38話
虚空を舞う紙が全て床に落ちると利津は美玖の頭から手を離した。驚愕し言葉を失う隆に美玖は慌てて床に落ちた紙を拾った。
そこに書かれていたのは、血液パウチに始祖の血が混ざりこんでいるという事実。つまり美玖の血がどれだけ混入されたかを表にしたものだった。
「っ、何よこれ」
美玖は髪を振り乱しながら利津に向き直った。利津と同色の緑色の瞳は怒りで濡れ、焦点の定まらない視線で美玖は利津を睨む。
その視線に怖気づくことなく利津はゆっくりと口を開いた。
「貴様がやった悪事だろう」
「私はやっていないわ!」
「ならばそんなに慌てる必要はないな、やっていないのだろう」
美玖は跪き書類を束にして持ちながら全て拾おうと躍起になっている。その様子を冷たい目で流し、利津は一枚の紙を持ったまま立ち尽くす隆に微笑んだ。
対する隆は利津の蠱惑的な視線と笑みに背筋が冷たくなるのを感じた。
「貴様なら乗り込んでくると思った」
「……え?」
「美玖と隆、貴様らが言い合っている間に必要なものは全て揃った。……長居するのも良し悪しだな、美玖」
地面に這いつくばったままの美玖は鬼の形相で利津を睨み見上げ、金切り声を上げた。
「何を言っているの?だって部屋にはリリィが……」
「お待たせしました」
利津の横からひょいと現れたリリィはもう一つの書類を片手に頭を下げた。ゆったりとした動きで顔を上げたリリィの瞳にもう美玖は映っていない。今まで向けていた愛情の一欠けらもなく、ただ冷たく美玖を見下ろしていた。
息をすることを忘れた美玖に利津は黒い笑みを浮かべた。
「リリィを味方につけようと思ったのは見事だ。褒めてやる」
利津はリリィの持ってきた書類を受け取ると何枚かめくり中を確認しながら話し続けた。
「西和田と協力し、始祖の血を入れていることなどすぐにわかった。だがどうしてここまで遠回しに事を運んだかわかるか?」
「……」
利津の質問に美玖は答えない。利津の隣に立つリリィはそんな視線をものともせず立っているが、利津はそうではなかった。
本当の始祖の血を継ぐ美玖の睨みに利津は立っているのもやっとで指先から血が抜けるような感覚を覚えていた。米神からつーっと冷たい汗が利津の頬を撫でる。
「田南部美玖、お前……もしかして」
利津の僅かな表情の歪みに隆は悟った。始祖であると言われる利津が恐れる者などいるはずはない。にも関わらず目の前の利津は美玖を前にして怯えている。
「やっとわかったの?鈍い男」
美玖はフンと鼻を鳴らして笑った。確信してしまえば隆の心の中も利津と同じように怯えた。始祖を前に真祖ができることは何もないからだ。
たとえ利津が証拠を集めていたとしても、美玖が命じればそれはなかったことになる。利津にも隆にも勝ち目はない。
顔が真っ青になった隆に美玖は口角を上げた。
「あなたはよくわかっているわね、利津。久木野の名前さえあれば大抵の吸血鬼は怯える。真祖の王は久木野だと教え込まれているから仕方ないわ。……けれども今、久木野に王がいないとわかればどうなるかしら?本当の始祖の血を引く私に逆らえるものなんていないのよ!」
叫ぶような美玖の声が廊下に響く。それだけで単なる真祖である利津と隆の背筋は針金で固定されたように固まってしまった。
本能が恐れている。従いたい、命令されたい、始祖の王を守るのが真祖の役目だと身体が命令する。
しかし、何も言い返せなくなった隆とは違い、利津は眉間に皺を寄せながらそれでも口元の笑みは絶やさない。
「勘違いするな。貴様を捕えるのは俺じゃない」
僅かだが利津の声は震えている。美玖は弱々しい利津に口角を上げて笑いながら立ち上がるとかき集めた書類を振り上げた。
