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2.君はまだ恋を知らない

 ヴィルへルミナが噂の初恋の君(キャスリーン)を目にしたのは、アイリーンから話を聞いた僅か三日後だった。会ったのではない。飽くまで姿を見ただけだ。

 日用品の買い物のために市場に出掛けた帰り道だった。通り向こうに見知った人影があった。守護兵団の軍服を着た長身の男性は英雄として名高いが、生まれ育った下町にいるときは比較的自由過ごしている。

 ただし周囲も騒がないだけで、休暇だろうか、連れている女性は誰だろうか、とちらちら好奇の視線を向けていた。

 彼――ディクスンは慣れたもので平然としている。腕を引かれた隣の女性はやや気恥しそうに俯いていた。

 薄紅色の髪を束ねた貴婦人は、下町には不似合いなほど美しく、品が良い。おそらくは貴族の令嬢か若い奥方だろうと思われた。


 彼らとヴィルへルミナの間に隔たる道路の幅は、馬車二台がすれ違う程度に過ぎなかった。ヴィルへルミナは咄嗟に出店の影に身を隠した。何故か見つかってはいけないような気がしたのだ。

 

 後から思えば、この瞬間にでもさっさと立ち去っていれば良かったのだろう。

 要らぬはずの関心――或いは執心がヴィルへルミナに余計な行動を起こさせた。ディクスンとは長く男女の関係にあったから、彼が長く想いを寄せていた対象が傍らの彼女だとすぐに判った。

 今まで一時的な感情を向けていた女性たちとは明らかに違う。容姿でも雰囲気でもなく、ディクスンが浮かべる表情がすべてを物語っていた。

 笑顔ではない。むしろ泣き顔に近い、悲しく虚しいそれを、ヴィルへルミナは出会った当初よく目にしていた。


 ――じゃあ、あれがキャスリーン。


 下町育ちながら、家柄の良い相手に見初められたのも納得だ。容姿だけでなく纏う雰囲気自体が、普通の街娘とは異なっていた。

 ディクスンが惚れ込んだのも、忘れられないのもよくわかる。キャスリーンは下手をすれば先日ディクスンが懸想していた王女よりも優美で麗しく見えた。


 直視しないようにしても、森の民の優れた視力は簡単に彼らの姿を捉えた。同様に、人並み外れた聴覚が会話を捉える。殆ど不可抗力だったのがヴィルへルミナの不幸だった。


「……ありがとう、ディクスン。私の味方になってくれたのは、貴方だけだわ」

「俺はずっと……君が幸せなものだとばかり」

「子どもが産めない女の扱いなど酷いものよ。この街で暮らした幼い日々だけが、ずっと心の支えだったの。貴方が英雄になったと聞いて、我がことのように嬉しかった」

「ただの成り行きだ。たまたま魔物退治を続けていたら、大物に当たっただけで。駆逐できたのは兵団の力と、概ねは運だった」

「だとしても、貴方が王都を救ったのは事実でしょう。誇りよ。幼馴染として鼻が高かった。夫も姑も、こればかりは私に何も言えなかったわ。ううん、ディクスン、貴方の存在が私に自由をくれたの」


