4.僕はまだ愛を知らない
辺境の街で強力な魔物が頻繁に出没するという噂を聞いたのは、ディクスンが旅に出てから三年目の春だった。
野生動物と同じで、魔物の発生は規則性があるようで人間の知識ではまだ解明できていない。魔物は絶対数こそ少ないが、動物より知恵を持ち、人間を主食とする。小さなものでも脅威だが、最近暴れているのが以前王都を襲った大型種に近いと広まったときには、人々は混乱の渦の中にいた。
そこに現れたのが、英雄の呼び名で知られるディクスンである。もちろん恣意ではない。国の端々、片隅に至るまで絵姿が出回っていたのは、当人にとってはいい迷惑だったと言えよう。
当然のごとく討伐部隊への参加を依頼されたが、ディクスンには義理も責任もなければ、過剰な正義感もない。守護隊に所属していた頃であれば兎も角、今はただ付近を通り掛かっただけの一般人だ。
縋る手を振り払おうとして――少し迷った。
もし、万が一にもその街にヴィルへルミナがいたら。或いは近隣の森に身を潜めていたら。
仮定を気にしている時点で断る選択肢は消え失せた。たとえ彼女が近隣にいたとしてもディクスンの名を聞いた途端に移動したかもしれない。それならそれでいい。危険を回避して生き延びた先に、機会と可能性は巡ってくるだろう。
ディクスンは自己満足と承知のうえで、人助けにもなるなら悪くないと傭兵を引き受けた。もちろん実績や実力からくる自信もあったので、決して安請け合いをした訳ではなかった。
それでも不運と踊れば破滅を導くこともある。慢心と油断という二つの単語がディクスンの脳裏を掠めたのは、討伐の最中、まさに死が傍らに迫る直前のことだった。
▼△▼△▼△
――激痛が走り、傷口から真紅が迸る。
肩がざっくりと抉られているのを視界の端に確認した。利き腕側ではない。だが大型の魔物の、しかも毒性のある牙にやられたのであれば、通常は戦闘不能だ。
討伐隊の先陣を切って何体もの魔物を屠っていたディクスンは、強烈な痛みに耐えて低く呻いた。
残りはあと二、三体に過ぎない。討伐隊は僻地に寄せ集められた烏合の衆にも拘らず善戦していた。魔物の動きを散漫にさせる特殊な香もあった。英雄の参戦という士気の高さもあった。
戦果としては充分だろうが、死人も怪我人も多い。このままでは全滅の憂き目を見る。
毒が回り切る前に、とディクスンは無理矢理にでも剣を振るった。走り込み相手の爪を躱し、急所に一太刀を浴びせる。返す刀でもう一体の喉を突き刺す。
疲労の極みにある兵たちが喜色を取り戻し、わっと歓声が上がった。もう少し、あと少し――。
しかしディクスンの身体は大きく崩れる。
肌が真っ青になっていた。
「っ……ディクスン!!」
あり得ない声が名を呼んでいる。
聞き慣れた女性の声だ。
走馬灯が浮かぶ。
ああ、彼女の姿は出会った当時から別れるまで、寸分も違わず脳裏に描くことができる。ディクスンは微かに口端を上げて微笑った。それが限界だった。
「ヴィ――……」
「ディクスン!」
霞む眼前に幻影が映る。
会いたくて会いたくて仕方がなかった恋しいひとが手の届く範囲にいる。現実ではない。そうであってはならない。こんな危険極まりない場所にヴィルへルミナがいたら最悪だろう。
「ディクスン、ディクスン!」
生命が尽きる前に願望が見せた都合のいい夢は、やけに生々しい温度でディクスンに触れた。
自分の身体が冷たいのか、掴んできた手が酷く熱い。皮膚の感覚は麻痺しつつあったが、傷口に何かされているのがわかった。どうやら治療を施している誰かがヴィルへルミナの姿に見えているらしい。
「俺は、いい。逃げ……」
「……君はなんて馬鹿だ、ディクスン」
ぽつん、と水滴がディクスンの頬に落ちた。
悲しくも贅沢な夢想だと感心する。
離れていた間もヴィルへルミナが好きだった。
たとえ彼女が自分を忘れ果てても、好きだった。執着が狂気と言われても偏愛と言われても、いつか再び会える日を願って生きてきた。きっとその日々も――終わるのだろう。
「ヴィ、……ヴィ」
「ディクスン、もう黙って」
「ヴィ……君が、好きだ。君だけが」
「……ディクスン……」
最後だから、と幻のヴィルへルミナに告白する。滑稽だ。本来なら共にいた頃いつでも届けられたはずの想いが霧散していく。
何もかも手遅れだった。どうしてもっと早くに、自尊心をかなぐり捨ててでも、この恋に殉じることができなかったのか。慰めは要らないからただ傍にいてくれと、伝える言葉は多分、それだけで良かったのに。
「ヴィ、会いたい――……ッ!?」
