1.君はまだ何も知らない
――私が君の傷心を慰めるから、君は私の無聊を慰めるといい。
そんな風にヴィルへルミナは笑った。気まぐれのような気軽さに、ディクスンは思わず手を伸ばしてしまったのだ。
以来、二人の関係は友誼とも情愛ともつかぬまま、ずっと変わらず続いている。
▼△▼△▼△
ディクスンという男は浮気性で不誠実だ。ふらふらと別の女性を追い掛けては、恋に破れる度にヴィルへルミナの元に戻ってくる。
二人をよく知らない者は彼のいい加減さに呆れ、彼女の長年の忍耐を憐れむだろう。
事実、今日もディクスンは暗い顔でヴィルへルミナの店にやって来た。ゆうに二ヶ月ぶりの来訪だった。
「……随分早かったね、今回は」
特に感慨もなく呟くと、ヴィルへルミナは看板を裏返して店の扉を閉めた。
王都の片隅で薬草店を営む彼女だが、取り扱っているのは専門的なものばかりのため、普段の客入りは多くない。
「奥に入りなよ。いつもの香草茶を淹れるから」
「ヴィ」
「うん?」
ディクスンは力任せにヴィルへルミナの肩を引き寄せると、そのまましがみつくように抱き締めた。
「ヴィ、慰めてよ」
「いいけどね……今度は誰?」
「……アンジェリカ姫」
「ああ……第三王女様か。隣国に嫁ぐのだったか」
道理でいつもより失恋までの期間が短い訳だ、とヴィルへルミナはひとり納得した。細身でも筋肉質な男の身体を受け止めながら、子どもをあやす要領でその背を軽く叩く。
いくらこの国の身分制度が緩くとも、ディクスンが若くして英雄と呼ばれる王都守護兵団の出世頭だろうと、相手が王女様では如何ともし難い。
何せ第三王女アンジェリカ姫は薄紅色の髪と菫色の瞳が麗しい、国一番の佳人だ。望まれて隣国の王に嫁ぐと決まったという噂は、すでに王都どころか国内に広まっている。
「よりにもよって、そんな雲の上のお方に惚れなくても。普通によりどりみどりのくせに」
「理屈じゃないんだよ」
ヴィルへルミナの耳元で、ディクスンは大きく嘆息した。少年よりは少し低い声が耳朶を揺らす。
「訓練中にお声を掛けてくださったんだよ。虫一匹殺せないようなお姫様が、泥だらけの一兵卒にさ」
「いや君、隊長だろう?」
「……細かいとこは置いといて」
二十代半ばの若さで隊を率いる立場でありながら、ディクスンの言動には重さがない。
もともと趣味でやっていた魔物退治で名が売れ出した頃、勧誘されるまま守護兵団に入っただけの男だ。実力と実績が認められトントン拍子に出世したはいいものの、使命感も責任感も薄い。
だから身分差をものともせず王女様に岡惚れし、正面から失恋するなんて芸当ができるのだろう。度胸があると讃えるべきか無鉄砲を諌めるべきか悩ましいところだが、それはヴィルへルミナの役目ではなかった。
「懲りないね、君も」
何度も別の誰かに恋をして、フラれる度に戻ってくるディクスンに、ヴィルへルミナは苦笑を向ける。呆れでも諦めでもなく、かと言って裏返しの喜びもなく、彼女はいつも淡々としていた。
「ヴィがいるから」
わかっていてディクスンもヴィルへルミナのもとへ帰る。周囲が眉を顰めようが、お節介な説教をしようが、二人の関係は十年近くずっと続いていた。
「だからヴィ、さ」
「……慰めて」
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「ヴィは義兄さんを甘やかし過ぎだと思うわ」
翌日、店の手伝いに来たリリアン――ディクスンの弟マーティンの嫁――は義理の兄の為体を非難して悪態を吐いた。
「義兄さんは確かに表向き、王都を襲った巨大魔物から人々を守った英雄かもしれないけど」
「表向きも何も、事実だろう? 昔からあれが戦士としては破格なのは間違いないしなぁ」
「でもでも! あまりにもヴィを蔑ろにしてるっていうか、女の敵じゃない。あんの浮気者! 自分はふらふら遊び歩いて、都合の良いときだけヴィを利用してるみたいな」
リリアンは兄弟の幼馴染でもあるため、英雄と謳われるディクスンに対しても容赦がない。長年の情人を放置しては飄々と遊び歩いているいい加減な人間だと常に怒っている。
「私が構わないのだから、いいのだよ。でもリリアンが気遣ってくれるのは嬉しい。ありがとう」
感情的になりすぎては身重のリリアンの身体に障る。ヴィルへルミナは言葉を選んで曖昧に微笑んだ。
