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3.君はまだ僕を知らない

 住人の痕跡のない室内を見て、ディクスンは愕然とした。店の中に漂っていた香草の独特の匂いも消え去っている。備え付けの家具は残っていたが、まるで使われていなかったかのように無機質だった。

「ヴィ……?」

 虚空に向けて呼んだ声は、受け手のないまま宙を彷徨う。その瞬間にディクスンは悟らざるを得なかった。

 彼女がいないこと。

 ディクスンを置いていったこと。

 そして二度と戻る気がないことを。


「ヴィ……俺は」


 自分が何故こんなに動揺しているのか、ディクスンはわからなかった。()()()()()()()()()()()()別れの日なのに、それが今このときである事実が受け入れられない。

 離れていくと覚悟し続けた希薄な人間関係が、事実虚しく終了しただけだったら、どんなにか楽だったろう。


 ディクスンは恋を知っている。

 そしてヴィルへルミナは彼の憧憬から最も離れた位置にいた女性だった。そのはずだった。



 +++++



「ディクスンの馬鹿! あたしはあんたがヴィにした仕打ちを許さないんだからね!」

 目覚めてヴィルへルミナの家を出た途端、ディクスンは弟の妻であり幼馴染のリリアンに捕まって罵られた。

「十年近くも適当に付き合って、結婚もしないでフラフラフラフラフラフラ! 挙げ句キャスリーンが出戻ってきたからって、あっさり靡いて! あんたなんか捨てられて当然よ」

「リリアン……ヴィはどこに?」

「とっくに王都を出てったわよ。行き先は聞いてない。ヴィのことだから、誰にも言ってないでしょうね」


 リリアンは嘘を言っていない。長年の付き合いから隠し事があればすぐわかる。

 それはつまり、ヴィルへルミナの手掛かりは最早どこにもないことを意味していた。彼女がこの下町で最も親しく気を許していたリリアンが知らなければ、他の誰に訊いても無駄だろう。

 ぎり、とディクスンは歯噛みする。

 追うな探すなというヴィルへルミナの明らかな拒絶は、ディクスンの心を酷く傷つけた。


「あんたがキャスリーンと一緒になってもあたしは祝福しないわよ。ヴィとも友達だから」

「……ならないよ」

「え?」


 静かに否定すると、ディクスンは自らの左腕に手を置いた。そのまま王都守護兵団の身分を表す腕章を、引き千切るように外す。

「ごめん、リリアン……この先もし王都で何があっても、俺はもう守ってやれない」

 弟の子を宿したリリアンの腹部を、ディクスンは心配そうに見つめた。身重の女性がどれほど大変か、男である自分には想像もできない。

 守護兵団に入ったのも英雄呼ばわりされたのもただの成り行きだったが、生まれ育った場所とそこに住む人々を守るために続けてきた。王都の軍備は強化されたものの、いずれ魔獣は再び現れよう。脅威は消え去らず、人々はまだ英雄(ディクスン)を必要としている。

