王子妃としての日々 -1
『――お酒は飲めるかい?』
『どうかしら、この村ではお酒を飲む機会なんてあまりないから』
『じゃあ、少しだけ試してみるといい。旅のお土産だ』
『まあ、綺麗な色』
『シェリアという名の白い葡萄から作られたワインで――この国の言葉では、シェリエかな』
『瑞々しくて透明な、淡い薄緑……まるであなたの瞳みたいだわ――』
第二章 ――天地別るる瀬にありて
秋が終わり、冬が来て、また春が巡り。
シェリエンがこの国に来てから、二年と半年ほどが経った。
月日はゆったりと流れる川のように過ぎ――平穏であったが、それまでの人生とは大きく異なる地にひょいと落とされた少女にとっては、目まぐるしく、瞬く間ともいえよう。
こうした中で彼女が新しい生活を受け入れ、徐々に笑顔を取り戻したのは、隣に立つ青年の存在が大きかったはずだ。
出会った当初は、名目上の妃に無関心で素気ない態度にも思われた王子。だがその見かけ以上に、彼は妻となった少女に気を配っていた。
依然として、二人の関係は夫婦というより兄妹か親子のようで。けれども穏やかに、互いの温もりを隣に感じながら、彼らはこの二年半の日々を寄り添って過ごしてきた。
現今の季節は夏と秋の境目。間もなく来る秋に、シェリエンは十六歳になる。
「――次の夜会に、出席されると聞きました」
ティーテーブルを挟んでシェリエンの斜め向かいに座る女性は、たおやかに微笑んだ。
第一王子妃ステーシャ。シェリエンから見れば夫の兄の妻、義姉にあたる。
彼女の細く繊細に透ける金の髪は、自然に揺れるたび見る者のほうまで香ってくるようだ。それを耳元で半分すくって編み込みつつ後ろで纏め、残りは滑らかに背へ流している。灰がかった薄水色の瞳は、雪解け水のように清かで美しい。
同じ女性でありながら、彼女の姿を目にするとシェリエンはつい、どきりとしてしまう――本物のお姫様だ、と。
以前は、シェリエンが彼女と顔を合わせる機会は月に何度か、国王一家が一堂に会す夕食の席だけだった。彼女は必要以上に口を開かず、第一王子の隣で常に一歩下がって見える。
けれどそうやって物静かに座していても、滲み出る気高さや優美さは隠しきれない。まさに妃になるために生まれた人なのだと、シェリエンは彼女に近寄りがたい印象を持っていた。
それが最近になって、彼女から午後のティータイムの誘いを受けるようになった。既に二人は何度か時間を共有している。
初回は、このまま石になってしまうのではと思われるほどに固く緊張したシェリエンだったが。麗しい義姉はその高貴な顔を崩し、温和な笑みを向けてくれた。彼女は存外気さくで、第一王子の隣に立つ姿とは少々違って見えた。
そうして呼ばれた何度目かのお茶の席。
他愛ない世間話の中に出た話題は、次の夜会のこと。王子二人の生誕を祝う、毎年恒例で規模の大きなものだ。
王室の公的行事には縁遠かったシェリエンが、どういうわけか次回は出席することになっていた。
『次の夜会には、お前にも出てもらうことになった』。ふた月ほど前、リオレティウスからなんとも簡単に告げられた言葉が浮かぶ。
嫁いで初めての公の場。この国の偉い人がたくさん来るのだろうか。その目に晒されながら、王子妃としてきちんと振る舞うことができるのか――。
声を失い、つと硬直したシェリエンに、彼は軽く言い放った。
『心配するな。俺もああいった賑やかしい場は苦手なんだ、適当にやればいい』
――そうは言っても……。
目の前のこの美しい人と同じように、いや同じだなんて烏滸がましい。足を引っ張らないくらいに、なんとかやれるだろうか。
シェリエンの胸中に湧き上がった憂いに、ステーシャは気づいていない様子だ。彼女は物柔らかな微笑をよこして、会話を続ける。
「もうすっかり、王子妃ですね」
「……そうでしょうか」
何度か茶席を重ねてわかったこと。どうやら彼女は、シェリエンを妹のように思ってくれているらしい。
『こういう立場だと、気を張らずにお話できる相手がなかなかいなくて……』。そう漏らしつつ、一瞬寂しげにも見えた彼女から向けられる眼差しは、純粋に温かいものだった。
けれど、その笑顔があまりに眩しくて。
シェリエンは思わず俯いた。
少しばかり気を抜いていようと、彼女は紛れもない妃だ。何気ない所作も、静かに紡がれる話し声も、一挙手一投足の全てが洗練されている。
「……私は、ステーシャ様のようには振る舞えません」
つい口にしてしまったところで、シェリエンはハッとした。まったく当然のことを、卑屈に言いこぼすなどとは。
「申し訳ありません」
慌てて非礼を詫び、顔を上げる。
と、そこには呆気に取られた表情の義姉がいた。普段はつつましやかに伏しがちな両瞳を、まん丸に見開いている。
それから彼女はふふっと、めずらしく声を上げて笑った。
「私は、ほとんど生まれた頃から王家との縁談が決まっていたようなもの。ずっとそのための教育を受けてきました。だからできて当たり前なのですよ。
見知らぬ場所で努力できるあなたのほうが、よほど素晴らしいわ」
「…………」