「ふふっ、なぁに?仮にここにある書類が本物だとして。利津か、そこにいる西和田の坊やが全て破棄してくれるわ。だって始祖の命令は絶対……」
「始祖や真祖と言う概念が通るのは吸血鬼のみだ」
始祖の覇気に負けじと利津は拳を強く握って言い返す。
「それで?」
「人間には及ばない」
「じゃあリリィが私を捕まえるのかしら?あなたたち真祖が私の命令で襲い掛かって、この子が一人で太刀打ちできるとでも?それに、私が噛みつけばこの子はあっという間に私の眷属になる。そうしたら誰が私を裁けるの?」
美玖が狂気に似た声を上げていると、清子が亡くなった時とは違うサイレンの音が邸宅を囲むように鳴り響いた。
「!?」
それは人間が人間を捕まえるために走らせる無数のパトカーの音だった。パトランプが真っ赤に光りながら窓をチカチカと照らす。ラウンドアバウトにびっしり止められたパトカーを窓越しに見やり美玖は固まったが、すぐに高笑いした。
「ふっ、ふふっ、はははは!いいわねえ、利津。最高よ。それで?人間が真祖を捕まえることが不可能なのはよく知っているでしょう。噛み付いてしまえば全て眷属になってしまうものね」
「ふっ……」
利津は鼻で笑うと窓に向かって歩き、鍵を外して窓を大きく開いた。人間の警察たちは利津を見ると一斉に邸宅へ侵入し始める。ここまで来るのも時間の問題になった。
それでも美玖の勝機は揺るがない。美玖は乱れた髪を直すことなく利津を、隆を指差して叫んだ。
「ここは治外法権。法律の埒外。私が全て私の眷属に変えてあげる。あなたも、あなたも!」
「だったら命じてみたらいい。そこの西和田なんて丁度いいだろう」
「おい……」
突然名を呼ばれ隆は目を見開き首を振った。もしここで美玖に命じられてしまえば隆が人間の警察に噛み付くことも出来るようになってしまう。美玖だけではない。真祖である隆も見境なくやってきた人間たちを吸血鬼化してしまう。
なのに、利津は笑みを絶やさない。不気味なほど表情を変えない利津に美玖は顔を引きつらせた。
「美玖、貴様は人間に勝てるか?」
突如がたん、と天井から妙な音が響いた。そこにいるものがそちらに視線を向けた瞬間、利津は嬉しそうに笑み、名を呼んだ。
「世那」
排気口が無理矢理外され、美玖の後ろに黒い軍服を着た男、世那が降り立った。世那は美玖の首に腕を回し動けぬように引き寄せ、美玖の肩に顎を乗せ更に動けないように固定した。
真っ黒な髪は窓から風を受けて揺れ、黒い瞳は利津を捉えるとやんわりとした笑みを浮かべた。
「やっと会えたな、利津」
「あなたは……っ」
世那を後ろ目に見やり、美玖は目を見開き声を上げた。眷属化し、清と清子の元へ向かわせ全ての罪を背負わせた男が今、自分の体を抑え込んでいる。その様子を見ても勿論、利津もリリィも隆も動かない。
世那は美玖をしっかり抱きとめたまま目の前の利津を見つめ、腰に備えていた短刀を握り軽く振って鞘を落とした。カランと豪華な絨毯に鞘が落ちると同時に抜き身になった銀の刃を美玖の首に当てがった。
「動いたら殺す」
美玖は自分に向けられた殺意に息を飲んだ。侯爵令嬢として何不自由なく暮らし、殺意など向けられたことはない。
しかし、それよりも自分を押さえる眷属だった男からある気配がなくなっていたことに美玖の顔から血の気が引いた。
「なんで人間になっているの」
「なに?」
美玖の呟いた言葉にいち早く反応したのは隆だった。
吸血鬼化した人間が人間に戻ると言う話はこれまでにない。非現実的でありえないが、離れている隆でもわかるほど世那は人間でしかない。