「そもそも私は――『森の民』は特定の配偶者を持たないのが普通だ。だからディクスンとはお互い割り切った関係を保てているのさ」
「それは……まあヴィがあたしたちと違うのは知っているけれど」
「見た目だけじゃなく、ね」
ヴィルへルミナは他人とは異なる長い髪をわざとらしくかき上げた。闇を思わせる深い漆黒は、平地の民には持ち得ない色彩だ。
さらに落ち着き払った双眸は、鮮やかな新緑の光を宿している。肌は透き通る雪の如く白い。どれも森の守護者と呼ばれるまつろわぬ民の特徴だった。
遥か昔は被差別民に類していたとも言われる。だが今の世にあっては、高度な薬学の知識を有する専門家として遇されている。ヴィルへルミナのように都市部で専門店を開く者も少なくない。
ただやはり生粋の流れを汲む森の民は、文化や風習が一般人とは大分異なる。婚姻や異性に対する価値観もそのひとつである。
「永遠を約束する、なんて森の民はしない。その時々で気に入った相手と過ごし、嫌になったら別れる。その繰り返し。定住だって殆どしない」
「もしかして、気の毒なのは実は義兄さんの方なのかしら。だったらいい気味だわ」
「さぁて、どうかな」
肩を竦めたヴィルへルミナは、僅かに瞳を眇める。リリアンの皮肉が的外れであることを知りつつ、否定するのは何やら複雑な気分だったのだ。
「……恋多き男、か」
「ほんっと不誠実な男よ。英雄色を好むとか阿呆なこと考えてるのかしら」
「そのわりに、いつも同じような相手を選ぶ。当人は無意識なのかもしれないが」
「……今回はお姫様だったんでしょ? その前は大店のお嬢さん。お役人の娘さんとか食事処の看板娘とか、旅芸人や花街のおねえさんってのもあったわね。言うほど同じじゃあないと思うけれど」
思い出しながら指を折ったリリアンが、あまりの人数に途中で数えるのを止めた。
彼女は噂は聞いても、ディクスンの恋の相手を実際に見たことはないのだろう。ディクスンは片想いこそ多かれど、残念ながら殆ど正式な交際までは至らず、仮に付き合えてもすぐにフラれてしまう。
同情や憐れみ――或いは嘲笑目的でヴィルへルミナに情報を齎す者はいても、弟の妻にまで噂以上の話を聞かせる暇人はいないようだった。
「王女様……の、お姿はわかるよね?」
「アンジェリカ姫?」
畏れ多くも失恋対象となった第三王女の名を出すと、リリアンは怪訝そうに首を傾げた。
「物凄い美人よね。小柄で、ふわふわの髪で」
「そう。ふわふわの、薄紅色の髪でね」
「……あっ」
リリアンは掌で口を押さえた。思い当たる節があったのか、気まずさを隠せずヴィルへルミナを見遣る。
「え……まさか、今までの浮気相手、全員?」
「浮気……というのが正しいかは知らないが、まあそうらしいよ。どうしても薄紅色の髪の女性に惹かれるみたいだ。未練がましく、と言ったら失礼かな」
「ヴィ、知ってたの? 彼女のこと……」
「ああ」
無感動に頷くヴィルへルミナは、片頬を引き吊らせたリリアンよりもずっと平然としていた。
「ディクスンの……初恋の相手だろう。出会った当初から聞いていたよ。確か名はキャスリーン――」
+++++
ヴィルへルミナは思い出す。
彼女がその名を知ったのは、およそ十年前、ディクスンと知り合ったのとほぼ同時だった。
当時のディクスンはまだ少年で、ヴィルへルミナはまだ彼より年上に見えた。
森の民は長寿で、普通の人間の二倍くらい生きる。若いうちは老化も遅い。現に今のディクスンの外見年齢はヴィルへルミナを追い越している。
つまり森に迷った子どもを保護する感覚で、ヴィルへルミナは行き倒れていたディクスンを拾った。
後で聞いたところによれば、彼は少年ながら一端の戦士であり、魔物退治の旅をしていたらしい。生まれ育った王都を離れ、腕試しと報酬稼ぎのため放浪する日々の途中、ヴィルへルミナが住む森に立ち入ったのだ。
と言っても、ヴィルへルミナ自身ひとところに居を構えていた訳ではない。森や山中は勝手が利くが、薬草を拾い集めて転々とする生活は旅人同然だった。
行き倒れが成人以上の男であれば、単身のヴィルへルミナが無防備に関わることはしなかっただろう。可哀想な迷子だと思ったから、彼女はディクスンを助けた。暖を与え食糧を恵み、体力が回復するまで傍にいた。
否――回復した後も、ずっと。
もちろん家に帰るよう何度も諭した。
親切にも人里まで送る提案までしたのだ。
「仕方ない。街まで連れて行ってあげよう。子どもがこんなところにひとりで来るものじゃあない。危ないよ」
