冬の訪れ -2
女性は、ディアーネ・メルクラスと名乗った。
この辺りの土地を管理しているのは彼女の伯父だという。
屋敷に住むのは使用人を除き、伯父夫婦と彼女のみ。高齢により体力気力の衰えが見える伯父夫婦を助けながら、つましく生活している。
今は彼女一人で日用品の買い出しに出て、帰るところだったと。
そのあたりを確認したうえで、ティモンは改めて訪問の意を示した。
屋敷は、馬車で少し行ったところにあった。
ディアーネは淑やかな身のこなしを崩さぬまま、手抜かりのない対応をしてくれた。
客人が気遣わなくていいようにと、家の者とは別の部屋で夕食を振る舞ってくれたり。シェリエンを静かに休ませられる部屋を整え、冷水やタオルを用意してくれたり。
医者を呼ぶ提案もあったが、簡単な医術の心得はあるのでとティモンが断った。
と、今晩ここに腰を落ち着けるための段取りが済んだところで。
「少し、お話よろしいですか?」
ティモンの声かけを受けたディアーネは、まるでそれを予期していたかのごとく、素直に首肯した。
話をするため、二人は屋敷の一室に移動した。
ディアーネが人払いをし、完全に二人きりになったのを認めてからティモンが口を開く。
「うちの孫娘は、どなたかに似ていますか?」
この旅において説明を要するとき、一行の設定はこうだ。
ティモンは孫娘との旅の途中で、御者と護衛の傭兵は雇った者たち。理由は諸事情と濁しておけば、基本的に詮索されることはない。
少し間を置いて、ディアーネは慎重な様子で言葉を紡いだ。
「三年ほど前……ある方の、身のお世話を担っていました。ご結婚が決まっていて、いわゆる花嫁修行というのでしょうか。礼儀作法の講師なども」
「……なるほど」
おそらく彼女は、シェリエンが半年だけガイレアの王宮で過ごした時期に、関わりがあった人物。気づいているのだ、少女の正体に。
そのうえで直接的な表現は避け、こちらの話に乗ってくれている。頭の良い女性であることは間違いないが――。
「それでは私たちの滞在は、印象的な出来事でしょうね」
「……いえ、お困りの方に会ったら、手をお貸しするのは当然のこと。明日にはすぐ忘れてしまうような、些細な出来事ですわ」
「そうですか」
手入れの行き届いた眼鏡越しに、ティモンはディアーネという人物をじっと見つめた。
派手な顔立ちではない。最低限の化粧に、飾り気のない服装。けれども見苦しさはない。肌も髪も一見地味な衣装も、日々きちんと管理し整えられていることがわかる。
伯父夫婦とひっそり暮らしているという、その清貧さを体現しているかの立ち姿。そこに、年相応の落ち着きと品位が見てとれる。
ティモンから向けられた視線に、彼女は目を背けることなく、それでいて何か強い意思を返すでもなく。ただ清淑さを保ったまま佇んでいた。
――嘘や、謀略の色は感じられない。婉曲に、口外しないことも約束してくれた。一晩の滞在に限って、ある程度なら信用できるだろう。
そう判断したティモンは、途端にパッとにこやかな笑みを作ってみせた。
「ありがとうございます。お時間をとらせてしまい、失礼しました」
この話を終えたあと、ティモンは、シェリエンの休む部屋へと向かった。看病はソニアに任せている。
そっと扉を開けると、ソニアが音を立てないよう注意しながら駆け寄ってきた。両眉をきつく寄せ、なぜかがっくりと肩を落としている。
「ティモンさん、私、この仕事受けなければよかったかも」
「それはまた、なぜ」
「だってさ……」
聞けば、シェリエンはようやく寝付いたところで。
ティモンが外している間、彼女はずっとうなされていたらしい。うわ言で、夫ではなくなった王子の名を呼びながら。
「もう見ていられなくて。本当に、離れなきゃいけなかったのかな……」
「…………」
確かに、酷な話といえる。これが輿入れすぐであれば、彼女は故郷へ帰れると喜んだかもしれない。
しかし、三年近くを共にした夫との生活を、彼女は受け入れていた。正式な夫婦とはいえなくとも、二人が穏やかに関係を築いていたのは明らかだった。
けれど、ティモンにはわかってしまうのだ、彼の想いも。
王子が一番に信頼を寄せる者の一人が自分だと、ティモンは知っている。業務における有能さとかいう話ではなくて、もっと内面的な部分で。
ソニアだってそうだ。剣の腕が確か且つ女性として身辺の世話もできるという点、既にこの旅の適役であるが。それだけでなく、幼い頃を見知った仲への信頼感は大きい。
彼自らこだわった人選を見るだけでも、別れるはずの少女を大切に思う気持ちはひしひしと伝わる。大切だからこそ、手を離す決断をしたのだ。
少女の境遇、両国の関係、これから起こり得ること、彼の生い立ち、そして決心――。
それらを悟ったすえに、ティモンでさえ何も言えなかった。その痛々しさに心を苦しめながらも。
翌午前中。シェリエンの熱が引いたのを確認して、一行は出発した。
彼女はまだぼんやりしていたが、主な原因は体調不良ではないのだろう。発熱に際し、風邪や病の兆候は見られなかった。続く旅の疲れもあったろうが、おそらく心労によるものだ。
ディアーネは、前日と同じく細やかな対応をしてくれた。彼女に見送られ、馬車は屋敷を後にする。
昨日の雪は大した降りにはならなかった。今日も変わらず風は冷たいが、空は見通しよく晴れている。
暫しの間、ディアーネはその場に留まっていた。寒風を避けることもせず、遠ざかる馬車を静かに眺める。
それからようやく屋敷に入ろうと、後ろを振り向いて――瞬間、彼女はハッと息を呑んだ。
少し離れたところに立っていたのは、ここにいるはずのない人物。振り返るまで、気配はまったく感じなかった。
「あなた、なぜここに」
「心外だな。妻に会いにくるのに理由が必要か?」
「……いつから、いらしたのですか」
「つい先程だよ。裏門に面する道のほうに着いたから、そこで使用人に馬車を預けて。敷地内を歩いてきたところだ。……何か問題でも?」
「いえ……」
――彼らの姿を、見られただろうか。
平静を装いながら、ディアーネの心には一抹の不安が過ぎる。
その内を知ってか知らずか、彼女の“夫”は何事もない風情で話を続けた。
「それより、君はいつになったら戻る?」
「……私はもう、あの家との縁は切りました」
「おかしなことを言う。入り婿の私ではなく、実の娘が家を出るなど」
彼は口元をちょっと持ち上げて、笑顔を作ってみせた。
しかし、曇りなく磨き上げられた片眼鏡の奥の瞳は――。
「お義父上が玉座に在る今、君は王の娘だというのに」




