4話
「いい気なものだな」
低く冷たい声が聞こえ、世那はゆっくりと目を覚ました。
見慣れない白天井に一瞬ここがどこかわからなくなったが、覚醒し始める意識の中で現状を思い出す。世那は額に手を当て溜息を吐いた。
ふわふわの布団から上半身を起こし、はだけた胸元を直しながら声の主、利津を睨みつけた。
利津は朝と変わらず白の軍服姿で立っていた。半日経ったというのに服どころか癖のある銀髪すら乱れていない。
女が閉めてくれたカーテンは再び開け放たれ、日差しはいつのまにかなくなり月明かりがうっすらと部屋を照らしている。電気がつけられていないため暗いが、吸血鬼である世那には関係がない。
「大尉殿がわざわざ何の御用ですか」
慇懃無礼な態度且つ敵意剥き出しの強い語調に利津は口角を上げた。
「ククッ、いいな。……何か思い出したことはあるか?」
「ありません」
「何一つないのか」
「ありません」
世那は会話をしたくないと露骨に出し、ふいっと視線を逸らした。何も思い出していないと言ったところで利津が信じるとは思えなかった。
頑なに表情も変えず視線すら合わせようとしない世那に利津はそれ以上問うことなく踵を返し部屋から出て行ってしまった。
「……何しに来たんだよアイツ」
拷問するわけでも尋問するわけでもなくさっさと去ってしまった利津に世那は首を傾げた。
日が沈みやっと動きやすい時間帯になったとはいえ、特にすることがない世那は布団を被り再び眠りについた。
―――
利津は自室に戻ると鍵を閉めた。同時に部屋の電気をつけ、軍服のボタンを緩めながら部屋の奥へ足を進める。
利津の自室であるこの部屋は簡素な様相で、仕事用の机、椅子、対面ソファ、その間にはローテーブル。窓辺に置かれた深めの一人用ソファとサイドテーブル。壁は他の部屋と同じように漆喰だが、床はどこにでもあるような黒と白のストライプが入ったカーペット。華美なものが多い久木野邸の中では異質な空間だ。
外しにくい軍服のボタンをすべて取り終えると袖からするりと滑らせ脱ぐと対面ソファの背に引っ掛けるように置いた。置く際にジャラリと勲章が擦れ音が鳴る。
利津にとって明日は久しぶりの休日。読みかけの本を読むのもいいかとサイドテーブルに置かれた本に触れ、深めの椅子に腰を下ろした。堅苦しい革靴の紐を緩めソファの横に置き、ワイシャツのボタンを上から数個外しながら空いている方の手でピッチャーからコップに水を注いだ。コップの中で水をくるりと回し口を付けたところで利津から自然と溜息が漏れた。
「……」
本来吸血鬼は日が沈んでから活動を始める。静かだった邸宅の中もざわざわと何者かが行きかう。ご主人様である清のために元人間の眷属たちが準備を始めたのだろう。
勿論吸血鬼である利津も例外ではなく昼間より夜の方が動きやすい。だが、生まれながら吸血鬼である真祖は元人間の吸血鬼と違って日差しが苦手だというわけでもない。
利津は人間のように日が昇る時間を好む。それは父である清と会いたくないことに加え、遠い記憶にある思い出を大切にしたいからだった。
思い出すだけで冷え切った利津の心は温かくなる。くすぐったいような、甘いような、束の間のやすらぎに利津の口元は緩まる。
しかし、流すように動かした視線の先にあったものが目に入り現実に引き戻された。
お前は人間ではない、と実感させられ利津は自嘲した。
「……くだらんな」
そう呟くと利津はピッチャーの横に置かれた真っ赤な液体の入ったスパウトパウチを手に取った。市販のゼリー飲料を飲む時と同じように開け、迷うことなく口に含んだ。
誰のものかわからない血液が咥内から喉へゆっくり流れる。利津は味わうことなく一気に飲み干し、飲み口を締めると元あった場所に置いて再び深く座った。
血液の入ったスパウトパウチは国が管理する血液バンクから無差別に送られてくる。親なし吸血鬼を救済するためのシステムで、本来は利津のような真祖が飲むものではない。
国から支給されるスパウトパウチに入った血液を飲みたがるものは少ない。直接噛みつき、新鮮な血液を飲んだ方が何倍も美味しいに決まっているからだ。
そもそも真祖は噛み付くと人を吸血鬼に変えてしまうため無無闇に噛み付くことはできない。
だが真祖の屋敷の中は法律の埒外として眷属を作ることを許されている。真祖と眷属、あるいは眷属同士が互いに噛みつき血を与え合う。人はそれに何か絆のようなものを感じ、眷属になりたがるものもしばしばいる。
利津は真祖の中でも最も位の高い久木野の嫡男。眷属になりたがるものは多いが利津に眷属はいない。なので吸血は支給される血液パウチに頼っている。
「……」
本当にくだらない、と利津は心の中で呟いた。
どんなに人間を模しても吸血衝動をなくすことはできない。それに今更人間に近づいたところで当の本人が人間ではなくなっている。利津の憧れた人間の少年はもういない。
利津は残りのワイシャツのボタンを外し、軍服のズボンと一緒に脱いだ。
綺麗に畳まれていた白の着流しに袖を通し帯を締めると部屋の片隅にあるもう一つのドアに手をかけた。右に左に、少し上にあげてもう一度ノブを回すとガチャっと音が鳴ってドアが開いた。
部屋の中は今の部屋よりも更に殺風景な様相だ。ベッドが一床あるだけで他に何もない。