美玖は視線をさまよわせたがすぐに次の解決口を見つける。固まる隆と、何でもなさそうにはしているが冷や汗をかき強がる利津。この二人に命令すればいい。
そう思えば美玖にもう一度勝機がやってくる。
「西和田の坊や。『この不届きな男を罰しなさい』」
キンと脳に響く強い命令。隆の足は僅か動いたがすぐに止まってしまった。
「何をしているの?ほら、始祖が命じているのよ!」
「無理だろ……今動けば、影島が……ソイツがアンタの首を切っちまう」
「はぁ?」
「脅しじゃねえ。本当にソイツはアンタを殺す気でいる。アンタもわかるだろ、影島の殺気はこっちに向いている」
「何を訳のわからないことを言っているの!?」
「まだわかんねえのか?」
取り乱す美玖をしっかり抑えながら世那は小馬鹿にしたように笑った。美玖の額には大粒の汗が滲む。
「俺がこうやっている間は誰も動けない。もしここにお前の眷属が来ても、もっと動けねえだろうな」
「な……」
「始祖の命が絶たれるところを見たくないんだよ。まぁ、俺はまざまざと見せられたけどな」
そういっている間も世那は利津から目を離さない。利津もまた世那から視線を逸らさずぎゅっと拳を握った。世那は利津を見つめることで利津が始祖の力に負けないように牽制し、利津は世那を見つめることで正気を保っていた。
ダダダダッ、と廊下の向こうから階段を駆け上がる足音が響く。まもなく人間の警察たちがここに来る。
世那は短刀の刃先を美玖の首に少しだけ食い込ませ、少しでも引けばあっという間に傷を作る位置で固定した。
「美玖」
利津に名を呼ばれ美玖は睨むように利津を見た。それだけでも怯んでしまいそうになる気持ちを耐えるように利津は拳を更に強く握って歯を食いしばる。まっすぐ向けられる世那の視線に一つ息を吐き、ゆっくりと口を開いた。
「始祖は始祖しか殺せない。どんな命令であれ、一介の眷属であった世那が祖母や父を殺すことはできない」
「ふっ、ふふ……」
美玖は涙を溢れさせながら恐怖に歪んだ笑みを浮かべ、唸るように笑った。
「当たり前じゃない。清子は、祖母は私が唯一始祖の血を純粋に受け継いでいると知りながら久木野に戻すことはなかった。……清は、お父様は馬鹿な人。酸素ではなく睡眠薬を吸っているだけだから管を抜けば目を覚ますと伝えたら。ふふっ、本当にそうだと思ったのかしら?ふふふっ、あはははは!馬鹿、馬鹿ばかり!どいつもこいつもばかみたい」
「動くな!」
美玖が叫び暴れるところへ十数人の警察たちが銃と盾を構えてやってきた。決して細くはない廊下の両端にすし詰め状態でじっと美玖達を睨む。
言質をとれたことで利津は牙を見せニヤリと笑った。美玖の言葉が真実で、それを自分は勿論、隆もリリィも世那も、そしてやってきた人間達もはっきりと聞いた。世那への疑いが晴れたことを意味する。
それにも関わらず美玖は絶望の色をにじませた瞳であたりを見渡し笑った。
「下等な人間どもにはわからないでしょうね!始祖は誰も支配できない。たまたま生まれつき吸血鬼だった真祖とは訳が違うのよ!」
「吸血鬼は人間を支配できない。血の縛りも優劣も、人間には無意味だ」
叫ぶ美玖に利津は淡々と答え、合図を待つ人間の軍隊に視線を向けそっと手を上げた。世那が美玖を解放した瞬間、盾を構えた人間達は美玖を押し潰さんばかりで突撃し押さえつけた。対吸血鬼用にと身体中に鎖帷子を着た数人が美玖の口に猿ぐつわを噛ませ、腕を手錠で抑えこんだ。
美玖は抗えぬままあっという間に捕縛され連れていかれた。
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