玉座の間にて -1
「陛下、ウレノス側国境の軍を呼び戻すべきでは?」
「要らん、軍なら手元にも残してあるだろう。蛮族相手なんぞそれで十分だ」
「…………」
「遠征軍には、こちらの力を思い知らせるまで帰ってくるなと伝えろ」
「……御意に」
ふんと鼻を鳴らし、いかにも不機嫌顔で椅子の背にもたれる老年の男を後に、会話をしていたもう一方の男は部屋を出た。
少し廊下を歩いて別の部屋に入ると、待機していた部下らしき人物に命じる。
「遠征軍に伝令を。結果はどうあれ一度の会戦で退いてこい、深追いはするなと」
かしこまりましたと答えて出ていく部下を見送り、男は部屋に一人になる。
口元に手をやり、何か考えるようにして。男の脳裏によぎったのは――奇遇にも見かけた銀色。
「持てる手駒は全て用意しておくか」
片眼鏡を通した無彩色の瞳には、何の感情も映っていない。熱や光は元より、冷酷さや闇さえない、ただ虚無が見える。
――これは、どういうことなのだろう。
シェリエンは、玉座を前に立ち竦んでいた。約三年半前に目にしたのと同じ、ガイレア国王の座す場。
違うのは、座ってこちらを見下ろしている人物が以前とは別人だということ。
面を上げよとの指示に従ったシェリエンを、その人物は舐めるように見た。
「ただの村娘だったというが、これはまた」
佇む少女を捉える双眸は、あらゆる欲を隠す気がないかのようにギラついて。
その顔には深い皺が刻まれ、年齢的には前王とさほど変わらずか。だが滲み出る野心らしきものが、この老年の男を溌剌とも見せている。
細かな皺が寄った目元、左目の下あたりには、特徴的な墨が入れられている。一本の短い線を上下に一度ずつ波打たせた――地を這う竜を模した形。ガイレアにて王だけが彫り刻むことができる、“地の竜”の象徴だ。
「十六か。私がもう一回り若ければ、側に置いてもいいくらいだ」
シェリエンの脇に控える女性が、ハッと息を呑んだ。
先の二国間の戦は、言うなれば不完全燃焼に終わった。
ウレノスの王子が退却した後、双方全勢力を投入してのぶつかり合いは混戦をきわめた。しかし、そこへ見舞った俄雨と日が大分に傾いてきたことをきっかけとして、両国軍は撤収。
どちらも幾分かの損害はあったが、折れるほどではない。態勢の立て直しを図った後、日を改めて再度の決戦になるかと思われた。
翌日からは不安定な天気が続いた。ウレノス軍の面々は、いつ降り出すかと空を睨み、また敵陣営の動きを警戒しながら、怪我人の手当てや隊の再編に奔走した。
そうこうするうち、ガイレア側に動きがあった。それは予想に反する、撤退の報せだった。
両国の情勢に関する話は、シェリエンの故郷の村にも届いていた。
どうやらじきに戦になるらしいと囁かれ始めたのは、春も徐々に深まる折。その頃には末端の民にまで伝わるほど、国境へ軍を進める動きが大っぴらになっていた。
だが、届く情報はあくまで噂程度のもの。遅れもあるし、正確かどうかもわからない。彼女の村は比較的国境近くに位置しているものの、戦地にも戦略上の要所にもなり得ない外れた土地だ。
限られた情報に、彼女は耳をこらして――けれど聞きたくないとも思っていた。辺鄙な村にまで伝わるような重大な内容といえば、それはおそらく良いものではない。
ついに両軍が剣を交えたと聞いたときは、背筋が凍る思いだった。彼の人の安否はわからず。その後流れた撤退の噂も、揺れる心を落ち着かせはしない。
不安を募らせながら日々を過ごす彼女の元に、ある日訪れたのは王宮からの使者だった。
そして今。シェリエンは理由も知らず、再びガイレアの王宮、玉座の間に立たされていた。
「……シデリス卿、おやめください。実孫より年若い少女ですよ」
“側に置いてもいい”との発言を受け、シェリエンの真横に立つ女性が玉座の男を諌めた。その声は細かく震えている。
「“陛下”と呼べ。もしくは気兼ねなく父と呼んでいいのだぞ、ディアーネ」
嫌悪すら滲む瞳で一瞥を投げ、ディアーネは無言を決め込んだ。
シデリス卿は不満げにぴくりと眉根を動かし、そしてシェリエンへと視線を戻す。震えることも忘れて立つ少女を見下ろし、新たに王位を手にした男は命じた。
「小娘よ。其方の仕事は、ウレノスの王子に捨てられたと民に話すことだ」
「え……」
シェリエンの口から、思わず呆けたような声が漏れる。
彼女としては何故今ここに連れてこられているのかも解せないのに、相手の要求の意味がわかるはずもなかった。
シデリス卿は片側だけ口角を上げた薄ら笑いを浮かべ、話を続ける。
「どうして驚く、事実だろうが。姫として隣国へと嫁いだはずの娘が、何故か故郷の村にいた。大概いいように弄ばれて捨てられたのであろう」
しんと静まりかえった広間に、老いたしわがれ声が後を引くように響いた。