利津は倒れるようにベッドに体を預ける。じっとりと体が重くなっていくと今まで張っていた気が緩みあっという間に眠りについた。
―――
眩しい日差しで世那は目を覚ました。ヒリヒリする肌と焼けそうな目の痛みに世那は布団を深く被り、日差しから逃げた。嫌味たらしく利津が開け放っていったカーテンが憎らしい。
昨日カーテンを閉めてくれた女は来るだろうか。先に利津が来るだろうか。世那は半ば諦めながら布団にくるまってじっと耐えた。
暫くして、廊下の方から何やら音が聞こえて世那は布団の中から少しだけ顔を出してじっとそちらを睨んだ。
やってきたのは利津ではなく昨日やってきた女。がらがらと重そうなカートを引きながら入ってくると立ち止まってぺこりと頭を下げた。
「失礼します。ご飯お持ちしました。それと、浴室など掃除させていただきますね」
女は快活な声ではっきり言うとサイドテーブルに食事を置き、カートを引きながら窓の方へ歩いていった。シャッと言う音が鳴りカーテンが閉まり、部屋の電気が付けられる。再びカートを引きながら脱衣所へと姿を消した。
サーっとシャワーの水が流れる音が部屋に響き渡る。どうやら浴室を掃除しているようだ。捕虜にシャワーが与えられることもどうかと思うが、たった一度使っただけで綺麗にするのは更に理解不能だ、と世那は思った。
だが、女の動向よりもテーブルにのった食事の香りが鼻に届き、お腹がぐーっと鳴った。今食べれば女と鉢合わせることになるのは必至で、できれば女が出て行ってから食べたい。それに下着も履いていないただ浴衣一枚の姿見られたくはなかった。
今は耐えよう。そう決めたところでまたお腹が鳴った。
「少しだけ……」
世那は誰に言うでもなく自分に言い聞かせ、布団から出て床に足をついた。ジャラジャラと鳴る鎖をなるべくゆっくり歩くことで音を誤魔化し、テーブルの前につく。何がのっているのか確認しようとしたところで突然ドアが開いてしまった。
「あっ、おはようございます!」
「……!」
世那が振り向くと女はにっこりと笑って立っていて目が合うと深々と頭を下げた。声をかけられたことで世那は飛び上がり、乱れた着流しを整え、逃げるようにそそくさとベッドの方へ戻ろうとした。
「私のことは気にせず食べちゃってください。掃除道具取りに来ただけなので」
情けない世那の後ろ姿を気にするそぶりもなく女は快活に話すと、カートの中をガサゴソと鳴らして何かを取り出した。女の手には広がった歯ブラシがあり、人懐っこい笑みを浮かべ脱衣所に消えていった。
ベッドに戻ろうとしたところで声をかけられ、世那は固まっていたことに気づく。下着も履いていない露出狂みたいな格好で女の前に出てしまったことへの羞恥心と、食べ物を取ろうとしたところを見られたことへの情けなさに世那の顔は真っ赤になっていた。
ただ、今更布団の中に隠れても情けなさが増すだけで空腹も満たされない。世那は覚悟を決め、せめてもと浴衣の重なる部分をしっかり押さえて椅子に座った。
木でできたプレートにはボンゴレパスタとサラダ、小さなカップにはコンソメスープが注がれていた。小洒落たブランチにじわっと口の中が濡れる。
世那はフォークを持ち、所作など気にせずパスタを巻いて食べ始めた。昨日のご飯も美味しかったが今日のも負けていない。軍の食堂でも同じ題名の食べ物が出てきたことはあるが、比べ物にならないほど本格的でアサリの味がふんわり鼻腔をくすぐる。
「美味しいですか?」
「っ!?」
食べることに夢中になっていたせいか、女が静かに出てきたせいか、世那は声をかけられて初めて女が近くにいたことに気がついた。突然声をかけられ、喉に詰まりそうになって胸を叩く。置かれていた水で一気に飲み干すと振り返り女を睨んだ。
「あっ、すみません」
言葉とは裏腹に女はクスクスと笑っている。無邪気なその様子に世那はすっかり怒る気力をすっかり無くしてしまい肩を落とした。
「いや……」
世那から出されたのは簡素な答えだった。初めて聞く世那の声に女は目を輝かせた。先程まで掃除で使ってたであろう雑巾をぎゅっと握り、世那の顔を覗き込んだ。
「ありがとうございます!」
室内では不相応な大きな声に空気がビリビリと震え、世那の耳がキーンとした。
「うるせえな」
「アハハッ、すみません」
女は咄嗟に持っていた雑巾を口に当てた。それがハンカチであったら婦女子らしい反応で素敵なものだったかもしれない。けれども女が握っているのは紛れもなく雑巾だ。なんだか抜けている。そう思って世那はふと息を漏らして笑ってしまった。
「きったねえ」
「え?あぁ!っ、やだ……」
女は頬を赤らめ、年齢相応のうぶな表情を見せた。わたわたと雑巾を振り回しながらカートを引き部屋から出て行ってしまった。
「……騒がしい奴」
世那はそれ以上声をかけずテーブルに向かい直して食事を再開した。どことなくパスタを巻くフォークの動きが軽やかになっていることに世那自身は気づくことはない。
フォークの先でアサリの身を器用にはがして口に入れたところでふと疑問に思ったことがこぼれた。
「てか……ここの飯、アサリばっかだな」
何故、など理由を考えたところで何一つわかることはない。確かアサリの名産地は東だったか、などぼんやり考えながら世那は黙々と食事を続けた。