31話
その日の明け方。日入りが早くなった今では午前4時に訓練は終わり解散となる。
世那は身支度を整え他の者たちに挨拶を交わし、軍帽を片手に訓練所を出た。
訓練所は久木野邸のある山と同じで歩いて帰っても1時間程度の距離だ。世那は日が出る前に帰らなければと思い、軍帽を被り直し顔を上げた。すると見慣れた車が見え、大きな溜息を吐いた。仕方ないか、と世那は辺りを見渡し、運転席の方へ回りトントンと窓を叩いた。
「あ、おつかれーす」
運転手の身なりでだらしなく座っていた佐藤は窓を開けるなり気の抜けた挨拶をして世那に笑いかけた。口には吸おうとしていたであろう火のついていない煙草が咥えられている。
「今日は利津仕事じゃねえだろ」
「そっすね」
「俺一人に迎えはいらねえよ」
「まあ、不本意ではありますね」
「なんで来たんだよ」
「そりゃ、利津様がやれって言うんだからしょうがないっすよ」
「……過保護」
「いいから乗ってくださいよ。早く帰って二度寝したいんで」
世那の返答を聞かずに佐藤は勝手にフロントウィンドウを閉めてエンジンを蒸し、世那の許可なく煙草に火をつけ深く吸い込んでふーっと煙を吐いた。窓を開ける配慮もないため車内を煙が泳ぐ。
「はぁ……」
主人がいないことをいいことに好き勝手する佐藤に二度目になる溜め息を吐き、世那は大人しく後部座席に乗り込んでシートベルトをしめた。
気の乗らない世那に佐藤は楽しそうに笑いながら煙草を指に挟みゆらゆらと煙草を振った。
「ねえねえ世那さん」
「あ?」
「この煙草、普通じゃないって知ってました?」
「知らねえよ」
挑発的な佐藤の態度に世那は眉間に皺を寄せ、少しだけ窓を開けた。愛煙家ではない世那からすればどんな煙も気分が悪いだけで佐藤が言いたいことなど微塵も興味が沸かない。
「これね、吸血鬼が嫌いな匂いなんすよ」
「……」
わざとかよ、と世那は思い窓を全開にした。
「発車しまーす」
佐藤はわざとらしく指差し確認をしてルームミラー越しに世那に笑いかけると緩やかに車を走らせ始めた。煙草の煙で煙たくなるかと思いきや、佐藤は早々に煙草を灰皿でもみ消し運転席の窓も開けて換気した。
世那はシートに深く体を預け、軍帽を取ると外に視線を向けた。木々の向こう側からほんのり朝日が空を淡く染めていく。
「そだ、田南部美玖様がいらっしゃってます」
「へえ……」
「結婚するのだから邸宅の中を見たいとか、利津様のそばにいたいとか。まあ、数日したら帰りますよ。会うかもしれないんで一応伝えておきますね」
「あぁ」
――あの人、あんま好きになれねえんだよな。
と、心中思いながら世那は適当な返事をして答えるだけでとどめた。
そうこう話しているうちに車は久木野邸に着いた。もうすぐ日が昇る時刻のため邸宅はシンと静まり返っている。眷属である執事やメイドたちも日入り前に仕事を終えて休もうとしているのだろう。
車が止まると世那はシートベルトを外し車から降りようとしたところでふと思い出し手を止め、運転席の方に身を乗り出した。
「なあ」
「近っ。なんすか」
「利津の部屋ってどこ?」
「え?知らないんすか」
「悪かったな」
「世那さんの部屋の真逆の端っこっすよ。3階は利津様、2階は旦那様って分かれてますから。なんか3階まで上がるのは面倒臭いし、かと言って1階だと侵入者にすぐ襲われるとかで決まったらしいすよ。知らないっすけど」
ひとつ質問すれば倍の答えを出す佐藤に世那は色々と助けられている。おしゃべりなのか、元々人が何を欲しているのかわかるのか、佐藤は適当に見えてよくできた男だと世那は思った。
「あ、寝起きは利津様機嫌悪いかも。少し時間が経ってからの方が」
「いや、預かり物があるからすぐ渡したい」
「なるほど」
「おやすみ。迎えありがとう」
軍帽を片手に持ちながら世那は車から降りて邸宅の方へ歩いて行った。その背を眺めながら佐藤は苦笑まじりに笑った。
「ありがとー、だってさ」