「子ども……って、俺もう十四歳だけど?」
「充分子どもだよ、少年」
「少年……ディクスンだ。君だって俺と五つも変わらないだろ。若い女がひとりでいるのは危なくないのか」
「森の民が森にいて、危険も何もないさ」
半分くらいは嘘だった。
森には魔物もいれば野獣もいる。ヴィルへルミナのような森に生きる者は知識もあれば回避にも優れているが、万能ではない。集団は作らないまでもニ、三人の群れで連携することが多い。
実のところ、ディクスンはヴィルへルミナの虚勢を最初から見破っていたらしい。王都の下町生まれのディクスンは、森を抜けて移り住んだ者たちとそれなりに親しくしていたようだ。森の民の生活や習性を聞き及んでいれば、ヴィルへルミナの単独行動を不審に思っても無理はない。
早くに身内と死に別れ、天涯孤独となったヴィルへルミナは、他の同族とも何となく反りが合わず、かと言って人里に下るほどには一般人にも馴染めず、ただ無為に毎日を過ごしていた。
森の中では狩猟や採取で食糧にも困らず、たまに人里で薬草や煎じ薬を売れば多少の金銭や物品も手に入る。生活自体に不自由はなかった。
ヴィルへルミナがディクスンを助けたのは、変わり映えのない日常に飽いたうえでの気まぐれに過ぎない。ただ、一度情けを掛けてしまえば、遭難して弱った相手を簡単に放り出すのは気が引けた。
だが、いつまで経ってもディクスンが自分のもとを離れようとしないのは想定外だった。
「ただね、森の民は定住しないのだよ。私もいつまでもこの森にいるとは限らない。もしかして君、家に帰れない事情でもあるのか?」
業を煮やして訊いたとき、ディクスンは絶望的な表情をした。親から虐待を受けたり過酷な労働を強いられたりしているのか、と不審に思って問い詰めると、彼は真っ青なまま肩を落として答えた。
「幼馴染、が……」
「うん?」
「……結婚しちゃって」
「はあ?」
返ってきたのは明後日の回答だった。
ヴィルへルミナは意味がわからず、怪訝というより胡乱な目になって首を傾げた。
「君の幼馴染だったら、まだ子どもだろうに」
「子どもじゃない。キャスリーンは……幼馴染はひとつ年上で、王都では確かに早い方だけど、結婚しておかしい年齢じゃあない」
項垂れながらも、ディクスンは幼馴染――キャスリーンとやらの話を続けた。
下町では比較的裕福な家に生まれたキャスリーンなる少女は、それはそれは美しい娘だったらしい。
薄紅色の髪――はそれほど珍しくもないが、可憐な乙女には相応しく、周囲の誰をも魅了した。
ディクスンも例に漏れずそのひとりだった。幼馴染で遊び友達だった彼は、自分がキャスリーンに最も親しい存在だと信じていた。いや、過信していた。
「ええっと……つまり、そのキャスリーンという娘は、別の誰かに嫁いだ訳か」
「地方だけど、領主の血を汲む名門に嫁いだ。一般的に言えば玉の輿だな」
なるほど、とヴィルへルミナは概況を理解する。
片や貴族階級の御曹司、片や下町のガキ大将では、比較し得るはずもない。その先は聞かずともわかっていた。要するに彼は逃げてきたのだ。おそらくは引き留めるどころか気持ちを伝えることすらできずに。
――気の毒に。
世俗に疎い森の民でも、思春期の少年が繊細にできているのは容易に想像がつく。
行動を起こさなかった後悔と未練で、頭も心も整理がつかなかったのだろう。だから今のままでは帰れないと思い込み、ふらふらしてるうちに森に迷い込んでしまった訳だ。
「それはまあ、しょうがないね」
「……君と一緒にいてもいい?」
「ヴィルへルミナだ」
「長い……」
「……ヴィでいいよ」
「ヴィ、いい?」
「不本意だがね」
ヴィルへルミナは同情してしまった。
今となっては余計なお世話、出過ぎた真似だったと自覚しているが、そのときはどうしても傷ついた少年を見捨てることができなかった。
「言っても帰るつもりはないのだろう? 不本意だが致し方ない。そうだね……こう考えようか。私が君の傷心を慰めるから、君は私の無聊を慰めるといい」
仕方なくヴィルへルミナはディクスンを追い返すことを諦め、自身の傍にいることを許した。当てもなく放浪する生活は、ヴィルへルミナもそれほど変わらない。お供が増えても賑やかし程度で害はないと判断した。いずれ落ち着いたら去るだろうと、安易に考えていたのもある。
