軍を率いる者 -2
視察から戻ったリオレティウスは、どうやら忙しいようだった。視察後の第一報を国王に伝えにいったり、不在時に溜まった政務の内容を確認したり。
遅くなるから先に寝ててくれ、そうシェリエンに言い残していった。
普段の就寝時刻になると、シェリエンは言われたとおりベッドに入った。しかし、眠気は感じない。それに彼が帰ってきたのだから、できれば起きて待っていたいという気持ちがあった。
婚姻を結んで数か月、シェリエンがこの国に来てから彼が王宮を空けたのは初めてだ。
少しずつ打ち解けてきたとは思うものの、彼女は夫の不在に寂しさまでは感じていなかった。眠りの前後に軽く言葉を交わす相手がいなくなっただけで、日中の生活はほとんど変わらない。
けれど、出迎え時に抱きしめられたとき。シェリエンは自分でも意外なほどの安心感を覚えた。初めのうちはあんなにも、目線が遠く逞しい彼を怖いと思っていたのに。外から戻ったばかりの彼の匂いと相まって、ぽかぽかと太陽に包まれているような心地がした。
彼は出迎えに立つ妻を見て、気を緩ませたように笑った。それがシェリエンにとってはなんとなく、うまく言えないながらも彼を待ちたいと、そう思う要因にもなった。
そうして寝室で待つ間、シェリエンはふと先ほどの、皆の先頭に立つ彼の姿を思い出していた。
王子として、そして将来の王の弟として、彼は軍を率いる役を望まれている。情勢が落ち着いたように見える今も、有事に備えて視察をし、日々の鍛錬に励んでいる。
二人の婚姻が成立したことで二国間の争いは止まった、そうティモンは言っていた。
……でも。もし、今後何かがあったら?
彼は、シェリエンの故郷であるガイレアに攻め込むのだろうか。そしてそのとき、自分は一体どうなるのか――。
不意に浮かんでしまった考え。
想像もできない、しかし反射的な恐怖がぞくりと背中を伝い、シェリエンは思わず首を振った。
シェリエンが嫁ぐ前の数年間、二国間に目立った戦はなかった。ただ長年敵国であるという意識が互いに染み付いて、睨み合いのような状態がずっと続いていた。和平が成った今でも、こうした印象はすぐに消えるものではないはずだ。
それにシェリエンは、言うなれば正統な姫ではない。ガイレア王子の庶子だった娘で、ウレノス王家はその事情を知っているようだった。そんな娘が一人輿入れしたところで、長年のいがみ合いが簡単に止むものなのだろうか。
シェリエンには政治のことはわからない、それでも、改めて考えるとこの婚姻は大分に脆いのでは。
恐怖は今や、彼女の全身を覆っていた。
そのとき、寝室の扉が静かに開いた。
既にシェリエンは寝たと思っていたのだろう、リオレティウスがそろりと入ってきた。ベッドに半身を起こしている彼女を見て少々驚いた様子だ。
「……起きていたのか?」
ベッドまで来たリオレティウスは、彼女の顔色があまり良くないことに気がつく。
「どうかしたか? 具合でも悪いのか」
「いえ、なんでも……」
彼は、ベッドに上がるとシェリエンの額に手を当てた。
「熱はないようだな」
そう言って、気遣うようにシェリエンの顔を覗き込む。彼女を取り巻いていた恐怖が少しだけ引いた。
迷惑をかけまいとし、シェリエンは口を開いた。
「あの、大丈夫です」
「何かあれば言ってほしいが、俺に言えないことか?」
「……そうではないですが」
告げることで、彼を煩わせたくない。そういう気持ちがあったことも確かだが、それより、うまく説明ができなかった。自分が何に怯えているのか。
戦が起こるかもしれないこと? 自分の身がどうなるかわからないこと? それはもちろん怖い、だけど――。
彼を見る。綺麗な青の瞳にはシェリエンの姿が映り、心配そうに微かに揺れている。
「……怖くて」
「え?」
「うまく、言えないけど……、怖かったんです」
なんとかそれだけ伝えると、シェリエンは彼の夜着の袖あたりをきゅっと握った。
一体何が怖いというのか――。リオレティウスには知る由もなかったが、彼女のやっと絞り出したような返答に、それ以上聞き出すことはしなかった。
以前雷を怖がっていたときとはまったく違う。初夜を恐れていたときや、ここへ来たばかりで泣いていたのとも違うような。彼は胸に鈍く、わかってやれないもどかしさを感じた。
それでも彼女が自分の夜着の袖を握っているということは、多少なりとも頼られているのだろう。そう思うと、リオレティウスはシェリエンの身体を優しく抱き寄せた。
そうしてみれば彼女が小刻みに震えていることに気づく。同時に、その身体は小さく、まだほんの少女なのだと実感する。
早くに両親を亡くし、敵国であった場所にたった一人で。今現在の彼女の恐怖の原因は明らかでないが、置かれた状況だけ見ても十分に心細いはずだ。
「……俺が、いる」
せめてもの思いで。リオレティウスが伝えると、その腕の中で少女は小さく頷いた。