 しかし(ディクスン)はもう期待(それ)に応えられない。


「ヴィを……追うの? ディクスン」

 告げられた言葉の意図を察して、リリアンが困惑顔で尋ねた。信じられない、と瞳が語っていた。

「キャスリーンはいいの?」

 子どもの頃からの片恋を知っていたリリアンは、ディクスンの変化に戸惑っていた。

「ずっと忘れられなかったんじゃないの? キャスリーンに似たような()ばっかり好きになったのは、代替(みがわり)だったんじゃないの?」

「代替?」

「言ってたわ、ヴィが。ディクスンが口説くのはいつもキャスリーンと同じ特徴の()だって。自覚あったでしょ?」


 ディクスンは驚いて目を瞠る。

 ヴィルへルミナが気づいていたのは意外だった。これまで幾度となく失恋しては話を聞いてもらっていたが、彼女はディクスンの相手に対しては殆ど無関心に見えたからだ。

「俺が……キャスリーンの面影を求めていたのは事実だ」

「だったら」

「自分でも不思議だよ。あんなに……キャスリーンが好きだったはずなのに。そう思ってたのに、俺は」

 今はもう、初恋の残滓は余韻すら残っていない。後悔と己への苛立ちを込めて、ディクスンは外した腕章を手の中で握り潰した。


「行きなさいよ!」


「あたしはマーティンに守ってもらうんだから、平気よ。あんたの弟は妻子を守れないほど弱くないわ。王都の、下町の人間だってヤワじゃないから」

 バチン、とリリアンがディクスンの背を叩く。

「ヴィを連れて戻って来いなんて言わない。森の守護者は定住しない民だものね。あんたがずっと追っかければいいだけよ」

「ありがとう。そうする」

 軽く発破をかける義妹に感謝して、ディクスンは決断を一言で表す。行く者にとっても残される者にとっても、言うほど容易な道でないことは承知していた。


 ――だけどヴィ、俺は選ぶよ。


 その選択は、今まで無自覚だった感情に一定の方向性を与えた。ディクスンはすでに知っている。己を突き動かす源流の名を。それはおそらく、ヴィルへルミナが知らないままでいた想いに他ならなかった。






 ▼△▼△▼△



 守護兵団に辞職願を出したディクスンは、当然ながらありとあらゆる方面から引き止められた。

 英雄が国を見捨てるのかと嘆かれ、無責任だと罵倒され、金品や地位を餌に拝み倒された。もっとあからさまに、権力を盾に脅しつけてくる輩もいた。

 すべてを無視して、或いは()()をしてから、ディクスンは王都を後にした。無論、柵を断ち切って旅立つまでにはそれなりの時間と手間を要した。


 お偉方はどうでも良かったが、下町の友人知人に別離を告げるのは辛かった。さらに一番堪えたのは、噂を聞きつけたキャスリーンの制止だった。


 妨害に辟易しながら旅支度を進めるディクスンの前にやって来て、彼女は悲痛な面持ちと涙を見せつけた。

「どうして? ディクスン」

 決別した初恋でも、偽りではなかった。動揺しなかったと言えば嘘になる。

「折角戻って来れたのに……私を置いて行ってしまうの? 傍にいてほしいのに」

「無理だよ、キャスリーン」

 泣いて縋りつくキャスリーンを拒絶すると、ディクスンはずっと伝えられなかった言葉を口にした。

「……君のことが、好きだったよ」


 ――過去形の、告白。

 落ち着き払ったディクスンの口調から、キャスリーンもすぐに察したようだった。


「君が結婚したあのときに……勇気と覚悟があれば良かったのかもしれない。君を攫ってどこか遠くに逃げていたら、と何度も思った。悔やんだよ。嘘じゃあない」

「いや……いやよ、ディクスン」

 キャスリーンは認めたくないとばかりに、泣きながら首を左右に振った。

「行かないで……いいえ、いいえ! 今度こそ私を連れて行ってちょうだい。貴方となら、どんな苦難だって乗り越えられる。そう思うの」

「あのときに、君がそう言ってくれていたなら」

 二度とは戻れぬ追憶の果てを遥か遠くに見遣りながら、自嘲を込めてディクスンはキャスリーンを突き放す。


 求め合うにはもう遅すぎた。互いに別の方向に進んだ両者の道は、永遠に交わることはないだろう。

 少なくともディクスンは行き先を定めてしまった。共に歩みたい唯一を――望む相手を決めてしまった。


「もう遅いの? どうしても私では駄目なの? 貴方が付き合っていたひとは去ってしまったのでしょう?」

「キャスリーン、彼女は……」

「魔女は森に帰ったのよ? 所詮、私たちとは違う人種だったのではないの? 一緒に生きるなんて出来っこないわ」


 偏見と蔑視を隠そうともしないキャスリーンに、ディクスンは失望を覚える。双方が別の生き方をしてきた結果、幼い時分と価値観にズレが生じたのも、ディクスンが振り返れない理由のひとつかもしれなかった。

 片や上流階級に買われた不遇な花嫁、片やなし崩しで英雄まで成り上がった男。目にしてきた光景が何もかも異なる。最早かつて好意を寄せた慎ましい少女は存在しない。そう、盲目的に少女を追っていた無垢な少年が、今はもうこの世のどこにもいないのと同じように。