動かすのも辛くなってきた唇が微かに音を刻んだそのときだった。不意に柔らかい何かが半開きの口腔内に触れる。同時に冷たい液体が注がれ、喉を透過した。
「!?」
半瞬遅れて、強烈な苦味が広がる。
「ぐっ……!!」
あまりの刺激に朦朧とした意識が一気に覚醒した。ディクスンは目を白黒させて咳き込んだ。
薄暗かった視界の靄が吹き飛び、周囲に明かりが射す。妙に静かだったと思っていた耳元に、騒音が戻ってくる。
討伐団と魔物との戦いはまだ続いているようだった。しかし残りは一体、集団で挑み確実に力を削いでいる。やがて断末魔が響き渡り、勝ち鬨が上がった。
ディクスンは気配と音だけで戦況を把握し、安堵する。また自らも死地から救われたことを悟った。もちろん傷は深く出血も酷いため予断は許さない。だが、あのまま気を失っていたら、確実に生命を落としていただろう。
含まされたのは気付け薬の類いだ。
そして、それを口移しで飲ませたのは――。
「ヴィ……?」
「死ぬなよ、ディクスン」
幻ではなかった。
本物のヴィルへルミナがディクスンを見下ろしていた。泣いているのか、新緑の双眸が潤み、透明な雫が伝う。
「私に会いたかったんだろう? だったら、こんなところで死ぬな。絶対に死ぬな」
「本当にヴィ……なのか」
「ああ、私だ」
「そうか……」
強張っていた顔の筋肉が弛緩して、ディクスンの表情が穏やかに変わった。蒼白だった肌に少しずつ赤みが差す。
ディクスンは怪我をしていない方の腕に万力を込め、どうにか動かした。荒れた指先をそっと伸ばし、ヴィルへルミナの涙を拭う。
「泣かないで、ヴィ……大丈夫だから」
「……泣くな」
▼△▼△▼△
その後――ディクスンは街の救護院に緊急搬送された……らしい。
止血され、毒消しの薬草で救急処置が施されていたとはいえ、冒された身体がすぐに回復する訳もなく、一時再び危険な状態に陥ったのだ。
すべては一命をとりとめ、ある程度体力を取り戻してから聞かされた。記憶が曖昧な期間は約十日間で、常人と比較すれば驚異的な回復力だった。もちろん完治まではもっと掛かるので、当面は安静が必要である。
入院中、ヴィルへルミナはずっとディクスンの傍らに付き添っていた。彼女自身は何も語らないが、どうやら近隣の街に住んでいて、薬草師として討伐隊に参加していたと人伝に聞いた。救護要員でもあり、魔物を鈍化させる特殊な香を調合し、提供している。
討伐隊は人数も多く、最前線のディクスンとは異なり比較的後方にいたせいか、まったく気がつかなかった。うっかり鉢合わせしないよう、ヴィルへルミナが避けていたのもあるだろうが……。
起き上がれるようになっても、ディクスンは彼女に何も訊けないでいた。
気恥ずかしさもある。
気まずさもある。
別れてから三年もの空白があれば、今更どう接したらいいのか悩んでも仕方あるまい。
おまけに去られたときのディクスンは、女性遍歴が激しいうえに初恋の幼馴染に傾倒した不実な男である。それが再会した途端、好きだの会いたいだの世迷い事をほざいている。ヴィルへルミナは呆れながらも、死にかけの怪我人に対する憐憫で看病をしてくれているだけかもしれない。
正直怖かった。
ヴィルへルミナを探し始めた時点で覚悟はしていた。ディクスンに愛想を尽かした彼女を、一方的に追い掛けてきた。
この遭遇が恣意でなく偶然と思われているからこそ、ディクスンの未練を知ったうえで今はまだ忌避しないでくれているが、いずれ好きでもない男の執拗さに勘づき、恐怖を覚えるのではなかろうか。
懊悩はディクスンの体調に悪影響を与えた。発熱がぶり返して、再び寝込むことになってしまったのだ。
時折目覚めると、そこにはヴィルへルミナの姿がある。いや、未だ微睡みの中にいるのだろうか。譫言のように何度も名を呼ぶと、彼女もまたその度にディクスンの名を呼び返した。
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夜明けの薄暗がりに包まれながら、ディクスンは不意に意識を浮上させた。
時刻を測るため視線だけを窓へと向けると、白い残月が目に入る。
微かに衣擦れの音がした。
誰かいる。
医者か――いや、もっと身近な息遣いだった。心当たりはひとりしかいない。
「早く良くなって……本当は帰るべきだと思うよ、君は。待っているひとがたくさんいるだろうに」
囁くように密かに、ヴィルへルミナが呟いていた。話し掛けるというよりは、独白に近い。おそらくディクスンが目を覚ましたことに気がついていなかった。
「どうして英雄のくせに、こんな僻地に来てしまったんだ。聞いたときは吃驚したよ。王都で幸せに暮らしていると思っていたからね。守護兵団で出世して、或いは軍の中枢にでも食い込んでるのじゃないかって」
