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20話

 ホールを抜け、太く長い廊下を駆け、ようやく見つけた男性用洗面所に世那は走りこんだ。

 幸い洗面所には世那しかいない。

 手洗い場に着くなり世那は上着を脱ぎ、紙タオルを水に湿らせると血濡れた箇所を叩き拭いた。鏡に映る真っ白な髪と紅い瞳が自分を強く睨む。情けなさと自分の体質を呪い、少しでもマシになるようにと何度も水につけては拭いた。


「お久しぶり、私の下僕」


 誰もいなかったはずの空間に足音もなく誰かが現れた。

 世那の手が止まり、同時に足先から脳天を貫く快楽が思考を止める。


 親なしと言えど人間が勝手に吸血鬼化することはない。必ず真祖が噛みつき眷属とする。世那も例外ではなく、本人の記憶にないだけで親の声が聞こえれば体は勝手に反応してしまう。

 汚れを取っていたスーツから顔を上げようとしたところで再び声がかかる。


「見てはいけない。……そう。とってもいい子」


 甘い声で褒められれば素直に従わずにはいられない。

 もっと、もっと褒めてほしいと体は求め、世那は自ら目を閉じた。

 握っていた血まみれの紙タオルが床に落ち、主人は世那の背後に立った。水で冷えてしまった世那の手に手を重ね、優しく握りながら世那の耳元に顔を近づけた。


「ずっと心配していた。どこに行ってしまったのか」

「……俺を?」

「他に誰がいると」

「あぁ……」

「かわいらしい私の下僕。そうだ。ご褒美をあげなくては」


 目を閉じているせいで直に声が脳に響き耐えられない快楽で世那の口元は弛んだ。


 何故今までこんな気持ちのいいことを知らなかったのか、何故忘れてしまったのか。これからもずっと自分を傍に置いてくれないだろうか。永遠に自分を愛してくれないだろうか。


 主人は世那の額に手を当てると強く引き寄せ、露わになった首筋に強く牙を立てた。


「んっ……」


 生々しい血を啜る音と主人の牙が刺さっていることに世那の体は震えた。

 気持ちいい、その言葉だけが脳裏を掠める。

 世那の脚に力が入らなくなり主人に身体を預けてしまいそうになったところで牙が更に食い込んだ。


「っい……」

「自分で立ちなさい。……主人の食事を邪魔してはダメ」

「ッ……ん」


 命令されるだけで体が悦び思考を溶かす。けれども血が抜けていくことで思うように力が入らなくなっていくことには抗えない。

 とうとう立っていることができなくなってきたところで牙が世那の皮膚から抜けていった。

 主人が一歩後ろに下がると同時に世那は膝から崩れ落ちた。洗面台に手をつき、事なきを得たが背後にある冷たい視線を肌で感じた。


「ほんと、あなたはダメな子」


 さっきまであんなに褒めてくれていたのに途端に切り捨てられ世那の心が張り裂けそうになった。また捨てられる、その恐怖で息が上がっていく。


「30秒数えなさい。数え終わった時、あなたは自由になる」


 捨てないで


「ま……待って」


 置いてかないで


「1、2、……」

「3、4、5……」


 主人が数え始めると世那は大人しく従った。

 かき乱された気持ちは主人がいなくなることを嫌がったがそれに勝る命令に抗うことはできない。瞼を開け振り向いてその姿を確認すればいいだけ。それだけなのに何もできずただ数えた。


 命ぜられた数を数え終わろうとした瞬間、革の靴が足早に此方へ駆け寄ってくる音が聞こえ、世那は自由になった体で振り向いた。


「世那!」

「……利津」


 血相を変えた利津は世那に駆け寄ると膝をつき世那の両肩を掴んで顔を覗き込んだ。

 利津の視界にすぐ入ってきたのは真っ赤に血塗られた首筋。噛み痕もしっかり残っているのを見つけると心配していたはずの利津の眉間に深い皴が刻まれた。


「誰の仕業だ」

「……」


 世那は答えられなかった。誰かわからない。だが確実なのは自分を吸血鬼化した真祖がここにいたということ。

 親である誰かに命ぜられ悦んでしまった自分を利津にどう説明していいかわからなかった。


 何も言わない世那に利津は舌打ちをすると世那のスーツを抱え、世那が侵入してきたときと同じように軽々と抱き上げ洗面所を後にした。出たすぐのところにあったリネン室のドアを蹴り開けタオルが積み重なったところに世那とスーツを落とした。