「そんなにも……彼女を愛していると言うの?」

「愛……?」


 ディクスンはその問いに簡単には答えられなかった。

 自分は――彼女を愛しているのだろうか。この胸に沸く感情の正体は、果たしてそんな美しく確固たるものなのだろうか。自問する。いいや、違う。もっと身勝手で、もっと自由で、もっと淡く切なく身を焦がすものだ。


「俺は彼女に……ヴィに恋をしてるんだ」


 しばし逡巡した後、ディクスンは迷いを吹っ切ったかのようにきっぱりと告げ、キャスリーンを絶句させた。


 浮名を流しては慰められていただけの情けない男は、再び本当の恋を知った。けれど失敗を繰り返す訳にはいかない。二度と後悔はしたくない。

 唇を噛むキャスリーンを置き去りにして、ディクスンは旅立った。ヴィルへルミナが出奔してから、ゆうに一月が経っていた。






 ▼△▼△▼△



 国中を探す覚悟で、ディクスンはヴィルへルミナの痕跡を辿った。何しろ彼女は森の民である。一度、山野に入ったら、常人では追えるはずがない。

 ただディクスンは途轍もない身体能力を有していた。守護兵団入団以前、さらにはヴィルへルミナと出会うよりも前から、旅をしながら魔物退治をして路銀を得ていたのだ。培った経験は充分に役立った。


 元より森の民であれ平地の民であれ、あれだけ容姿が整った女性は多くないので、目撃情報は得やすい。ディクスンと出会うまで単独行動が主だったせいで自覚に欠けるが、ヴィルへルミナは明らかに美人の類いである。

 もちろんディクスンは知っていて他の男が彼女に言い寄るのを阻止してきた。これは明らかに自覚があった。

 焦燥が胸に迫る。

 どこか蠱惑的で色香に溢れる彼女であれば、どんな男の目に止まっても不思議はない。自分のことは棚に上げて、ディクスンは苛立つ。


 出会ったとき、ディクスンはまだ少年の域を脱してはおらず、初恋の純度とは真逆の複雑な魅力に惹かれ、ヴィルへルミナから離れられなくなった。

 少し大人で、自立しているようでどこか寂しげで、影があるのかと思いきや凛として美しく、人当たりが悪い訳でもないのに他者への態度は淡々としている。

 浮世離れした風情は森の民の特徴なのか。それでいて可哀想な子ども(ディクスン)を突き放せない人間臭さを併せ持つ。喩えるなら遅効性の甘い毒だろうか。傷ついた心に染みていくのは必然だった。


 二人だけで過ごしていたあの頃は、互いに慰め合う()()をして、他者の世界から目を逸らすことを正当化できた。誰の目にも触れさせずにいられた。


 本当は王都(こきょう)になど戻らなければ良かったのだ。


 時が経ち、人種の違いから表面的な年齢だけは追いつき追い越したが、ヴィルへルミナは外見の瑞々しさはそのままに艶やかさを増した。

 放浪から定住へと生活形態が変わった結果、自然と人との関わりが多くなる。王都に移ってからもヴィルへルミナはディクスンの傍にいたが、ただそれだけだった。

 後に彼女自身が語った通り、そこに恋心は存在しなかった。いつ、ディクスンに見切りをつけてもおかしくはない。


 不安になった。

 と、同時に理不尽さも覚える。


 当時はまだディクスンも己の本心を曖昧にしか捉えていなかった。幼い初恋にも未練があったせいで、独占欲と所有欲を執着と履き違えているだけのような気がして、素直になるどころか逆に認め難く思ってしまった。

 真実の恋人同士になれない惰性の関係が、いつまでも続くものだろうか。もしヴィルへルミナが自分を捨てる可能性があるならば、先んじてディクスンの方から離れても構わないはずだ。

 しかも王都という場所が幼少時代の記憶を鮮明にさせる。魔物退治で英雄と持ち上げられ、男として自信がついたのもいけなかった。ディクスンは意識的にヴィルへルミナ以外の――かつての想い人に似た女性をわざと求めた。


