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22話

 邸宅に帰ってくると世那はすぐに自室に戻った。着せられたスーツ類を脱ぎ、丁寧に畳んであった紺色の浴衣と下着を抱えて部屋の中にある浴室へ向かった。


 体を綺麗にし終え濡れた髪を拭きながら脱衣所を出て部屋に戻ると見慣れた背中が窓辺にあった。

 その男は白の浴衣に身を包み、いつもは目にかからぬようあげられている前髪も今は下におりていて昇りかける朝日に照らされ輝いている。


 少しの日の光でも気分が悪く世那は眉間に皺を寄せ手で影を作って窓際の男を睨んだ。


「毎朝ここを訪れ、世那に日を浴びせることが俺の役目だろう」

「嫌がらせ以外の何ものでもないけどな」


 喧嘩腰の言葉に男、利津は肩で笑いカーテンに手を伸ばし閉めた。そしてゆったりと振り向き翡翠色の目を細めた。定期的な吸血はもう終わっていて、利津がここにいる理由がわからず世那は首を傾げた。


「……今日はもう寝るだろ。日跨いでるし」

「そうだな」

「部屋に戻れよ」

「なぜ」

「あ?」

「今日はここで休むと決めた」

「何勝手なこと言ってんだ」

「リリィにも佐藤にもそう言ってある。世那の近くにいるなら2人ともゆっくり休めるそうだ」


 世那は疑問に思ったが、たしかにそうかと合点がいく部分もある。

 利津が1人で部屋にいるならば何かあれば2人はすぐ駆けつけなければならない。形だけでも護衛として世那がいれば2人は気にかけることなく休めるのかもしれない。

 わかってはいるがやはり世那はうんとは言うことはできなかった。


 世那の気持ちも知らずに利津は嬉しそうに笑った。


「それに、丸一日休みにした」

「2人とも?」

「あぁ」

「俺は?」

「世那は雇われの身ではないだろう」

「そう、だけど」

「俺が世那を見張り、世那は俺の傍にいればいい」


 窓辺から離れスリッパの音を響かせながら利津は世那に近づこうとした。

 だが世那は怯えた顔をしてすぐに誤魔化すように笑った。


「なんだ?」

「いや……?」


 利津を見ながら世那の手は自然と隠したい首筋にあてがわれる。

 それを見た利津は眉間に皺を寄せ、世那が逃げるより先に近づくとその手を掴み引き剥がした。


「やめっ……」


 世那の制止の言葉は届かず利津の目に映ってしまった。

 主人である誰かわからない者に噛まれた箇所。その傷口は塞がるどころかたくさんの引っ掻き傷で血濡れていた。

 

 世那は見られたくなかった。主人に噛まれたことを思い出すだけで快楽が溢れ中毒になりそうになる自分を許せず無意味な抵抗をしたことを。


 怯える世那とは反対に利津は無感情にその傷口を見つめそっと首筋に指を這わせた。


「本当の主人に噛まれたのはそんなに気持ちが良かったか?」

「……」


 世那の無言の答えに利津は首筋から手を離すと同時に世那の腕を掴み強く引っ張ってベッドへ押し倒した。

 突然のことに世那は受け身を取るのを忘れ柔らかなベッドに体を落とし見上げた。上に跨る利津の瞳は鋭く怒りが混じった冷たいものだった。


「傷を掘り返し快楽を思い出すほどに」

「違う!そうじゃねえ」

「ならば何故傷が癒えていない」

「それは……」

「恐れているならその必要はない。始祖の血はどの真祖をも凌駕する」


 まるでそうであって欲しいと願うような言葉。利津の甘い言葉を信じる方が楽だったから世那も信じていた。

 けれども現実は、本当の親の前では無力だった。


「なってねえだろ」

「なに?」

「なってねえから俺はこんな……っ。お前にはわからねえだろうな。だって親だなんだって言っても吸血ひとつしねえじゃねえか。結局俺は親なし吸血鬼でお前の眷属になれやしねえ」


