銀の太陽 -2
シェリエンは思う。逃げ出せるものならば、逃げたい。
玉座の間で対峙した絡みつくような目を思い返せば、途端に寒気がよみがえる。
「でも、私が前に立たないと、多くの人が傷つくって……」
「それは……。しかし本来ならばあなたはここにいるはずがなく、こちらで対処せねばならなかったこと。責任を感じる必要はないのです」
少女は俯いて、膝に置かれた自身の両手へと視線を落とした。
自分が民の前に出たからといって、蛮族をすぐに追い返せるというわけではないのだろう。兵の士気が上がるというが、それがどれほどの効果を持つのかシェリエンは知らない。
それに、己の無力さならもう嫌というほど味わった。
例えば二国の間を取り持てるような価値は、この身にはなかった。では生身を張って戦えるかと言えば、当然無理だ。
彼のことだって、ただ――。胸の内に冷たさが走る。
先の戦に出たはずの彼は、無事なのだろうか。二国の戦闘は一旦は止まったが、交戦時の詳細はわからない。彼の身に何かあったらと悪い想像ばかりに囚われ、ずっと、ただ祈るしかできなかった。
目を背けたくなるほどに、静まらない胸の内。自分ではない誰かが、安全で無事にいてほしいという切なる想い。
それは、十三歳で和平の象徴として嫁いだときには、真には知り得なかったこと。
平和のためとか皆のためとか、自らを納得させるべくなんとなく言い聞かせていただけで。
でも、今ならわかる。
こうしている間にも、外敵の脅威にさらされ、戦う人がいて。それを送り出し帰りを待つ人は、きっと皆こんなふうに苦しい想いを抱えて――。
「いえ、やります」
言葉は勝手に、口をついて出ていた。
ディアーネは、瞬きを忘れて少女を見た。晴れ渡るほどに迷いのない、真っ直ぐな返答。
見目にはほんの、か弱い少女なのに。彼女が言葉を発した瞬間何か、微かながらあたりを照らすような光が感じられて。
その何かに魅入られるかの心地を覚えたディアーネは、しばらくしてやっと、我に返って口を開いた。
「あなたは、あなたのお父様に似ていますね」
「お父様……?」
「ええ、私が直にお会いしたのは数える程度ですが……」
すっと、少女の顔に年相応のあどけなさが浮かんだ。
この国の第三王子であった、彼女の父親。
先ほどディアーネとシデリス卿がその話題についてやり取りをする間、シェリエンはぽかんと見守るだけだった。母の死の間際に初めて父の素性を聞いた彼女は、父親がどういった人かというのは何も知らなかった。
そんな少女に向けて、ディアーネはこれをゆっくり語って聞かせた。
前王ロムルスの、三番目の息子、ヘリウス。
子の中で一人だけ妃の銀髪を継いだ末子を、前王は特に可愛がったという。産後の回復が芳しくなかった妃が若くして亡くなってからは尚更に。
武力という伝統が根付くガイレア王族に、そして戦争はあって当たり前とされる世に生まれながら、彼ヘリウスは一風変わっていた。平和を唱えたのだ。
彼はガイレアの男として武芸を身につけつつも、隣国ウレノスとの実戦に出ることはなかった。
その代わりにというのか、彼は見聞を広めるためとよく旅に出ていた。身分を隠し、最低限の従者を伴って各地を巡り。
隣国の生活を覗き見、敵と教えられてきた彼らは手を取り合うべき同じ人間だと識ることも、その中に含まれていた。
彼は父ロムルスにも和平を訴えたが、それはなかなか実現には至らなかった。
ロムルスの前の王は、ヘリウスの母である妃の父親。わかりやすく言うと、そこは婿養子のような形で王位が継がれていた。先代から“強き王”を任されたロムルスにも、様々思うところがあったのかもしれない。
ウレノスとガイレアの二国は変わらず敵対関係を続け、時として戦った。
シェリエンが嫁ぐ以前に最後の戦となったのが、七年前の会戦だ。そして、その機に乗じて侵略を企んだ蛮族を撃退したのが、戦場には姿を現さないはずの第三王子。彼は実戦経験の不足など微塵も感じさせず、勇猛に軍を率いた。
結果、蛮族の脅威は消え、彼自身も一旦は無事に王宮へと帰還した。
しかし、戦地で負った小傷から発した感染症が原因となり、帰還後しばらくして彼はこの世を去った。
「日の下に颯爽と立ち、戦闘前には必ず兜を脱ぎ顔を見せて兵たちを鼓舞し――南東の脅威を取り払った英雄を、人は“銀の太陽”と呼んで称えました」
――銀の太陽……。
ディアーネの話を聴きながら、ふっと、シェリエンの脳裏に浮かぶものがあった。
幼い頃の、自分でも気づかぬうちに残っていた、確かな記憶というよりは原風景にも近い何か。
ある夜、母のベッドにもぐり込んで眠っていたとき。閉じた瞼の向こうで、突然ぱあっと光が差した。
隣では母がそっと起き出して、寝室に一つだけ備わった小窓へと寄って。光の正体を確かめると、母は寝室を出て台所兼居間へ行き、家の外へと続く扉に手をかけた。
シェリエンは僅かに開けた目でそれらをぼんやり眺めて、けれども眠気が勝ってすぐに瞼が落ちてきた。
そんな様子に気づいた母の微笑みが、瞳を閉じる前に見えた気がする。
『久しぶり。変わりなかったかい? ……あの子は?』
『一度目を開いたけど、また眠ってしまったわ。起こしましょうか』
『いや、いいんだ。元気にしているなら』
『……すぐに行ってしまうの?』
『ああ、宿は町にとって、そこを抜け出してきた。父上が即位して以来、昔ほどふらふらできなくて……すまない』
『いいえ、あなたがこうして会いに来てくれるだけで、私は十分幸せだわ』
寝静まった村の民家にそうっと差し込む、橙色の陽光。炎にも似た、あたたかな揺らめき。
今思えばあれは、耀光石を用いたランタンの明かりだった。あの明かりを初めて見たのは花嫁修行時だと思っていたけれど。
昼間に太陽の光を吸収して輝く特殊な石。上流階級、それも限られた者しか持てないその照明器具を、訪問日を事前に伝えられぬ彼は目印として使ったのだ。
やっぱりあれは、父だった。
寝たふりをしながら感じた、帰り際に髪を撫でていくあの手の温もり。平和を愛し、故国を守るために戦ったという人。
直接に言葉を交わしたこともない、残像のような存在だった父親の輪郭が質感をもって浮かび上がる。
それは、民の前に出ると決めた少女の心をふわりと後押しした。




