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29話

「お久しぶりです、子爵様。……いえ、利津」


 昼間だというのに外は暗く、山の中ということも相まってぐらぐら揺れる木々がこの世のものではない悪魔のように影を落とす。しっかり取り付けられているはずの窓も不穏な音を響かせ、厳かな絨毯と橙色の電飾が更に不気味さを醸し出していた。

 ここは久木野の邸宅にある客間。利津はワイシャツ一枚と黒のスラックスといった気楽な出で立ちで客を出迎えた。ソファに浅く座り、膝の上に手を組みながら目の前の客、田南部美玖に微笑んだ。


「ひどい天気だというのにわざわざ……」

「いえ、お会いできて嬉しいわ。それに私たちはもう婚約した仲。いずれここが私のおうちになるんですもの」

「えぇ、お好きなだけいらしてください。今日は幸い仕事が休みでしたが、私のいない間もゆっくりくつろいでください」

「ありがとう」


 美玖は30を超えた年齢を思わせないほど艶やかな肌を惜しげもなく露出し、紺色のドレスを身にまとっていた。そして自分よりも10歳離れた利津にやさしく微笑んだ。利津もつられるように笑むとリリィの淹れた紅茶にそっと口づけた。


「交換しなくてよくって?」

「えぇ、私のメイドが淹れてくれたものですから」

「ふふっ、そう」


 言葉ではそう言いながらくつろぐ様子のない利津に美玖はふと鼻で笑い、目の前のカップを手に取ると同じように口をつけ紅茶を啜った。程よい温かさと息を吐けば通る澄んだ香りに自然と表情は和らぐ。


 利津は元々おしゃべりなほうではない。こうやって美玖が来ても気の利いた言葉をいくつか言うだけで深い話をしようとはせず、美玖が話し始めるのを待つ。美玖もわかっていてカップをソーサーに置くと身を乗り出すように利津の顔を覗き込んだ。


「利津は血を飲まないのよね?」

「そんなことはありませんよ」

「血液パウチからでしょ」

「えぇ」

「先日、西和田様と提携したのご存じ?」

「勿論」

「生産性を上げてみたの。どうかしら、何か感想などあれば教えてくれない?」


 ちらりと美玖を見ると利津はにっこり微笑んだ。


「飲めたものではありませんでした」


 敵意むき出しの利津の言葉に美玖はぴくりと眉を動かすだけで同じように笑った。


「そうなの?」

「えぇ」

「具体的にどこが?」


 とぼける美玖に利津はふと口元を緩め、カップを置いてどこからともなく出した血液パウチをテーブルに放った。


「全部です」


 表情は変わらず人懐っこく微笑みながら目は笑っていない利津に美玖は小さく笑ってぎろりと睨んだ。


「利津。そのうすら寒い態度、どうにかならないかしら」

「……」

「あなたは紳士的に振舞っているつもりかもしれないけれど全然なっていないわ」

「お気に召しませんか」

「ええ、まったく」


 怒りを露わにする美玖を冷たい目で見下しながら利津はソファに深く座り脚を組んだ。

 美玖から見て利津の靴の裏が見えることを気にしない利津の態度に美玖は意地悪く笑い、サイドバックから果物ナイフを取り出した。キラリと輝く刃を見ても利津は動かない。美玖はナイフを握るとテーブルに置かれた血液パウチに突き刺した。

