竜神詣り -1
昼前の山峡に、金色の陽光が照りつける。少女の頬は上気し、透明な白肌には滲むように紅が浮き上がる。
「――シェリエン、大丈夫か?」
傍らを歩く黒髪の青年が窺う。伸ばされた大きな手の甲が、彼女のしっとりと熱を持つ頬の表面に触れた。
「大丈夫です」
涼やかにも感じるその温度にハッとしながら、シェリエンは振り向いて答えた。
嘘ではない。夏も後半、高く照る太陽は力強いが、からっとした爽やかさがある。辺りの深緑を縫って届く清かな風も、一助となっているのだろう。
彼女の返事が無理な我慢ではなさそうだと判断するも、リオレティウスは躊躇なく、前を歩く人物に声をかけた。
渓谷に作られた道を静々と辿る一行は、そこで一旦歩を止めた。
「竜神詣り、ですか?」
「ああ、年に一度詣でることになっている。ウレノス王家は竜の血を引くらしいからな」
半月ほど前、シェリエンは、夫であるリオレティウスからこの話を聞いた。
ここウレノスにて、“天の竜”は人々の信仰対象である。同時に王家の象徴でもあり、王族はその血を継ぐ者とされる。国王一家は毎年竜神を訪れ、祈りを捧げる儀式をする。
竜神を祀っているのは王宮から少し北にそびえる山間の渓谷。儀式を行う祠まで、馬車と徒歩にて数日かかる。
王宮を一度に空けるわけにはいかないので、先ず国王夫妻が参詣した後、入れ替わりで第一王子夫妻及びリオレティウスが赴くという。
「……私は、行かなくていいのですか」
一呼吸分迷ったあと、シェリエンはおずおずと疑問を口にした。
リオレティウスは今さら心づいたかのように、僅かに目を開いた。
「お前は……」
ふむ、と彼は手を口元に当て、考えるようにしている。
過ぎたことだったろうか、とシェリエンは心配になる。
嫁いですぐに「何もしなくてよい」と遠回しに告げられたことからも、ウレノス王家において、自分が王子妃として認められていないのは理解している。
けれど彼があまりにもシェリエンを丁重に扱うので――隣に居ることがいつしか心地よく、つい口が滑ってしまった。王も第一王子も妻を伴うのなら、自分は行かなくてよいのかと。
シェリエンは先の自らの発言を後悔し始めた。形だけの妃が何をと、彼を困惑させたかもしれない。
なんでもないです、そう言おうとしたとき、しかしリオレティウスは特段気にした様子もなく平然と答えた。
「そうだな。一緒に行こう」
「えっ」
「普段は観光地となるほど美しい場所だ。気に入るといいが」
こうしてシェリエンは今、竜神の祠があるという場所を目指し、山間に作られた遊歩道を進んでいた。
山を裂くように、まるで竜が昇るような形状に成った峡谷。
晩夏の緑は濃く、そこに散るように可憐に咲く野花たちが彩りを添える。沿道に時折現れる池や湖はどこまでも澄んで、太陽の金にも樹々の緑にも映ずる不思議な青色をしている。
一行の先頭は、第一王子エドゥアルスとその妃ステーシャ。リオレティウスとシェリエンが続き、周りを従者たちが囲う。
普段は観光地として開かれているというが、王族の参詣期間は一般の立入りが禁じられる。
王宮を発って二日、車両が入れるところまでを馬車で進んだ。三日目の今日は朝から山歩き。きちんと整備された木の歩道はなだらかで、女性にも歩きづらいということはない。だが、村を出てから屋内にこもりがちだったシェリエンにとって、負担がないとはいえないだろう。
休憩を挟みつつ、一行は件の場所まで到着した。
少し前で遊歩道が途切れ、その先の山肌にぽっかりと洞門が開く。入口付近には柵が施され、ここは日頃から人の立入りを禁じている。
真っ暗な洞穴の左右に樹々がしなだれかかるように立ち、うっすら靄が覆う光景はなんとも神秘的だ。
竜の祠があるという洞穴の奥に進めるのは、“王家の人間”のみ。
最低限の護衛を伴い、第一王子夫妻とリオレティウスは中に入っていった。残りの従者たちと共に、シェリエンは洞門付近にて儀式の終わりを待つ。
こうした対応に異議を唱えるなど、彼女は思ってもみない。元より自分が正式な王子妃として見られているとは考えにないのだ。
そんなことよりも、シェリエンは目に飛び込んできた自然の美しさに思いを馳せていた。
光の角度によって映す色を変える、透明なのに七色にも輝く湖。暑さなど忘れ去らせてしまう、緑色の匂いを乗せた風、樹々の葉が閑やかに擦れる音。
隣を歩く夫は心配していたが、彼女の頬が熱い原因は、暑さをおして歩いていることだけではないのだろう。
また、彼女自身自覚していないことではあったのだが。
リオレティウスが、一緒に行こうと言ってくれたこと。
それは何か彼女の芯になるような――喩えばその中心へぽとんと投げ込まれた宝玉かのごとく、見目とはうらはらにずっしりと、自らの重心を安定させてくれる出来事だった。
ふと空を仰いで、彼女は傍目には見えないほどの微笑みをこぼした。
抜けるような青海原の中、すいと泳ぎ舞い遊ぶ小鳥がひとつ。




