28話
じっとりした梅雨が明け、日差しも強くなり蝉が高らかに鳴いている。久木野邸にも例外なくじわじわとした暑さが襲う。夜になろうと冷えることのない気温は吸血鬼である執事やメイド達を苦しめた。
「ひえー、暑いっすねえ」
いつも以上にだらしない格好で佐藤はネクタイを緩め、ソファにだらけて座りながら天井を仰ぎ見た。
時刻はもうすぐ17時。
ここ最近、佐藤は主人である利津を城に迎えに行きがてら軍の訓練に参加するようになった世那を送り届けなければならなくなった。
世那が訓練所に行くようになって1週間と数日。佐藤のルーティーンは出来上がりつつあり、毎日世那の部屋を訪れるようになっていた。
「ここは特に暑いだろ」
「そうっすね。世那さんの部屋にも冷暖房入れた方がいいって伝えたほうがいいっすよ」
「ははっ、んなこと言えねえ」
「いやぁ……ねえ。熱中症になったら元も子もないでしょ」
室温はもう30度を超えているだろうと体感ではわかっていても世那は暑苦しい軍服に袖を通す。だらけた佐藤の言葉を笑って返しながら鏡の前でしっかり身なりを整えると今にも溶けそうな佐藤の元に向かった。
いつの間にか佐藤はソファに逆さまになって座っていたところで目の前に現れた世那を見上げながらぽかんと口を開けていた。
「何だよ」
「ほーん……やっぱ軍人なんすね」
「あ?」
「カッコいいって言ってんでしょ。ほら、行きましょう。利津様がお待ちっすよ」
ソファからひょいと起き上がると佐藤は気さくに笑いながら世那の背中を叩いた。世那は困ったように笑うと佐藤の後ろをついて部屋を後にした。
軍服姿の世那に執事やメイドは利津に対する時と同じように頭を下げる。始めこそ眷属達は嫌々頭を下げていたが世那の訓練所での噂はあっという間に広がり、今では久木野邸で文句を言うものはほぼいなくなっていた。
「いやあ、世那さん凄いっすよ」
「ん?」
「ここの連中、久木野の眷属であることが誇りでそれしかない奴等なのに。見ました?世那さんにへこへこへこへこ」
「俺も同じ久木野の眷属だろ」
「いやいや。初日の話は皆知ってるんですよ」
「あー、あれは……」
玄関につき、外に出て車に乗り込もうとしたところで佐藤が話しかけてくると世那も答えた。世那はドアを開け、自ら後部座席に乗り込みシートベルトをしたところで佐藤は自分のことのように自慢げに話し続けた。
「マジすごいっすよ。武器持った吸血鬼達を相手に1人で。まあ、そう言われてみればそうだなって思いますけどねえ」
「なんで?」
世那の問う声に佐藤はミラー越しに笑うとエンジンをかけて車を走らせた。片手でエアコンをいじり冷たい空気が車内を包む。
「久木野邸に1人で侵入出来たんですから。記憶がなくたってそれは世那さんの力だってことでしょ」
「……複雑だな」
「そうすか?」
「……」
「どんな理由であれ、ここに世那さんがいるのはあの日世那さんがここにやって来たから。んで、利津様が拾って手当てをしたから、ね?」
話の論点がずれていないか、と世那は思ったが言い返すことはしなかった。いや、できなかった。
あの日、意識がないとはいえ自分は利津に刃を向けていたかもしれない。そう思うといいことだったとはとても思えなかったからだ。
暫くして利津が働く城の前に着くと佐藤は車から降りて後部座席のドアを開けた。仕事をしてきたとは思えないほど一糸乱れぬ涼しい顔をした利津が車に乗り込んできた。
「おつかれさま」
世那が声をかけても利津は何も言わず隣に座り腕を組み視線を窓の外に向けてしまった。ちらりとも世那を見ようとしない利津に世那はそれ以上声をかけないで自分の方の窓の外に視線を向けた。
佐藤が運転席に乗り込み車を走らせてもしばらく2人は何も話さなかった。
「あ……」
先に利津が何か思い出したように声を上げた。そして利津は自分の腰に備えていたナイフを取り出し、躊躇なく手のひらを切りつけた。エアコンの冷たい風に運ばれて甘い真祖の香りが世那の鼻腔をくすぐる。
「っ、なんか言ってからやれよ」
たじろぐ世那を気にする様子もなく血濡れた手のひらを見せつけるように利津は世那の方へ手を伸ばした。真っ赤な鮮血が見ないようにしても自然と世那の目に映る。
世那は人の形をやめて真っ白な髪を揺らし、赤い瞳で利津を見た。世那の視線に気づいているだろうが利津は何も言わない。世那はその手を掬うように手で包み顔を埋めた。
生温かな世那の舌が利津の手のひらを滑る。数え切れないほどの吸血行為にも未だ利津は体を硬直させ、手のひらにあるはずの熱は背筋を駆け下り、じわっと体が熱くなる。恥ずかしさと興奮と、その先を望む忌まわしい感情の狭間で利津は眉間に皺を寄せた。
「利津」
