2話
「世那」
男、世那は声をかけられたように感じてぎゅっと目に力を込めた。それに伴って真っ暗な視界がゆっくりと白けていく。覚醒しようとする頭に身を任せ、世那は瞼を持ち上げた。
初めに見慣れない真っ白な天井が目に入る。次にふんわりした頭の心地を覚え、手を緩く動かす。これまたふわふわとした感触を確かめ、世那は漸く自分が布団の中にいることを理解した。
こんな柔らかな布団で寝たのはいつぶりだろうか。深く息を吐き、自然と鼻から新鮮な空気を吸い込む。久しぶりに太陽の香りがして心地いい。
太陽……?
その言葉が頭を過ぎった瞬間、世那の皮膚がひりついた。これ以上浴びてはいけない、と世那は慌てて布団の中に潜り込んだ。
カチャッ
聞きなれない音が聞こえ、冷たい感触が左足首に感じる。何か足に巻かれている。
金属?……足枷?何故。
世那は布団の隙間から辺りを見渡した。日の光が眩しく世界が白けていたが、だんだんと目が慣れてきて部屋の全体像がはっきりする。
ベッドから離れた場所にドア。おそらくあそこが唯一の出入り口だろうか。自分がいるベッドの近くには小さなテーブルと木製の椅子が二脚。背後には今しがた逃げ出した日差しの元、窓があった。そこには窓を背に立つ男がいる。
「あぁ、日差しか」
どこかで聞いたことのある声がそう言うと、シャーッという音が響きカーテンが閉められた。部屋は暗くなり視界がぼやけたが、すぐに部屋の電気がつけられた。明るいところから暗いところ、そしてまた明るくなって世那の視界はまた白けてしまい、何度かの瞬きをしてゆっくりと視力を取り戻した。
「起きろ」
「……、え。あ……」
目の前に立つ人物をまじまじと見る。カーテンの閉められた窓の前には真っ白な軍服に身を包んだ銀髪の男が此方を見つめていた。誰かを確認しようとしたところで胸元にある勲章が目に入り世那は咄嗟に飛び起きた。
王から賜る子爵の証と軍での地位を表す大尉の勲章、そして肩に縫われた白の部隊章。一般人、いや、もしかしたら子どもでもわかるかもしれないほど有名な人物、久木野利津がいる。世那はボサボサの黒髪を整えることも忘れその場で正座した。
「久木野……大尉」
本来軍服というのは戦地に赴くためのもので迷彩柄や黒色が多い。しかし、目の前の男は戦地には不相応な白色の軍服を着ている。元より、戦地に赴くことを想定していない貴族が身につける形ばかりの軍服だからそれでいいのだろう。しかも白色を許されるのは公爵の爵位を持つ久木野のみだというのは周知の事実だ。だから会ったこともない世那でも目の前の男が誰かすぐに理解できた。
「その様子ならば大事ないな」
「え……?」
男、利津は世那を舐めるように見ると何故かほっとしたように口元を綻ばせた。
会ったことも話したこともない久木野大尉が安堵する理由が全くわからず、世那は素っ頓狂な声を漏らしてしまった。
だがその柔和な表情も一瞬で利津の表情は固いものに変わった。眉間に皺を寄せ、手に持っていた黒いファイルを広げた。
「こちらからの質問には嘘偽りなく答えろ」
一瞬見せた温かな雰囲気は一変、冷たく低い抑えた声が世那の鼓膜を突き刺す。世那は無意識に姿勢を正した。
「影島世那、26歳。主のわからぬ親なし吸血鬼が属する特殊部隊第三に所属。以前は二等兵として軍に8年間従事。戦場では突撃兵として……」
紡がれる言葉は事実だ。でも……と世那は心の中で否定した。
この国の軍で二等兵と言うのは1年かそこらで終わり昇進する。所謂、見習い期間を二等兵として位置付けられている。よほどのことがない限り、普通に従事していれば何事もなく上がるはずの階級を世那は8年も続けてきた。
理由は簡単だ。
世那には両親がいないだけではなく、親戚もいない。つまり、血の繋がりのある人間がいないため、軍の中での昇進の順番が後回しにされてしまっている。おかしな話だが、この国においては家柄が何よりも重要だから仕方がない。
「……ここまではいいか?」
感情の乗らない冷たい声が世那に尋ねる。
「……はい」
