タイムパラドックス
高校2年の6月5日、あまりにも透き通った青空が、ある一人の女子高生に追悼の意を示した。
幼なじみの少女、葵が死んだ。
あまりにもあっさり、まるで僕のために与えられた天使だったのではないかと思うほど、儚く彼女は消えてしまった。
僕の世界から、「水瀬葵」が消去された。
水瀬葵は、実際天使だったのかもしれない。
ある意味、天から与えられた救い。
人の世の道理を越えた、あまりにも濁った存在。
同じ時間軸を生きた17年目。
彼女は、17年5ヶ月の使用期限を全うし、消えた。
全てはこの瞬間のためだけに、彼女は自分の人生を溝に捨てた。
17年5ヶ月午後18時5分に切れるように設定されていたエネルギータンク。
全てが、予めプログラミングされていた台詞の数々。
今日死ぬはずだった僕を守るためだけに生まれてきた存在。
水瀬 葵という名の付いた、天使というべきか、人工物と言うべきか。
少なくとも彼女は、僕の幼なじみとして生きた。
僕は、彼女を好きだったのだろうか。
その感情が、恋だったのか、憧れだったのか、またはどこか心の奥底に眠る同情の類だったのかはよく分からない。
「パラドックスって知ってる?」
高校の入学式の帰り道、葵はつぶらな瞳をこちらへ向けながら僕にこう聞いてきた。
「聡明院高校首席から二番目入学者を舐めるなよ。ジレンマと同じ意味だよね?」
「首席入学は私だもん。舐めてもいいよね?」
「…はいはい」
満開の桜並木の下をたわいない話をしながら通り抜ける。
僕は、難関進学校である聡明院高校の入学式を終えたところだった。
同じく聡明院高校に合格したクラスメイト、葵は僕の生まれた時からの幼なじみ。
というか幼稚園、小学校、中学と彼女とずっと同じクラスだった。ここまでくるともう偶然とは言えないのかもと思い始めていた。
「葵、理系だっけ?何でパラドックスなんかに興味あるの?」
「うーん…だって、凄く美しいから」
パラドックスが美しい。
そう言うのは彼女くらいだ。
葵は昔から、不思議なものの考え方をする子だった。
「grandfather paradoxっていう、時間軸のパラドックスの話は知ってる?」
「ああ。過去に戻って自分の祖母に出会う前の祖父の運命を変えると自分自体の存在が無くなって、タイムトラベル自体が不可能っていうやつ?」
「うん。その話、どう思う?」
これ以上ないくらい真剣な瞳だった。
僕は思わず固唾を呑み、この矛盾についてかなり真面目に考え始める。自分の思考回路を存分に駆使して。
「現在は過去を改変しようとする未来からの干渉を織り込んだ上で成り立っていると考えたら、矛盾は起きないんじゃないかな?」
素晴らしい。
自分に拍手喝采だ。
これほど完璧な答えは無いのではないか。
「…そうだね。」
だけど彼女は、いつもの明日を見る瞳で、ぼんやりとした表情で黙り込んだ。
なんだ。首席入学の葵様には他の完璧な答えがあったのだろうか。
「じゃあさ、そういう君はど…「また、明日ね」
艶やかな髪を風に揺らして、彼女は桜並木の向こう側へと走ってゆく。
…なんなんだ?人に質問しておいて。
僕は、入学早々控えていた古文のテストに備え、紺色の通学鞄から単語帳を取り出した。