突如名を呼ばれ、利津は大袈裟に肩を揺らして僅か紅潮した頬のまま世那の方へ振り向いてしまった。吸血は既に終わっていて人の形を取り戻した世那がじっと利津を見つめている。
「あぁ……」
利津は簡単な返事をすることしか出来ぬまま手のひらを包むように握り自分の膝の上に置いた。傷口はもうないはずなのにじわじわと生温かい何かが手の中にある気がして利津は再び窓の外に顔を向けて黙り込んだ。
「……」
「ありがとうな。俺はずっと軍にいたから今はすごく生きてる心地がしていい。本当なら俺はこんな待遇でいられるような奴じゃねえのに、お前が眷属にしてくれたから今こうして訓練に参加できてる」
利津は何も答えない。世那がただ思うまま話すだけで、世那が黙ると車内もシンと静まり返る。エンジン音とエアコンから流れる風だけが空しく鳴っていた。
暗い森に一筋の眩しい光が車を照らす。訓練施設が近いことを意味するその光に佐藤は目を細め、狭い道路ゆえ慎重にハンドルを切る。
ゆったりした運転に身を任せながら世那は手を伸ばし利津の髪に触れた。だんまりを決め込んでいたが世那に触れられたことで利津はつい振り向いてしまった。思ったよりも近い距離にいた世那に利津は息をのんだ。
車の動きに合わせてキラキラ輝く外灯の光が世那の漆黒の髪を照らす。光をすべて吸い込むような同色の瞳は利津を捉えて柔らかく微笑んでいた。
「やっとこっち見た」
「……は?」
「行ってくる」
佐藤がシフトレバーをパーキングにする少し前、世那はシートベルトを外しそっと利津の耳元で出かけのあいさつを囁いた。目を丸くしたままの利津に世那は意地悪く笑むと車から降り佐藤に向かって「ありがとう」とだけ言って軽い足取りで訓練施設のほうへ歩いて行った。
再び車内に静寂がやってくる。佐藤はふーっと息を吐くとフロントミラー越しに利津を見た。
「なんか世那さん、生き生きしてますよねぇ。やっぱ根っからの軍人なのかな」
ハンドルに腕を乗せそこに顎を乗せながら佐藤は軽口を叩き世那を見送った。ちらりとミラー越しに見える利津は窓に視線を向けたが顔を真っ赤にして口を押さえている。
世那はおそらく運転に集中した佐藤の隙を見て近づいたのだろうが、佐藤はしっかりミラーで見ていた。何を言ったかまではわからないが、その言動に動揺し顔を真っ赤にする主人に佐藤は内心やれやれと思いながらシフトレバーを動かし緩やかに車を発進させた。
____
佐藤が邸宅の前に車をつけると利津は自らドアを開け、声をかける佐藤を無視してさっさと中に入っていった。機械のように決まった台詞を投げかける父親の眷属たちを無視し、利津は自室に入ると鍵を閉めドアに背を預け顔を押さえた。
利津はずっと前から知っている。幼い子どもの頃も、学生兵として傍にいた時も、世那は常ならば男らしく、饒舌で自信に満ち溢れた人物だった。再会の形が最悪だっただけで場を与えれば前と変わらない、利津がずっと憧れ好いていた姿に戻っていった。
「……世那」
名を呟くだけでまるで少女のようなときめきが体を支配する。
「はぁ……」
利津は熱い溜息を漏らして気持ちを切り替えることにした。
顔から手を放して未だほんのり熱い顔のことは気にしないことにした。勲章だらけの重い軍服を脱ぎ椅子に掛けると机に置かれた山のような書類を手に取った。
最近では本来なら当主である父、清がこなすべき仕事が更に利津に回ってくるようになっていた。利津の火照った思考は一気に冷め、さっきとは違う重い溜息が漏れる。
やるしかないか、と書類を確認しながら自然の流れで横に置かれている血液パウチを手に取った。それを口で開け、いつものように誰ともわからない血液を咥内へ流し込んだ。
「っ……!?」
ごくりと喉を通過した時。違和感で利津は咄嗟にパウチを床に落とした。度数の強い酒を飲んだ時のような何とも言えない熱が喉から胃に一気に押し寄せてくる。
利津は喉を押さえ、らしくもなく取り乱して自室の洗面所に駆け込んだ。喉に指を突っ込みせりあがる吐き気と共に今しがた飲み込んだ血を吐き出した。それでも残る違和感と酔ったような感覚に蛇口を捻り水を出すと手で掬って飲み、また吐いた。何度繰り返しても醒めない酔いに利津は洗面台にしがみつき舌打ちをした。
「……、くそ……ッ」
利津を超える真祖がいると認めてしまえたらどれだけ楽だっただろうか。
生まれながら真祖の頂点に立つと決められ、始祖と崇められてきた世界がひっくり返る。もし始祖ではないと自他共に認めたら利津は、当主として役に立たない清が治める久木野は、どうなるかなんて簡単に想像がつく。
床に捨てられたパウチからはとめどなく血が零れ、真っ赤な池を作っていった。
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