 おそらく無意識下ではわかっていた。

 初恋の面影(キャスリーン)を鞘当てにして、ヴィルへルミナに妬心を抱いてほしかったのかもしれない。

 尤も彼女の性格からすれば、縋りつくような真似はするまい。仕方がないと苦笑して、別れを告げても簡単に受け入れる。戻ってきてもまた、同様に許容する。それはきっと恋ではない。情でしかない。

 試し行為など男女の仲では最低の所業なのに、いなされて傷つくのはむしろ自分の方なのに、ディクスンは幾度も繰り返してしまう。そして進展のない月日を過ごした。


 出口の見えない泥沼の洞で、ディクスンは足掻いていた。キャスリーンが離縁されて王都に帰って来たのは、そんな折だった。



 +++++



 キャスリーンの噂は聞いていたが、実のところディクスンは彼女に会う気はなかった。今更、という気持ちが強かったからだ。

 街中で遭遇したのはまったくの偶然だった。或いはキャスリーンの方は狙っていたのかもしれない。下町出身の守護兵団隊長は顔も名も知られており、どこにいても目立つ。非番であっても所在を確認するのは容易である。

 道端の往来で無下にできるはずもなく、声を掛けられれば応えない訳にはいかない。長く会ってない幼馴染と再会すれば、世間話程度は誰でもするだろう。もちろん当人同士は複雑な心境だったとしても。


 そんな微妙な雰囲気の中、交わされていた会話の途中で、ディクスンは視線に気づいた。

 遠巻きに見る外野のものではない。よく知った気配に、内心で狼狽える。強い感情は窺えない。近づかず遠去からず、ただ二人を観察している。歴戦の勇士であるディクスンは姿を見ずとも、野生の勘でそれが誰なのかすぐにわかった。


 ――ヴィ?


 人物を特定すると、すぐに森の民の特性を思い出す。普通の人間であれば、こちらの声は聞こえないような距離だ。だがヴィルへルミナは違う。


 微かに動揺に似た息遣いを感じた。

 冷静さは失われていない。いや、敢えて冷静であろうとする心の動きが表に出ているのか。

 あのヴィルへルミナが、ディクスンのことで揺らいでいる? 明らかにいつもとは様子が違う――。


 俄かには信じられず、ディクスンは平静を装うので手一杯になる。キャスリーンに話し掛けられても、適当に相槌を打っていた。


『……どうして?』


 気がついたときには、キャスリーンが瞳を潤ませてディクスンを間近に見上げていた。

 かつて想った少女の残影と成熟した女の色香が、男心を僅かに怯ませる。たった一瞬の隙だった。

『貴方ともあろうひとが、自分の立場を悪くする相手を選んでしまったの?』

 何やら的外れなことをキャスリーンが呟いている。気を取られているうちに、ヴィルへルミナはいつの間にかディクスンが把握できる範囲の外に立ち去っていた。



 そして――その夜は絶対にヴィルへルミナに会う必要がある、とディクスンはやや意気込んで薬草店に向かった。

 訊きたかった。

 ディクスンとキャスリーンが共にいるところを見て、ヴィルへルミナが何を思ったのか。悲しかったのか。苦しかったのか。悔しかったのか。

 このときはまだ自分では認識していなかったが、ディクスンは期待していたのだ。そうだったらいい。ヴィルへルミナが嫉妬してディクスンを咎めたらいい、と。


 けれども望む結果は得られなかった。

 最後までヴィルへルミナの瞳は恋を映さず、その手は伸ばされることなく、ただディクスンを翻弄したまま擦り抜けていった。


 ――君はまだ、恋を知らない。


 だとしたら、何故ヴィルへルミナはわざわざ逃げるようにディクスンの傍から離れたのか。どうして男女にありがちな普通の別れを経ず、黙って行ってしまったのか。

 ディクスンがひとり考えていても答えは永遠に見い出せない。何としてもヴィルへルミナの元まで辿り着き、もう一度話さなければならない。


 ――君はまだ、俺のことを知らない。


 ディクスンの決意は固かった。

 当てのない捜索がどれほど難航しても、年単位の、それ以上の年月を費やしたとしても、国の果てでも国外でも厭わないと勝手に誓いを立てる。





 しかし、願いは叶わぬまま徒に時は過ぎ――……。

誤字のご指摘ありがとうございます

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