日常の揺らぎ -3
その晩も、シェリエンはひとり眠りについていた。
先に寝入ってしまうのが習慣化しつつあることに、僅かな寂しさ、心許なさを抱きながら。
夜中、微かな物音を感じて目を開く。
と、寝室へ来たリオレティウスがちょうどベッドに入るところだった。身を布団に潜り込ませる途中の、座すような体勢の彼と目が合う。
「悪い、起こしたな」
その言葉の響きは、落ち着いていた。
けれど、シェリエンは感じる――何かが違う。
明かりを落とした部屋の中、ぼんやり浮かぶ青色の瞳は穏やかなようで、しかしこちらを見てはいない。固く閉ざされ、何者も寄せつけないかのごとき無感情。
実はそれが、やり場のない怒りという、強すぎる情動を無理に押し殺そうとした所為だということまでは彼女にはわからなかったが。
シェリエンは一瞬たじろいで――けれども、気づけば身を起こし、次の瞬間には彼へと手を伸ばしていた。
なぜそうしようと思ったのかは自身でも説明がつかなかった。どうにかせねばと、直感的な行動だった。
膝立ちの格好になって腕を伸ばしたシェリエンは、そっと彼の前髪あたりに触れた。そして、ぽん、ぽんと、ゆるやかに撫でる。
ここでの日常にありて時折、彼がそうしてくれるみたいに。
不意にもたらされたその柔らかな感触に。
リオレティウスはハッとして、急速に我に返ったような心地を覚えた。
目の前には、小さな少女が――といっても、出逢った頃のように“子ども”だなんて呼べるものではもう到底ないが、自分より一回りも二回りも小さい身体で――彼女は手を伸ばしながら、気遣わしげにこちらを見ていた。
薄暗い部屋の中、その髪の銀色が、ぼうっと輝くように浮かび上がって。
それは、暗闇に一つだけ灯った淡い光のようにも見え。降ったそばからすぐに融けて消えてしまう、儚い雪のようでもあった。
絶対に傷つけることなど赦されない、小さな小さな光。
彼はそれを、思わず掻き抱いた。
――偶然に手の中に迷い込んできた少女が。
彼にとって大切な存在となるまでに、さほど時間はかからなかった。その想いが、男女における恋情のようなものかどうかは別として。
潤んだその瞳ごと零れ落ちそうなほど、ふるふると身を震わせ、泣き濡れていたくせに。
この国の文字を学びたいと言い、精一杯自らにできることを探し、時にあどけなく笑う。
予期せぬ結婚、望まぬ相手だったにもかかわらず、どんなときも帰りを待っていてくれて。抱き寄せればほっと安堵したように身を預けてくる。
そんな小さな生き物を、愛らしいと思わずにいられるだろうか。
いつしか添うように眠り始めてからも、理由もなしに強く抱きしめることはなかった。例えば雷だとか、彼女が何かに怯えたときだけだ。
もう子どもではないのだと気づいてからは尚更、不用意に触れてはならないと細心の注意を払ってきた。
それを、自分の一方的な想いだけで、こんなふうに強く抱き込むなど。
しかし彼女は身じろぎもせず、突然に回された腕の中にすっぽりと収まっている。そんなに無防備に委ねて大丈夫かと、心配になるほど。
身勝手な抱擁に拒絶の意を示すことなく、それどころか、か細い腕を目一杯伸ばしてしっかり抱き返してくる。
――もし今、手を伸ばしたら。
彼女はきっと、受け入れてくれるのだろう。
少女を腕の中に包み込んだまま、リオレティウスは鼻先を掠める銀色の髪にそうっと顔を埋めた。
さらりと清らかで、ふわりと温みをはらんだそれは、仄かに甘く香る。
人生で何かを望むことはなかった。
あの日も――“逢えてよかった”という言葉を彼女の口から聞いたあの日。
ほとんど無意識に、こちらから縋るかのように手を伸ばしていながら、彼女が取ってくれたその手を握り返すまでに時間がかかった。
やっと、自分は何かを求めてもいいのだと、そう思えた。
本当は、このまま。
全て自分のものにしてしまいたい。思いのままに愛して、ずっとそばに置いておきたい。
けれど――。
まだ間に合う。今ならまだ、引き返せる。