――――
佐藤に教えられた部屋の前に着くと世那は身なりを整えてノックしようと手を上げた。
だが世那がノックする前にドサッと扉の向こうで物音が聞こえた。何かが一気に落ちる音と、利津の低く呻く声。ただ事ではないと利津の返答を待たず世那はドアを開けた。
泥棒でも入ったのかと思うほど書類は散乱し、衣服は脱ぎ捨てられ、椅子は天と地を忘れたような佇まいで置かれていた。誰か他の者を入れては行けないと世那は思い、部屋に入ると同時に鍵を締め部屋の角で縮こまる利津を見つけた。
「誰の許可を得て入ってきた」
利津は怒気の混じった低く唸るような声で背後の世那を威嚇した。相手は世那だと分かっていながら振り返るどころか更に体を小さくするように自分の体を抱きしめている。
普段の利津からは想像もできないほど余裕をなくしたその姿に世那は恐る恐る利津に近づいた。その気配に気づくと利津は手短にあった書類の束を強く握ると振り向きざまに世那へ投げつけ立ち上がった。
世那は投げつけられた紙束を腕で受け流し、振り向いた利津を睨んだ。何をしやがる、と文句の一つでも言おうとしたが見慣れない利津の瞳の色に世那は息をのんだ。
「っ、お前……その目」
普段は美しい翡翠色の目が今は紅く光っていた。
世那の言葉に自分が今いつもと違う見た目をしていることに気付かされ、利津は汗だくの顔を片手で抑えながら世那を睨んだ。
「貴様には関係ない。出ていけ!」
「関係なくねえだろ。なんでお前がそんな……」
ふらつく足元、尋常じゃない汗、涙ぐむ瞳、口から溢れる唾液。利津の様子に世那には覚えがあった。
「血が欲しいのか?」
利津はひゅっと息を飲んだ。そして世那へ駆け寄り、震える手で胸倉を掴んだ。
「さっさと出ていけ。さもなくば……」
その時、利津は世那の顔しか見ていなかった。襟元を掴まれ苦しそうに顔を歪める世那だけを見ていた。
だから気付けなかった。世那の手から血が溢れ床を濡らしていたことに。
「っは……」
甘い香しい匂いが鼻腔をくすぐると利津は息を詰まらせ視線は床に向かってしまった。世那の手から短刀がカランと音を鳴らして床に落ちる。
「お前がくれた銀の刃だからしばらく傷は癒えない」
「っ、……貴様」
「勿体ねえよ。ほら」
世那は傷のついていない方の手で利津の肩を押した。血に魅入られているせいか利津はあっさり体を離した。絶望と歓喜に歪む利津の表情に世那は小さく笑うと利津の口元に血濡れた指先をそっと差し出した。
愛する男の微笑みと甘い血の匂いに利津はもう逆らえなかった。一つ息を吐くと血濡れた手を包むように手を重ね、ゆっくり舌を這わせた。
婚約披露宴の翌日。世那が本当の親に噛まれ狂ったあの日から2週間後の出来事だった。
――――
「そんなに私のことを信用してもいいんですか?」
「いいわよ。どうせ今日明日にはやろうと思っているの。もし裏切るとしてもあなたじゃ何も出来やしないわ」
日の光が窓に射すと美玖は鬱陶しそうに手で影を作った。それを見てリリィはさっとカーテンを閉め、1人用のソファに座る美玖の元に近付くと黒い笑みを浮かべた。
「私を見くびってもらっては困ります」
「そうね。ごめんなさい」
「美玖様のおっしゃる通りなら私は利津様につく理由はありません。だって、本当の始祖は美玖様なんでしょう」
「えぇ。私の母は田南部に嫁入りした清子の娘、私の本当の父は清。んふふ……、利津の父親こそ清だけれど母は東の女。ただの真祖よ」
肘掛けに手をつき頬杖をしながら美玖は反対の手を伸ばしリリィの方へ手の甲を見せた。リリィは命令されることなく片膝をつきそっと美玖の手の甲に口付けをした。
「始祖に執着する哀れな人間の娘。この計画が終わったら願いを叶えてあげる」
「はい」
するりと手を動かし指先でリリィの頬を撫でながら美玖はさも愉しそうに微笑んだ。
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