二人は森で一緒に生活するようになった。
森の民であるヴィルへルミナは、何ヶ月か、長くとも一年毎には山を越えて移動する。次の土地へ次の土地へ。国中を回ってもディクスンはずっとついてきた。
いつの間にか両者の関係は大人と少年から対等の友人に変わり、やがて男女のそれとなった。
戸惑いはあったが互いに自然の成り行きだった。孤独な女と傷ついた男――というにはまだ少年ではあったが――心に埋めるべき空虚を持て余している同士、恋や愛など知らずとも抱き合うことはできる。
出会いから時が経ち、ディクスンの外見年齢がヴィルへルミナと同じくらいになった頃、二人は王都に居を移すことにした。
ヴィルへルミナが都市部に住んでみたいと言い出したからだ。長年薬草作りと販売巡業に精を出していたため、資金は潤沢にあった。ディクスンから街の話を聞き続けて、一度店を構えてみたくなったのだ。
ディクスンの伝手で悪くない立地で店舗を借りられることになった。彼自身も身体能力を買われ、王都の守備軍に入隊が決まった。
ただひとつの懸念は――ディクスンが出奔する原因となった心の傷だが、さすがに対象と離れて五年以上も経つ。表面上はすっかり癒えたように見えるし、今更ぶり返したりはしないだろう。ヴィルへルミナは高を括っていた。
それが誤りと気づくのは、王都に移住して僅か半年後のことだった。
+++++
「まあ『好きなひとができた』なんて科白は最初こそ驚いたけど、聞き飽いたら冷静にもなれるというものだよ。ちょっと観察すれば相手の女性がどれも似た感じなのは明らかだったしね」
「何だ、ヴィはキャスリーンのこと知ってたのね。義兄さんの情けない失恋話も」
リリアンは初めて聞いた義兄とその情人の馴れ初めに、軽く舌打ちして悪態を吐いた。無論、対象は普段からろくでなしと断じているディクスンである。
「告白もできなかったくせにそんな未練たらたらで、挙げ句ずっと一緒にいるヴィを裏切り続けていたなんて、本当に許せないわ」
ディクスンが妻同然に連れてきたヴィルへルミナを、リリアンを始め血縁や親族は身内として受け入れている。他でもない当人たちを除いて。しかし好意的な分、後ろめたさは否めなかった。
「別に裏切られたとは思ってないし、ディクスンを束縛するつもりはないからいいんだよ。まあ過去の失恋をいつまでも引きずっているのはどうかと思うけどね」
ヴィルへルミナは他人事のように苦笑する。
「もっと上手に立ち回れば、新たに成就する縁もあるだろうに。残念な男だよ」
「……ヴィはそれでいいの? 義兄さんが浮気でなく本気で他の女のひとを選んで結婚でもしたら、簡単に別れるの?」
「そうなるだろうね」
躊躇いもせずに、ヴィルへルミナは首肯する。
情や未練がまったくない訳ではなかったが、今はもう諦めの方が強い。特定の異性に対する執着が薄い森の民だからこそ、見切りを付けるまでもなく放置していた。普通の女性ならば、相手の不誠実に怒ってとうに去っていてもおかしくはない。
「ヴィってば、本当に冷静なのね」
「いい加減なだけだよ」
「だったら黙っておく必要はなかったかしら。ええとね、別に隠すつもりはなかったんだけど……」
「?」
「あの……さっきの話に出てたキャスリーンのこと、なんだけど」
リリアンは歯切れ悪く言い淀んだ。
いつも快活な彼女にしては珍しい。ヴィルへルミナは怪訝に思い首を傾げる。
「ディクスンの初恋の君が、どうかした?」
「うーん……それがね」
もともと隠し事が苦手な性格なのもあるのだろう。言葉を選ぶように迷いながらも、結局リリアンは口を割った。
「キャスリーン、王都に戻って来てるらしいのよ。私も会っていないから詳しくは知らないけど、嫁ぎ先を出て離縁したとかいう噂で」
「……ほう」
一瞬だけ、ヴィルへルミナは動揺を露わにした。今までディクスンが他の女性に気を向けても、一度も狼狽えたことはないというのに。
「ディクスンは……」
「噂が耳に届いてるかはわからないわ。ただ、いくらでも情報が入ってくる地位にいるし」
「いや……うん、結構なことだね」
何故かちりりと痛む胸中を隠し切って、ヴィルへルミナは完全に平静を装った。自分を慕い、親身になってくれるリリアンに、僅かでも負担を掛けたくなかったからだ。
「良い機会なのかもしれないよ」
「ヴィ……でも」
「諦め切れぬ想いに奇跡が巡ってきたのだとしたら、最早誰にも止めることはできないだろうね」