 パウチから血液がぶわっと溢れ、始めはテーブルを象り、あるところで床に向かって一本の線を描いて垂れていった。

 利津は溜息を漏らして腕を組み、視線をあちらの方角にやった。その行動に美玖は笑う。


「ふふっ、そう。そうよね。あなたには辛いわよね」


 狂気じみた美玖の声に、常ならば利津は黙っていられた。けれど部屋中に充満する甘い血液の香りに絆され利津は返事してしまった。


「何が言いたい」

「いいのよ。素知らぬふりをしていても。……いつから血を絶っているのかしら」


 美玖はナイフをコロコロと指の間で転がしながら利津をじっと見つめニヤリと笑みを浮かべた。

 血液パウチから血を摂取しなくなって2日。たった2日だが、吸血鬼にとって食事と変わらない行為を絶って平気でいられるはずはない。

 パウチから溢れた血は絨毯に染みて行き、足元から甘い誘惑が上気する。利津の咥内はじんわりと濡れ、今にもしゃぶりつきたくなっていたが利津は逃れるように立ち上がった。


「くだらん」

「やっとらしくなって来たじゃない。未来の妻にいつまでも嘘の顔はしてられないわ。……そうね、ご褒美をあげなきゃ」


 いつも世那に言う言葉が利津に届く頃、美玖の手から真っ赤な血が溢れていた。手の中で踊っていたナイフは綺麗に手首を傷つけ絨毯の上に落ちていた。


「っ……」


 パウチに詰め込まれた血液など目じゃない。真祖の芳しい血の香りが目と鼻に直接伝わると利津は拳を握り歯を食いしばった。だが、そんな簡単な欲ではない。


――飲んでしまえば楽になる。くだらないプライドは捨て跪き、美玖の手に縋って啜ればいい。


 利津の中で残る理性がゆっくりと消えて行く。利津は熱い吐息を漏らすと酔ったような目で美玖を見下ろした。


――真祖の香り。()()()()()()()()()()()()の匂い。


「ふふっ、可愛い。さあ……好きなだけ飲みなさい」


 細い指にまとわりつくように流れる鮮血。利津の目にはもうそれしか映らない。ふらつく足取りで美玖の元へ向かおうとした時、勢いよくドアが開け放たれた。


「ご主人様!」


 血相を変えたリリィが礼節を弁えることなく駆けて入ってきた。そして2人の様子を見て表情を固くした。

 利津は寸出のところで足が止まり、リリィの声で我を取り戻し息を詰まらせた。


「あーあ、もう少しだったのに」


 気の抜けた美玖の声にリリィは思い出したように一度頭を下げ、すかさず利津の元へ向かって囁いた。


「旦那様が……。清子様が少し体調を崩されお医者様がいらしたんですが、もう死ぬのか、死んでしまうのかと取り乱して」

「……わかった。すぐ行く」

 

 パウチから溢れた血液、美玖の手から流れる鮮血。リリィは今何が起きているのか瞬時に理解しじっと美玖を睨んだ。


 吸血行為は法律の埒外である真祖の敷地のみ許されている。ただそれは主人と眷属のみ。真祖同士の吸血は禁止されている。

 理由は真祖の中でも血の濃いもの、始祖に近ければ近いほど強く作用し、たとえ真祖であれ眷属化に似た契約ができてしまうからだと言われている。

 利津は始祖の血を引く久木野。地位からして2番目の爵位を持つ田南部の血など大したことはない。だが、呆然と立っていた利津の姿にリリィはただならぬ不安を覚えた。


「いやね、立場が分かってないメイド」


 部屋から出ようとリリィがドアに手をかけたところで美玖がわざとらしく大きい声で毒づいた。だがリリィが動くよりも先に利津がリリィの額に手を当て抑えた。


「父の元へ向かわなければならない。先に言った通り、好きなように過ごして構わない。必要があれば執事なりメイドに言えばやってくれる」

「そんなのどこにいるの?」

「リリィに頼め。大体のことはやってくれる」

「そ」


 つまらなさそうに視線を逸らす美玖に利津はリリィから手を離してそっと背を押した。リリィは不安げに利津に視線を向けたがリリィを見ることはなかった。


「利津」

「他に何か?」

「敬語」

「あなたが気に入らぬと言っただろう」

「やるじゃない」


 さっきまで美玖に流されていたが、あっという間にいつもの調子に戻った利津に美玖はさも楽しそうに笑って利津を見送った。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

よろしければブックマーク、評価、感想などよろしくお願いいたします。作者のテンションが爆上がりします。

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