軍を率いる者 -1
「シェリエン様、殿下がお戻りです。お出迎えに参りましょう」
シェリエンが自室で文字の練習をしていると、やってきたティモンがそう告げた。
ここしばらくの間、リオレティウスは王宮を空けていた。彼の務めの一環である、視察のためだ。今回は、王都からやや離れた軍事拠点及びその周辺を見に行ったという。
シェリエンがティモンに連れられて王宮の正門付近に向かうと、そこには既に出迎えの者たちが集っていた。軍の面々に、数人の家臣。
この視察は何か緊迫した理由があってのことではなく、通常行われる定期的なものと聞いている。場の雰囲気は和やかだ。
彼女がやってきたことに気づくと、臣たちは一斉に頭を下げた。その光景に思わず怯むシェリエン。
彼女は普段、ティモンや数人の侍女等、一部の者としか関わらない。ほとんど自分の部屋、それから時々訪れる庭園のみという限られた空間で生活している。加えて、不定期に開催される国王一家との夕食では相変わらず影の薄い存在。
そうした日々の中でつい忘れそうになるが、自分は、一応は王子妃という立場なのだと。シェリエンは改めて思い知る。
その場にいた人たちは当然のように、彼女のために道を空けた。
しかしシェリエンは前に進み出ることはせず、出迎え列の一番奥に留まった。
日は大分傾いているが、夕方というには少し早い。夏の空が赤らむにはまだ時間がある。
そうするうちに、正門が開き、視察に出ていた一行が帰城してきた。
先頭はリオレティウスだ。ゆったりと馬を歩かせ、彼らを出迎える集団に近づいてくる。
後ろで纏めた彼の漆黒の髪が、闊歩する馬の揺れに合わせて左右に靡く。口元は一文字に結ばれ、凛々しい表情をしている。
黒に限りなく近い暗青色の騎士服を纏った一行は、ただそこを歩くだけで風格を感じさせる。それを率いるに相応しい、堂々とした王子の佇まい。
シェリエンの目に馴染み始めた寝室での彼とは、まるで別人に見える。
そんな彼の姿を、シェリエンはふと遠い存在のように感じた。
出迎えの集団のすぐ近くまで来ると、戻ってきた彼らは馬を降りた。軍の者たちがすかさず歩み寄り、挨拶を述べつつ馬を引き受ける。
それ以外の者たちは左右に分かれ、両脇に王宮へと続く道を開いた。その間を、彼らは颯爽と進む。
一番前を歩んでいたリオレティウスは、道の最後に控える小さな少女に気がついた。
歩みを進め、彼女の前で足を止める。
シェリエンは、自分の正面で立ち止まった彼を仰いだ。
二人には元々、頭二つ分くらいの身長差がある。けれど、重厚感のある服装に身を包み、先頭に立って人々を率いる彼の姿は、いつも以上に大きく感じられた。
おずおずと、シェリエンは帰還した王子に対する挨拶を述べる。
「お帰りなさいませ、リオレティウス殿下」
――瞬間、ぱっと切り替わるように。
リオレティウスの表情が緩んだ。青の瞳が見る間に細まり、口元には穏やかな微笑が浮かぶ。
「ああ、今帰った」
その、戸惑いすら覚えるほどの急な変わりように、シェリエンが驚くや否や。
彼はなんの躊躇いもなく背を屈めて、ふわりと妻を抱きしめた。
騎士服のマントが旗めく。それは重力に従って下りていき、リオレティウスの背の形に沿って二人に纏わりついた。彼の両腕と共に、シェリエンをすっぽりと包み込んでしまうように。
久しぶりの温もりに、シェリエンは驚きも忘れて身を委ねた。
周りで見ていた人たちは声にこそ出さなかったが、場の空気は静かにどよめいていた。人前に出ることなくお飾りでしかないと思われていた異国の妃と、第二王子との仲睦まじい姿。
しかしそんな周囲の様子も、彼女には不思議と届かなかった。
そうした時間は束の間。次に、ぱっとリオレティウスの身体がシェリエンから離れた。
彼は、しまった、というような顔をしている。
「すまない、戻ったばかりできれいとは言えないのに。……まずは風呂だな」
片手をこめかみのあたりに当て、彼は申し訳なさそうにする。
確かに、馬に乗って長い距離を帰ってきたばかりなのだ。普通に考えて、清潔とはお世辞にも言い難い。
けれどもシェリエンには、そんなことはまったく気にならなかった。
寝室に訪れるリオレティウスからは、いつも良い香りがする。
香水といった類の、上から足すような主張の強いものではない。仄かな、爽やかで清潔感のある匂い。おそらく入浴時に使う石鹸か何かだと思うのだけれど、シェリエンの浴室に置かれたものの香りともどこか違う気がする。
土埃と太陽の匂い。それが、先ほど彼に抱きしめられたときに感じたもの。
普段とは異なるその匂いを、しかしシェリエンは不快とは思わなかった。
一瞬前まで知らない人のように映っていた彼の、温かさを思い出させてくれるような。そんな香りだった。




