夜の散歩者
ねぇ? 吸血鬼って信じる? と、唐突にその女は言った。
街の路地裏にある、知る人ぞ知るというようなバーの灰昏いカウンター。
隣に座って飲んでいた女だ。
長い黒髪を髪留めで一つに束ねていた。
銀色の細い縁の眼鏡を掛けている。
肌は白く、唇は赤かった。
白いシャツにタイトなスカート。
靴の踵はそれほど高くはない。
赤い口紅を引いてはいたが、どちらかというと印象に残りにくい顔をした女だ。
その地味な印象に反して、タイトなスカートから伸びるストッキングに包まれた脚は、滑らかな曲線を描いていた。思わず見入ってしまう。
女のどこからか、花の青い甘い匂いがした。
どこかで嗅いだことがあると、ふと思う。
女の手元のグラスの中の液体は、半分ほどになっていた。
強い酒とは思えなかったし、そこまで酔っているようにも見えなかった。
グラスの縁に付いた赤い口紅を指先で拭う。
その仕草が妙に艶めかしい。
女の呟きは独り言のようだった。
そのために、隣に座っている私に話しかけたのか、それともカウンターの向いにいる、髪と同じに白髪交じりの口ひげを生やした、初老のバーのマスターに話しかけたのかわからなかった。
下手に返事を返すのも気が退けた。
ちらりとマスターに視線を向けると、マスターも私を見ていた。
「ねえ? 聞いているの?」
今度はグラスを片手で持ち上げて、カウンターに肘をつく。手の甲で頬を支えながら、明らかに私に話しかけてきた。
困ったな。
どんな返事をすればいいのか……。
「映画でも見たのですか?」
そう、返した。
どこかの映画館で、古いホラー映画のリバイバル上映でもやっているのかもしれないと思ったからだ。
女は赤い唇の両端をにっと吊り上げた。
「違う。見てないわ。でもね……。わたし、子どもの頃に見たの」
「映画を?」
「違うわ。本物の吸血鬼」
「……」
「嘘だと思ってるでしょ? 本当なんだから」
そう言って拗ねたように唇を尖らせた。
なんとも答えられなかった。
マスターに助けを求めて視線を上げる。
マスターは薄く微笑んで、軽く頷いた。
「お嬢さん、それはどこで見たの?」
マスターの問いかけに、女はカウンターの向こうに顔を上げた。
「塾の帰りにね、ビルとビルの隙間になにかがいたの。暗くてよく見えなかったから、じっと目を凝らして見てた。そうしたら、男の人が女の人の首筋に噛みついているのがわかったの」
「……それをずっと見ていた?」
「見てないわ。それがなにか、わかった瞬間に走って逃げたから。でもね、あれは絶対に吸血鬼だったの」
得意そうに眼を細めた。
私とマスターは顔を見合わせる。
思わず、くすりと笑ってしまった。
マスターは幼気な少女が、男女のそれを勘違いしたと思ったのだ。
「それを誰かに話したのかな?」
「話したけど、誰も信じてくれなかった。……女の人が襲われたなんて、ニュースにもならなかったし、新聞にも載らなかったから」
そう言ってグラスの液体を飲み干した。
マスターは黙って、大きな氷が浮いた水のグラスを女の前に置く。
「どうしてまたその話を?」
女の潤んだ黒い目はマスターを見た。
「どうしてかしら……? 匂い、かな?」
「匂い?」
「あのときと、同じ匂いがしたような気がして」
「どんな匂いですか?」
好奇心で訊いてみた。
「うまく言えないけど……。甘いような、生臭いような……」
そう言って考え込んだ。
それから付け足すように「マスターの雰囲気が似ているせいかも?」と、笑った。
「僕が吸血鬼ですか? ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』伯爵のようにダンディということなのかな?」
マスターが茶目っ気たっぷりに微笑む。
「ドラキュラ伯爵は、口ひげを生やした精悍な顔つきらしいけど、肌は青白かったみたいよ」
女はグラスの中の氷水を一口飲んだ。
マスターは、おやおやというように肩を竦める。
「こんなに夜が明るくなった時代じゃ、吸血鬼も大変でしょうね」
私の言葉にくすくすと笑った。
「ISS(国際宇宙ステーション)から見た日本は夜でも明るいものね」
私は頷いた。
マスターに軽くて甘いカクテルを頼み、彼女に振る舞った。
ありがとう。ごちそうさま。
まるで滴る血の色のような赤い唇が、にこりと弧を描く。
「お客様はこの店は初めてですよね?」
マスターが私に愛想のいい笑顔を向ける。
「そうですね。久しぶりにこの街に来ました」
「お仕事ですか?」
「そのようなものです」
ひとしきり雑談を交わし、私はグラスの中の琥珀色の酒を飲み干した。
そろそろいい時間だ。
席を立つと、女が私に手を振り、マスターがお辞儀をした。
「お兄さん、またね」
「また是非、お立ち寄りください」
私は軽く会釈を返した。
女に絡まれたときはどうなるかと思ったが、案外と楽しいひと時を過ごせた。
バーの古ぼけた扉を開ける。
夏の初めのむっとした空気が鼻についた。
路地を抜けて大通りへと足を向ける。
この街は二十年振りだった。
そこかしこに輝くネオンも、最近ではネオン管からLEDネオンに変わって、色とりどりに夜を照らしている。
防犯カメラの設置も進み、街灯も明るくなった。
昔は月のない夜は、真の暗闇だったのに。
人間は闇を恐れていた。
それが今では宇宙にまで進出している。
本当にやりにくい世の中になったものだ……。
それでも二十年前は、今よりはまだましだった。
引っ張り込める暗がりは、そこかしこにあったのだから。
それにしても……あの女があのときの少女だったとは。
自然と唇がほころぶ。
ほろ酔いのせいなのか、歯茎が疼いていた。
永く生きていると、偶にはこんな、洒落た巡り合わせがあるものだ。
さあ、夜はまだ始まったばかり。
気を取り直して、繁華街の喧騒と夜の匂いに紛れよう。
少しばかり、夜の散歩といこうじゃないか。