 鈴の音のような声が、甘く柔らかく響く。同性であるヴィルへルミナにもその魅力は理解できた。異性であれば尚更、自尊心を擽られ、夢中になってしまうのも道理だろう。

 穿った見方かもしれない。

 しかし視界の端に映るディクスンの横顔は、切ない恋を語るには充分だった。

 知っている。

 かつて報われぬ恋を吐露した、彼の胸中を誰よりも知っている。未だ消せない強い未練を、忘れ得ぬ傷の深さを、ずっと見続けていた。そのはずだった。


 ――知らない。


 相反する想いがヴィルへルミナの心を揺らした。もやもやとした感情が沸き起こる。

 わからない。

 二人の会話を聞きたくないと思うのは何故なのか。なのに、足が動かない。


 これまで数え切れないほど、ディクスンは他の女性に想いを寄せ、ヴィルへルミナを呆れさせてきたが、周囲が気にかけるような苦痛も嫉妬も抱いたことはなかった。

 今もそういうものとは少し違うだろうと、自分では思っている。しかし、どうにも言葉にはし難かった。


 割り切れない気持ちを持て余しながら、ヴィルへルミナは二人の様子を窺った。

 近くにいるのにまるでこちらに気づかず、ディクスンの瞳はただ一途に初恋の相手を映していた。彼女もまた、熱っぽい視線でディクスンを見上げる。


「……ディクスン、昔を思い出すわ。仕方がなかったとはいえ、私は間違えてしまったの」

「キャスリーン……」

「今更ね。貴方は王都の英雄だもの。相応しい女性はたくさんいるのでしょう?」


 キャスリーンの人柄はわからないが、ディクスンへの好意を隠すつもりはないようだった。もともと子どもの頃からよく見知った幼馴染だ。出世して収入や立場も良くなっている。俗物的に考えるのであれば、離縁された独り身の女が粉をかけても不思議はなかった。

 いや、最初の結婚自体が家の都合という話だった。ディクスンとは泣く泣く引き離されただけなのかもしれない。十年前に彼が引き下がらず想いを告げていれば、彼女が諦めず結婚を受け入れていなければ、二人は別の未来を生きていた可能性もある。


 十年――そう、十年は長い。

 赤ん坊が少年になり、少年が大人の男になるほどの時間、結ばれる当てもない相手に恋をし続ける。そんなことがあり得るのか。

 自分だったら絶対にないとヴィルへルミナは断言できる。

 けれどディクスンは憶えているのだ。

 幾人もいた薄紅色の髪の想い人たち、その原点がキャスリーンだった。それはとうに知っていた。


 立ち去るべきだと思った。

 所詮ヴィルへルミナはディクスンの唯一無二ではなかった。彼らの逢瀬に横槍を入れる気はない。本当にないのだ。

 くるりと背を向け、ヴィルへルミナは二人のいる場所とは逆方向に足を進めた。

 しかし空気の振動は余分な声を耳に届けた。


「聞いたわ、ディクスン。貴方、長くお付き合いされている女性がいるのよね」


 唐突に己のことを指すであろう言葉を聞き、ヴィルへルミナはギクリと身体を強張らせた。今更ながら、盗み聞きに罪悪感を覚えてしまう。

 同時に、ディクスンの答えに耳を塞ぎたいという気持ちで一杯になる。真実好きな相手に対して、一時の慰めに過ぎない女との関係をどう伝えるのだろう。

 あれは路傍の石だと一笑に付すのか。

 藁にも縋った自分の弱さを曝け出し、心だけは純潔を守ったと証明するのか。

 

「キャスリーン、彼女は――」

 ディクスンの声音がやや低くなる。

 ヴィルへルミナの鼓動が跳ねた。

「彼女は……俺の」

「……()()()()


