだよ、世那さん」
じめっとして暗い牢の中であることは変わらない。なのに佐藤の今の言葉で世界が明るくなったように感じて俺の胸は熱くなった。いつから俺は俺を信じなくなっていただろうか。
「さて、利津様んとこ行きますか」
そう言いながら何故か佐藤は備え付けのベッドに座って壁にもたれかかった。
「座ってんじゃねえか」
「いやぁ、少し休憩させてくださいよ。アンタに血を抜かれてフラッとしてるんすから。あぁ……これ、1時半になったら教えてください。ジリジリ鳴ると思うんで」
佐藤は言いながら自分のスマートフォンをポケットから出して俺の前に差し出した。
「大体痛いのわかってて噛まれてやったんすよ。俺すごくないっすか。だから……ね?」
平然を装っていたが佐藤は限界だったようで話しながらベッドに倒れ意識を飛ばした。
佐藤の言う通り血がなくなって貧血気味なのもあるだろうが、相当緊張していたのもあるのだろう。単身で血に飢えた吸血鬼のところへやってきて、もしかしたら死ぬまで血を吸われるかもしれない恐怖と闘っていたはずだ。主人の、利津の命令を遂行することだけを糧にここまできて身体を差し出した。
俺は枷の外れた自由な足で佐藤の眠るベッドに近づいた。ごつごつした岩でできた床に膝をつき、佐藤の顔を覗き込んだ。佐藤はすぅすぅと規則正しい寝息を立てながら眠っている。俺が噛みついた傷口はまだテラテラと輝いているが血はもう止まっている。
佐藤が起きたら作戦を聞こう。今は俺ができることをするしかないのだから。
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