世那は僅かな怒りがあったため返事を渋った。その様子を利津はじっと見つめ、再び書類に視線を戻した。
「何故この屋敷を襲った」
「……え?」
身に覚えのない事件に世那は顔を上げた。互いに目が合うと利津は眉間の皺を一層深くして世那を睨んだ。
「質問に答えろ」
「いや、待ってください。何の話ですか」
襲うも何も今どこに自分がいるのかもわからない状態の世那がどうしてここを襲えるというのだろうか。世那は必死に思い出した。確か、いつもの特殊任務の後、家に帰って眠って、それで今は……。
やはりおかしい、と世那は彷徨わせていた視線を利津に戻した。
「今、何月何日ですか?」
「……なに?」
「すみません、何月何日か教えていただけないでしょうか」
「……」
利津は口を一文字に結んだがしぶしぶ答えた。
「4月9日」
「……は?」
世那の胸がじくりと痛んだ。眠った日の日付は4月7日。その日は両親が亡くなった命日。忘れるわけがない。
いつもなら休みを取って墓参りに行っていたが、今年は配属先が、……というより吸血鬼になって勤務が変わり叶わなかった。幸い休日が翌日の8日だったためその日にいけるな、と考えていた。
なのにその日も通り過ぎて4月9日になっているなど、世那は簡単に受け入れられるはずはなかった。
戸惑う世那を尻目に利津は捲し立てるように同じ質問を繰り返す。
「もう一度聞く。何故この屋敷を襲った」
「……俺じゃない」
利津の言葉は世那の耳に入らない。世那は拳を強く握ってボソボソと否定する。
違和感を覚えながら利津は変わらず強い語調で問い続けた。
「ならば何故貴様はここにいる、説明しろ」
「知らねえよ!おかしいだろ。父さんと母さんの命日をほったらかして俺は何でここにいるんだよ!?」
利津が自分よりもずっと身分が上だということを忘れ、世那は声を張り上げた。広い部屋に世那の声が響き、そしてシンと静まり返った。鋭く冷たい翡翠色の瞳が何の感情も乗せず世那を見つめている。
謝ればよかったかもしれない。けれどもここで弱気になれば覚えのない罪を認めたことになってしまう。それだけは絶対回避したい。
そう思った世那は一つ息を吐くとまっすぐ利津を見つめた。
「俺はやっていない。……神に誓って」
「ハッ、神……。人ならざる者が神に何を誓うと言うのだ」
利津の片眉は上がり、小馬鹿にしたように笑った。態度は横柄で決して相手を思っているようにはとても思えない。
だが、世那は思った。今まで会ってきた人間たちの中では大尉殿は優しい方なのかもしれない、と。他の上官に口答えなどしたらその場で殴られ、罵声を浴びせられ、最悪独房行きになる。
少なくとも利津は世那の話を聞こうとしてくれている。
「なりたくてなったんじゃない」
ならばありのままを伝えれば自分が無実だと伝わるかもしれない。その希望に世那は賭けることにした。
「大尉はご存じのはずだ。第三部隊は主人のいない親なし吸血鬼の集まりだって。それに……」
吸血鬼。その響きすら世那にとっては気分が悪く言葉が詰まった。
世那が言う吸血鬼とは、元々人間だった者を指している。血を吸うことで生を保ち、人間の何倍もの力を持ち、寿命も長く、人知を超えた存在に生まれ変わる。
ただし、元は人間だったためにエラーが生じる。自分を吸血鬼へと変貌させた主人の命令は絶対となり、その親の眷属となってしまう。また、生まれつき吸血鬼だった真祖とは異なり、元人間の吸血鬼は人間に噛みついても、その者を吸血鬼化することはできない。
世那は自分で発した言葉を否定するように毒を吐いた。
「……吸血鬼は嫌いだ」
「フッ、俺を前にしてよく言える」
ポツリと呟いた憎悪を含む声に利津は口角をあげ歪に笑った。
「言い分はわかった。だが、お前が否定しようと無駄だ。この屋敷に入り込み、短刀を抜き、敵意を向けたことは事実だ。ここが久木野邸と知ってか知らずか、意識があろうがなかろうが罪は罪だ。そうだろう?」
世那は何も言えなかった。利津が正しい。実際久木野の邸宅にいる以上、どんな否定の言葉も役に立たない。
絶望しかない。そう思った時、利津はファイルをパタンと音を立てて閉じ、こう続けた。
