銀の兎 -1
その夜。シェリエンは寝室のソファーに座り、一冊の絵本を手にしていた。ここへ来たばかりの日、退屈しのぎにとティモンが持ってきてくれたうちの一つだ。
草原、海、山、花畑と様々な景色の中に、一人の青年と一匹のうさぎが描かれている。
これまでの人生で、絵本などという希少なものに触れたのは初めて。頁を捲るたびに変わる鮮やかな色彩は、すぐさま彼女を虜にした。
今朝、シェリエンを気遣ってくれた二人からの話のあとで、ティモンに尋ねられた。「何か必要なものや、やってみたいことはありますか」と。
しかしそう言われても、ここでの贅沢すぎる生活に特に不満はないのだ。しばらく悩んだが、彼女はふと、ティモンが差し入れてくれた綺麗な本のことを思い出した。
シェリエンは文字が読めない。この国の言葉、ウレノス語だけでなく、母国語であるガイレア語も。
彼女が生まれ育った村に、きちんと読み書きができる者はいなかった。半年の花嫁修行で少しだけ習ったものの、会話の習得を優先したためほとんど記憶にない。
貸してもらったのはどれも装丁の美しい絵本で、絵を見ているだけでも十分楽しめた。それに彼女が頼めば、優しい世話役は喜んで読み聞かせをしてくれただろう。
でも、もし自分で文字を読むことができたら……。思い浮かんだそれは、なんだかとても良い考えのような気がして。シェリエンは、読み書きを教えてほしいとティモンに頼み込んだ。
――はやく、読めるようになりたいな。
表紙に描かれたうさぎに目を落としながら、彼女の口元はひとりでに綻ぶ。
そうして絵本を眺めていると、寝室の扉が開いた。いつもと同じ、寝支度を済ませて夜着姿になったリオレティウスが現れる。
彼は、本を手にする幼妻に気づいてソファーまで歩いてきた。隣に腰を下ろす気配に、シェリエンの心臓は少しだけ跳ねる。
シェリエンは、夫となったリオレティウスのことがまだ少し怖かった。
人として怖いというのではなく、その体格差ゆえだ。自分より頭二つ分も背が高く、広い肩幅に鍛え抜かれた身体。こんな男性とは、今までの人生で関わったことがない。近づかれれば無意識に身構えてしまう。
それでも初日に比べて随分と平気になったのは、思いのほか、彼は優しい人なのだと知ったからだろうか。
最初に会ったときも、朝と夜に僅かな言葉を交わす際も、彼の態度はあっさりしたもので。嫌な顔こそされはしなかったが、シェリエンという存在がいてもいなくても同じなのではないか、そう感じるほどではあった。
その彼が、昨夜は涙を慰めてくれて、今朝は――。
「文字を学ぶことにしたそうだな」
彼の言葉が自分に向けられたものだと理解するのに、シェリエンは幾らかの時間を要した。挨拶を除き、これまで会話らしい会話はなかったのだから仕方ない。
「……はい。貸してもらった本、読めるようになりたくて」
返事を発するまでだいぶ時間がかかったが、彼には気にする素振りはない。
つと、横から大きな手が差し出されて。シェリエンは持っていた絵本をその手に渡した。
「懐かしいな。昔ティモンがよく読んでくれた」
リオレティウスは、受け取った本の頁をぱらぱらと捲りはじめる。
かと思えば、彼は途中で急に手を止め、描かれた絵の一点を凝視した。
「なんかこれ……、お前に似てるな」
「……えっ?」
彼が指差したのは、毎頁に登場するうさぎだ。「銀の兎」という本のタイトルどおり、銀色の毛をしている。
――たしかにわたしも銀色の髪をしているけれど……。
初対面のとき、それから緊張して迎えた初日の夜。ことあるごとに小動物呼ばわりされたことを思い出して、シェリエンは複雑な表情を浮かべた。
そんな幼妻の気を知ってか知らずか。リオレティウスは彼女のほうへ目をやると、平然と言った。
「お前の髪は、美しい銀色をしている」
「…………」
シェリエンは、何と返事をすればよいのかわからなかった。美しいという言葉を男性から向けられたことなどない。
言葉を放った当の本人は、彼女が困り果てていることには一切気づいていない様子。何気なく立ち上がって、さあ寝るかとベッドのほうへ歩き出している。
――なに、この人……。
意図せずもたらされた困惑をどう表せばよいかわからず、シェリエンは小さく眉を顰めた。
けれども彼がそれについて何ら自覚がなく、さっさと場を離れたことに安心する。
美しいと言われたときの、くすぐったい感じが続くのはもっと困る――そんな気がして。
ふあ、と一つ、彼は気の抜けたような欠伸をこぼしている。その大きな背を追って、シェリエンはベッドへと向かった。