ふふっ、とヴィルへルミナは自嘲のような笑い方をした。
「美しい伴侶を得て、庶民の憧れで……我が世の春を謳歌しているに違いないと、勝手にね。うん、ちょっと羨ましいというか腹立たしいというか。まあ少しは妬んだけどね」
嫉妬や羨望などまるで感じさせない口調で、ヴィルへルミナは柔らかく心情を語った。却って胸が締め付けられて、ディクスンは起きる時機を完全に逸してしまう。
「左遷という訳でもなさそうだし、何かあったのかと心配したじゃあないか。おまけに魔物退治に行くという。お人好しか? 英雄としては正しい行為なのかな。でもこんな形で野垂れ死ぬなんて最悪だよ。杞憂だとは思ったけど、こっそりついてきて良かった。君を助けられて良かった」
ヴィルへルミナが討伐隊にいたのが実は自分のためだと知り、ディクスンの胸の奥に暖かなものが広がる。段々と涙声になっていく彼女を、抱き締めたくて仕方がなかった。
「ごめん、ディクスン。合わせる顔がないから、見つからないよう苦心したよ。独り善がり、だったのかもしれないね。三年前ね、私は君から逃げてしまった」
三年前と聞いて、ディクスンは動揺する。寝起きでまだ身体は不自由だったので、表面的には指先をピクリと動かしただけで済んだ。
ずっと知りたかった。黙って消えたヴィルへルミナの口から、今になって出奔の理由が語られる。ディクスンは息を呑んで続きを待った。
「あの頃、実のところ君は私を手放せないかもしれないと危惧していた。結構な付き合いだったから。初恋とは別でも、そういう情を蔑ろにできる性格じゃあなかっただろう? でもさ、私が君の障害となっていけないから、と」
ヴィルへルミナの表情はわからない。
ただディクスンには想像することができた。きっと互いに慰め合おうと言ったときと同じで、その眼差しは遠く、孤独を覗いているに違いない。
「君が周囲を踏み台にしてまで出世したいと願うような輩のはずないのにね。私は森の民であることを恥はしないし、厭ってもいない。お国がどうあれ、適当に生きていける。今がまさにそうだ。だから君の傍にはいなくてもいい……」
「……言い訳だ、すべて」
懺悔するがごとく告げたヴィルへルミナは、何を思ったのか、そっとディクスンの髪を撫でた。
「君を見ているのが辛かった。私がいてもいなくても、君は何の屈託もなく世界を広げ、君を慕う多くの人々に囲まれて幸せになれる。それが嫌だったのだね、私は」
薬かぶれで少しかさついた指先が、髪から額に、額から頬へと滑った。
「君がずっと私とだけ、いてくれたら」
「他の誰とも触れ合わず、この世界にたった二人きり。本音ではそういう愚かな願望を抱いていた。こんな利己的で、相手の都合を慮らない気持ちを何て称すればいい? さすがに恋だとは言えないだろう?」
「――いいや」
ここでようやく、ディクスンは口を開いた。
ヴィルへルミナが驚く隙も与えず、そのまま腕を掴む。傷が神経に響いたが、構う余裕はなかった。
「……!?」
眠っているはずの男に捉えられ、ヴィルへルミナは混乱している。その証左に、ろくに力も入っていない手を払い退けることもしない。相手の困惑につけ込んで、ディクスンは自らの唇まで手を寄せた。
「ディ……クスン」
「同じだ、ヴィ」
「起こして……しまったか、ディクスン。すまない。こんな時間に煩くした」
平常心を保とうとするヴィルへルミナは、何事もなかったかのように薄い笑みを浮かべた。
しかし最早ディクスンは誤魔化されやしない。
「俺も同じだよ。ヴィ、君と二人でいた日々を望んでいた。君だけが……君の心だけがほしかった」
「ディクスン、聞いてたのか……」
「君がいなくなるまで、自分にも嘘を吐いていた。俺は馬鹿だ。君が振り向いてくれないから……君が俺に恋をしてくれないから、拗ねてたんだ。ずっと」
荒い呼吸で言い切ると、ディクスンはヴィルへルミナの手に唇を強く押し付けた。
「ディクスン……」
「身勝手なのは俺だ。君がどこかで、俺のいないところで幸せになったら嫌だ。俺にだけ笑いかけて、俺にだけ触れてくれ。そう思うのは恋じゃないのか?」
「それが……恋、なのか?」
戸惑いながら、ヴィルへルミナが動いた。
ディクスンの顔に、長い黒髪が陰を作る。
口づけが落ちてくる――。
「……恋だよ、ヴィ」
気がつけば、窓の外から朝焼けが射し込んでいた。暁の光が軌跡を描き、二人を照らす。
長く暗い夜闇は終わりを迎え――世界は新しい一日の始まりを告げたのだ。
<完>
ありがとうございました