 八つ当たりだった。

 利津が悪いわけではない。見知らぬ親に悦んだ自分を世那は許せなかった。


「わからないな」


 怒鳴り散らす世那の言葉を聞き、利津は淡々と答えながら身を屈めた。鼻先が触れるほど顔を近づけ片手で自分の体を支えながらもう片方の手で世那の首に触れた。


「貴様が怒るよりもずっと俺の方が苛立っている」


 変わらず落ち着いた声で利津は話した。けれども根底にある怒りは隠せず世那が自傷した首筋から肩にかけての血の痕を睨んだ。


「俺が吸血しないのは何故だと思う」

「え?」

「父や他の真祖のように眷属を作らない理由。人間のままのリリィと佐藤が不思議だとは思わないか」


 利津は世那の首筋に顔を近づけ、生々しく残る傷に舌を這わせた。


「待て利っ……」


 無意識に世那の体がこわばる。

 風呂上がりの清らかな香りの向こうに利津の甘い匂いが世那の鼻腔をくすぐる。少しだけ湿った銀髪が頬を撫でると同時に利津の牙が世那の傷口に食い込んだ。


「い゛っ……つ……」


 本当の親に嚙まれた時とは全く違った。快楽などはなくただ鋭い牙が薄い皮膚を裂き、骨ばった首筋に食い込む。刃物よりもずっと太い牙は気を失いそうなほどの痛みを与えるだけだった。

 はくはくと世那は必死に息を吸い、布団を握る手に力を込める。その手に利津は手を重ね優しく握った。


「世那」

「っ……」


 耳元で甘く囁かれる名に世那は痛みとは違う甘い何かに息をのんだ。本当の親に噛まれた時の強制的な快楽とは違う、じんわりと心が熱くなる感情からくる喜び。


 ほどなくして利津は牙を抜くと滲んだ血に舌を這わせた。決して啜ることはなく、動物が毛づくろいをするような所作。世那はただ身を預けた。

 吸血だと言えばそうかもしれない。けれども何か不思議だった。


 こわばっていた世那の体から力が抜けると利津は顔を上げ、血濡れた口を手の甲で拭いながら世那を見下ろした。


「その傷は今俺が吸血した証。他の誰でもない、世那の主人である俺がつけたものだ」


 そういうと利津は世那から降りてスリッパを履き直し早々に出て行ってしまった。

 ぱたんとドアが閉まると世那の緊張はほどけ深く息を吐いた。


「はぁ……、ずりぃ」


 自分の不安をいとも簡単に覆していった利津に世那は苦笑し、額に手を当て目を閉じた。

 気持ち悪かったはずの傷口には痛みだけが残った。




――――


 世那が目を覚ましたのはすっかり夜も更けた頃だった。

 ぴりりと痛む首筋を抑え、重たい瞼を開き辺りを見渡す。噛みつかれた傷口はすでに塞がり、皮膚が薄くなっていることだけは触って確認できた。


「あっという間だな」


 決して本音を見せない利津が世那の言葉で揺らぎ、他者に使っている壁が瓦解した。年相応の愛らしい利津の反応は誰にも真似できないほど純粋で、どこかくすぐったくも感じる。


「あ、……またか」


 知らないはずの記憶がザザッと一瞬だけ蘇る。銀髪の小さな子が自分を見て微笑んでいる。瞳は確か翡翠色の……。

 そこでいつも記憶に鍵がかかる。思い出してはいけない、知らない、忘れなさい、と誰かが告げる。


「おはようございます、世那さん」


 ノックの音と共にドアが開くと眩しいほど明るく笑うリリィがいつものように食事を抱え部屋にやってきた。


「おはよう」


 思い出すことを止め、世那はリリィに微笑んだ。ひりつく首筋の痛みは愛しく、世那の心を温めた。



一章 完

 

お読みいただきありがとうございます。

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