「たが、……ここは久木野の公爵邸。国から認められている治外法権だ。罰するにしても法で裁く必要はない」
もとより人間から吸血鬼になったものに法などあってないようなもの。法で裁かれないとするならば更に無理難題を押し付けるに違いない。そう思った世那はぎゅっと唇を噛みしめ俯くほかなかった。
どうせ吸血鬼に堕ちた時点で世那の人生は終わっている。しかも親のわからない吸血鬼に未来などない。
世那の不安げな表情に利津は世那の座るベッドの端に腰を下ろしそっと世那の頬に指を這わせた。
「俺のものになる覚悟はあるか」
思いもよらない言葉に世那は目を丸くし利津を見上げた。
「……は?」
「主人のいない吸血鬼が何故ここを襲ったのか興味がある」
感情らしい感情を一度も見せなかった利津から興奮が垣間見える。翡翠色の瞳はギラギラと輝き、獲物を見つけた肉食獣のそれと何ら変わらない。世那の黒い瞳は捕食者に見つめられ身動きが取れなくなった。
恐怖?……違う。何かどこか懐かしい感覚。
「今日からここで暮らせ。左足の足枷には銀が練りこまれている。説明は不要だろうが、吸血鬼が唯一苦手とするものは銀だ。無理に取ろうとしても力が抜け、逃げようにも逃げられまい」
世那は足首に手を伸ばした。話をしていてすっかり忘れていたが、やはり足には枷がされていた。しかも銀で出来ているなど用意周到もいいところだ。
「あとは……そうだな。朝は日を浴び、夜はゆっくり休め」
残酷な言葉に世那の喉がひゅっと冷たい空気を飲み込む。
「なに……?」
「神に誓えるのだろう?人間はそのように暮らしている。……まさか日を苦手とする人間はいないな」
元人間の吸血鬼のもう一つの弱点。それは日の光だ。少しでも太陽光を感じるだけで皮膚がヒリヒリと焼けるように感じ、体力も知力も根こそぎ奪われていく。真祖の吸血鬼も日は苦手だが動けなくなるなどの障害はない。夜の方が好き、その程度だ。
前者である世那にとって日の光を浴びるということは何よりも酷な拷問であることを利津はわかっていて告げたのだ。
絶望していく世那に利津はフンと鼻を鳴らし部屋の真ん中にある大きな杭を指さした。
「打たれている杭は足枷とを鎖で繋いでいる。そこから半径3m以内の範囲なら好きに動け。トイレも風呂も自由だ。服も足を通さなくても着られるものを用意しよう。食事も心配無用だ」
自由、確かに自由だ。軍の訓練もなければ衣食住にも困らない。嫌味な上司も万年二等兵と揶揄されることもない。温かい風呂に柔らかな布団。今までの世那の生活を考えたら楽園と言ってもいいくらいだ。けれども……なんだこの違和感は。
目が右へ左へ泳ぐ世那を見て利津は頬から指を滑らせ手を放した。
「ただし、窓とドアに近づくことはできない。……わかるか?ここから出ることもカーテンを触ることも許されない」
利津は隠しきれない内から湧き起こる興奮に狂気の笑みを浮かべた。およそ人に向ける者ではない黒く、情の欠片もない表情。世那が意図に気づく前に利津は立ち上がり数歩後ろに下がって背後にあるカーテンに手を伸ばし、勢いよく開け放った。
蛍光灯よりもずっと強い光が部屋全体にまっすぐ射し込む。
「っぐ……ぅ」
世那は慌てて顔を手で覆った。目の奥が焼けるように痛み、皮膚はひりつく。何よりダメージをかき消そうとする血への欲求が溢れ思考が乱れる。
血が欲しい、血が欲しい。
苦しさと渇きに世那は悶えるように身体を震わせた。ガチャガチャと足枷が鳴り、そこから離れることを阻む。世那は布団を引き寄せると包まるように被った。
「フフッ、いつまでそう耐えていられる。時刻は6時。日が落ちるまでまだ半日ある。……楽しみだな」
布団の中からでも利津の狂気した声が嫌でも耳に入り、世那は両手で耳を覆った。ここは治外法権。軍や警察に突き出されるよりもずっとずっと酷い拷問が待っている。現状も拷問の一つに違いない。
こんもりした布団を見つめながら利津はふっと口角を上げた。
「暇が出来たら会いに来てやる」
心のない冷たい言葉だけを残し、利津は部屋から出て行った。