 ディクスンが皆まで言い終えぬうちに、遮るかのごとくキャスリーンがぽそりと零した単語は、明らかな蔑称だった。

 ヴィルへルミナは新緑の瞳を大きく瞠く。

 怒りからではない。

 屈辱からでもない。

 ただ、これまで思いも至らなかった自分自身に心底驚いていた。


「キャス……」

「ディクスン、どうして貴方ともあろうひとが、自分の立場を悪くする相手を選んでしまったの」






 ▼△▼△▼△



 同じ日の夜――ディクスンは店にやって来た。

 想定より随分と早い、とヴィルヘルミナは面喰う。いずれ時が訪れることを覚悟していたが、ディクスンの動きがこうも早急なのは意外だった。

 もちろん彼はいつものように短期的な恋に破れて、慰めを求めに来た訳ではないだろう。

 何を告げられるか想像はできても確証はない。

 ヴィルヘルミナは知らぬ素振りで、いつものように、いや普段よりも効能が高い、珍しい香草茶を淹れたみた。


「ヴィ?」

「味が違うだろう? 最近手に入れたんだ。試してみて。ちょっと苦味が強いかもしれない。蜂蜜を足そうか」

「ああ……じゃあ少し」

 彼の様子に変わりはない。

 自分の態度にもおかしなところはないはずだ。

「今日はどうした?」

 空惚けてヴィルヘルミナは尋ねた。

「今度はどちらのお嬢さん?」


 失恋したディクスンがヴィルヘルミナの元に戻るのは、繰り返される日常であり、単なる年中行事に過ぎなかった。

 だが今回は違う。

 承知しながらも、ヴィルヘルミナは敢えて素知らぬ風を装う。一種の意地だった。

「王女様よりも素敵なひとだったのかな?」

「ヴィ……あの、さ」


「……キャスリーンが、戻って来た」


 思ったよりすぐに、ディクスンは本題に入った。

「憶えているかな、あの」

「君の幼馴染の名前だったね。昔、散々聞いたよ」

 ヴィルヘルミナはかき混ぜられた香草茶の水面に視線を落とす。何故だかディクスンと目を合わせたくなかった。

「里帰りでも?」

「いや……離縁、されたらしい。子どもができなくて」

「それは、お気の毒に」


 そう思ったのは本心からだったが、ヴィルへルミナの声音は世間話より熱が薄かった。そもそもが偶然姿を盗み見ただけで一面識もない相手だ。一般的な同情心以外抱きようがない。

 ヴィルへルミナは水を向けてやることすらせず、ディクスンの次の言葉を待った。

 

「……ヴィ」

「うん」

「ヴィ……ヴィ、もしも」

「うん」

「もしも、俺が」

「うん」

「俺が……その」


 どうしてかディクスンは何度も口籠った。

 英雄と崇められる堂々たる風情は欠片もない。そこにいるのはヴィルへルミナのよく知る、情けない男だった。


「君が……何?」


 敢えて問うたヴィルへルミナは意地が悪かったかもしれない。ただ、無下に捨てられる女として、この程度の意趣返しは許されるはずだ。

「何?」

「……ヴィ、俺が」

 やがて、意を決したようにディクスンが告げた。

「ヴィ、俺がもしも……彼女と、キャスリーンと結ばれたいと言ったら、君はどうする?」


「――……」


 ほんの一瞬だけ言葉を発せられなかったのは、果たしてヴィルへルミナの落ち度だろうか。

 どんなに覚悟していても動揺はするものだ。ヴィルへルミナは胸中で自嘲する。


 俯きがちの頭頂部にディクスンの視線を感じた。

 彼が何を思い、何を望むのか。

 自分はどんな想いを抱くのか。


 ふ、とヴィルへルミナは口端を上げた。

 自然に漏れた笑みだった。


「……別に、どうも」


 とうに用意していた答えを、ヴィルへルミナは淡々と口にする。微かに空気が揺らいだ。ディクスンの肩が震えたのがわかる。


「どうもしないよ、ディクスン」

「ヴィ……」

「君が何をしても、私が」

「ヴィ」

「私がどうこうする話じゃないだろう。最初に言ったはずだよ。私はただ、君の傷心を慰める」

「ヴィ――」

「だけどね、ディクスン」



「私は、恋を知らない」



 このときヴィルへルミナは初めて、頭を上げた。

 微かにディクスンの唇が震えていた。

 互いの双眸が交差する。


「だからね、ディクスン。私はずっと君の恋に対して、何を言っていいかわからなかった。今もだ」


 ヴィルヘルミナは再び口端を上げようとして失敗した。苦笑すら出ない、とはどういう感情だろう。

 自分自身すら持て余すのに、ディクスンの胸中はさらに読めなかった。そしてそれを訊く機会はもうない。


 ない。

 ないのだ。

 ヴィルヘルミナは()()()()()()()()()()()