「いってえ……」


 ガチャンと重い音が響き鍵がしめられた。

 曇りガラスの小さな窓から月明かりが部屋を照らす。男二人が入ればもう身動きが取れないほどの空間に利津は冷たい視線で世那を見下ろしていた。


 怒っている、簡単に世那が分かってしまうほど利津はあからさまに機嫌を損ねていた。


「俺の護衛をせず見知らぬものに血を与えていたのか」

「……、どうだっていいだろ」

「それを決めるのは主人である俺だ、お前ではない」


 本当の主人はお前ではないだろ。そう言ってしまえばこの関係は終わっていたかもしれない。けれども世那はそうすることが出来なかった。同時に沸々と怒りにも似た感情が沸き起こり世那は利津を見上げながら睨んだ。


「女に鼻の下のばしやがって」

「なに?」

「護衛だなんだって連れてきたくせに。……大体婚約者がいるのに俺のとこに来てんじゃねえよ。とっとと戻れ」


 本位じゃない言葉が世那の口から溢れた。ただの八つ当たりだった。操られた時の快楽に溺れ、何一つ情報を得ることができなかった自分の情けなさ。


 でも、なにより世那は寂しかった。部屋に閉じ込められているときは見ることも出来なかった利津と外の世界のつながりは世那が入れる余地はどこにもない。


 ここに捨て置かれるのを覚悟した世那のところに利津は一歩前に出て世那の前に片膝をつき視線を合わせた。

 世那が恐る恐る顔を上げると利津は思いもよらない表情を浮かべていた。怒るわけでも侮蔑するわけでもなく、満足げに笑っていたのだ。


「嫉妬か?」

「は?」

「ふふっ、そうか。随分と愛らしくなったものだな」

「何言って……」


 月明かりを浴びた白い正装と銀色の髪がまぶしく世那は眉間に皴を寄せ目を細めた。利津の翡翠色の瞳は宝石のように輝きながら世那を見つめ、手を伸ばし世那の頬を撫でた。


「美玖を愛しいと思ったことはない」

「は?」

「世那だけだ」


 飄々とし身勝手な利津だが世那に向けるものに偽りはない。見透かすような強い視線に世那は頬が熱くなるのを感じ、利津の手を振り払うように体をひねった。


「んなこと求めてねえ」


 強がって見せることで精一杯だった。今し方、利津に言われて自分の感情が嫉妬によるものだったのだと再認識させられ恥ずかしかったからだ。

 モジモジする世那を他所に利津は自分のネクタイを緩め首元を晒すと座り込んだ世那の膝の上に跨るように座り更に体を近づけた。


「っ、近え。なんだよ」

「今日の吸血がまだだった」

「今、ここで?」

「血を抜かれ力が入らぬだろう」

「それはそうだけど……」

「それに嫉妬させてしまったからな。……さぁ飲め」


 言いながらどこか嬉しそうな利津は自ら首筋に爪を立てた。

 ぷくっと血が滲むと同時に世那の見た目は吸血鬼のものへと変貌する。利津の髪とは違う白に近い髪を揺らし、真っ赤な瞳で利津を見上げると世那は大人しく首筋に噛み付いた。


 牙が食い込む瞬間の痛みは互いが親と子ではない証。それすら愛しく利津は深い溜息を漏らし、抱き寄せるように世那の頭に腕を回した。


「これからずっと俺の血が飲めるのも世那だけだ」


 吸血に夢中になる世那にそっと囁きかけ世那の首筋にある歯形に利津は指を這わせた。

 今はいない敵に苛立ちを覚えながら決して口にはせず、ただ世那の吸血が終わるのを待った。

お読みいただきありがとうございます。

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