幕間:初日の夜のお話
少々時を遡り、シェリエンがウレノス国に嫁いできた、初日の夜のこと――。
入浴や寝支度等を済ませたリオレティウスは、自室にて書類を手にしていた。政務のちょっとした確認事項を思い出し、寝る前に見ておくことにしたのだ。
もう片方の手には水の入ったグラスを持ち、寛いだ様子で書類に軽く目を通す。
そこへ、不意にノックの音がした。
彼が許可の返事をすると、ティモンが現れる。
「こんな遅くにどうした」
「侍女から言伝がありまして。……妃殿下の初夜の準備が整ったので、寝室へどうぞと」
ちょうどグラスを口元へと傾けていたリオレティウスは、伝えられた言葉に思わず咳き込んだ。
「形だけの婚姻と聞いていたが。……行かないとまずいのか」
「……ご結婚されましたら、寝室を共になさるのが通例です。それに妃殿下は、ここに着いたばかりでお一人では心細いでしょう。新婚初夜に夫君が現れないというのも、嫁いできた身としては……」
「あー……、わかったわかった、寝室に行くことは行くが……これを読み終えたらちゃんと行くから、もう下がっていい」
退室するティモンの背を見送りながら、リオレティウスは短い溜め息を落とす。
――結婚後は同じ寝室でと、確かにそんな話があったような……この縁談を受けて、諸々事務的な話を聞いたときだったか。さらっと聞き流してすっかり忘れていた。
通例だなんだと説いてきたティモンも、なんとも微妙な表情を浮かべていた。妃の年齢を思ってのことだろう。
政略結婚とあれば、若くして嫁がねばならない場合もあるだろうが、十三歳はさすがに幼すぎる。
そんなことを考えつつ、眉根を寄せた顔で書類を読み終えると。
さらに一つ溜め息を吐いてから、彼は自室を後にした。
リオレティウスが寝室の扉を開けると、ソファーで待っていたらしい少女はそれに気づき、立ち上がった。昼間と同じく、心細そうに身を縮めている。
近づくと、彼女はぴくりと肩を震わせた。
隣国から到着した姫を確認し、その存在が毒にも薬にもならないと判断した国王は、「王子の好きにしてよい」と言った。
――好きにしていいなどと言われても、こんなもの、一体どうしろと……。
不安げにこちらを窺う少女を見下ろしながら、思う。
これだけ怯えているということは、初夜については言い含められているのだろう。いや、そうでなくとも知らない男と二人きり、怖くないはずがない。
“好きにしていい”と言うなら、関係を強いなくてもよいはずだ。……とりあえず、寝るか。
と、頭の中で考えをまとめたリオレティウスは、すたすたとベッドに歩み寄る。
そんなこんなで、互いに背を向けて眠りにつき、二人は初日の夜をやり過ごしたのだった。
朝が来て。目を開いたリオレティウスは、隣で眠る少女の姿に一瞬ひどく驚いた。
遅れて、そういえば隣国から妻を迎えたのだった、と思い出す。
彼女は、まだぐっすりと眠っていた。
寝返りを打ったのか、いつの間にかこちら側に顔を向けている。
寝転がった体勢のまま片肘をついて、リオレティウスはそのあどけない寝顔をぼうっと眺めた。
カーテンの隙間から漏れ入る朝日が、薄い光で彼女を照らす。
伸ばし途中の銀色の髪と、同じ色の繊細な睫毛が、透けるようにキラキラ輝いている。
――本当に小さいんだな……。
広いベッドの上で小じんまりと眠る彼女を、その顔のあたりに自然に投げ出されているか細い指先を、何気なく眺む。
昨日の昼間、初めて対面したときのことを思い起こしながら。
顔も小さいので、その中に置かれた丸い両瞳がいっそう大きく見えて、零れ落ちそうだった。彼女自身の震えにあわせて揺れて、うっすら涙に潤んだ、ごく淡い薄緑の瞳。
同時に、そんな表情をさせてしまっているのは、この状況なんだなと思い至る。
そこに、望まぬ夫である自分の存在が含まれていることも。
自室へと戻り、着替えや軽い朝食を取ったりするうちに、ティモンがやってきた。
「おはようございます。昨夜は……よくお眠りになられましたか」
「…………。一応言っておくが、俺は何もしてないからな」
どことなく心配そうに、気まずそうに訊ねてきたティモンに対し、リオレティウスは片眉を顰めて応じた。
王子の返答を聞き、長年の世話役はあからさまにホッとした顔を見せる。
「悉く女性を寄せ付けなかった殿下が奥方を迎えるとなれば、たいそう喜ばしいことと思うのですが。妃殿下のご年齢を思えばなんとも複雑で……」
「ティモン、心の声が全部出ているぞ……まったく、俺をなんだと思っている。これからも、あれに手をつける気はない。寝るときだけは寝室に行くが、その他のことは全てお前に任せる。適当にやってくれ」
かしこまりました、と首肯して、ティモンは朝の訓練に出て行く王子を見送った。
それから、ふとしみじみ思いを巡らす。
……まあ、普通の夫婦とは違うのかもしれないけれど。
生涯独りでいることを決めていたらしい彼に、予想外に舞い込んだ縁談。
全てを失くし、その身一つで隣国へと嫁いできた少女。
無理に夫婦とならずとも、互いが互いにとって、大切な存在となる日が来るのであれば。側で見守る者としては、これ以上に嬉しいことはない。
そして願わくば、彼らが結んだ平和が、明るく笑う未来が、いつまでも続くといい。
出逢ったばかりの若き二人を思いながら、ティモンはこんなことを考えたのだった――。