「ヴィ、……ッ!?」


 不意に――ヴィルヘルミナにとっては予定通りに、ディクスンの様子に異変が起こった。

 ぐらりと身体が揺れる。椅子に座ってはいるものの、支えきれずに上体が卓上に沈んだ。ガシャン、と減った香草茶の杯が床に落ちる。ヴィルヘルミナは何も言わず、ただディクスンが崩れていくところを見ていた。


 いつもとは違う香草茶には、強力な眠り薬が配合されていた。屈強な戦士を無力化するのも、森の民にはお手の物だ。

 彼はおそらくニ、三日は目覚めないだろう。

 それだけあれば、時間としては充分だった。


 別離の言葉は掛けない。

 代わりに、ヴィルヘルミナは意識を失ったディクスンの髪に、そっと口づけた。



 +++++



 ずっと忘れていた。


 森の民、守護者――或いは魔に類する者、忌憚者。

 山間を主な住処とし、平地の民とは生活も慣習も違う。容姿も異なれば寿命にすら差がある。かつては同じ人間だと思われていなかった。

 時代が移ろい交流が進んだ。現代ではその知識や文化が認められ、受け入れられるようになった。ヴィルヘルミナが住んだ下町界隈では特に不便や不都合を感じたことはない。

 しかし、国内でも偏見や差別がすべて消えた訳ではなかった。支配者層は有用な人材として森の民を国に入れたが、上流階級になるほど異端を拒む傾向が強い。

 気味悪がり蔑むくらいは当たり前、中には積極的に迫害を加える者もあると聞く。下町で店を営んでいる程度であれば多少目溢しされても、国や政治の中枢に関わろうとすれば排除せんと動くだろう。


 ディクスンは――英雄だった。

 庶民出身ではあったが、魔物から王都を救った若き戦士として知らぬ者はなかった。守護兵団の出世頭で、上流階級に食い込んでいく人物と評され、期待されている。と同時に、成り上がりの誹りを受け、足を引っ張ろうとする輩も絶えない。

 恋多き男であることは許されても、森の民を情人とし続けるのは駄目だ。例の彼女の言葉を借りるとしたら「自分の立場を悪くする」だろう。


 だからヴィルヘルミナは去ると決めた。

 ディクスンが眠っている間に商品と私物を片付け、旅支度を調えた。空っぽの店内は何の痕跡もない。まるで最初から何もなかったのように。

 そう、何もない。きっと端から何もなかった。

 ディクスンはずっと別の恋を追い、ヴィルヘルミナは恋の重みを負いたくなかった。知らないままで良かった。平然と彼との関係を切れる自分のままで良かった。


 出立前にリリアンや世話になった近所の人たちに挨拶に行った。下町の人々は皆気さくで、ヴィルヘルミナを異端扱いもせず、受け入れ、別れを惜しんでくれた。これからディクスンがどれだけ地位や身分を得ても、彼らのような心根を忘れないといいと思った。

 リリアンは「自業自得よ、あの浮気野郎!」と罵倒していたが、ちゃんと義兄の初恋の結末を祝福するはずだ。ディクスンもキャスリーンも彼女には古い幼馴染なのだから。余所者のヴィルヘルミナを疎外せず、友好的でいてくれた。今も味方だと言ってくれる。それだけで充分だった。


 いずれ遠く離れた何処かで、ヴィルヘルミナは英雄の幸せな未来を聞くだろう。そのときは共にいるかもしれぬ誰かと、十年弱の思い出を肴に酒でも飲もう。恋にならなかった出会いを懐かしく語ってみよう。


 ――さようなら。


 もし、ヴィルヘルミナが恋をしていたら。

 泣きながらでも叫びながらでも罵りながらでも、ちゃんと言葉にできたのかもしれない。こんな騙し打ちのようなことをせず、彼の望む形で関係を清算できたのかもしれない。


 ――でも、私は恋を知らない。


 ヴィルヘルミナは未だ恋を知らない。

 慰めるべき傷心も無聊も消えたのであれば、出会う以前の当時に戻るだけだ。今更躊躇う理由も未練もなかった。

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