24、六月の催しと強い華(その一)
「貴女ならロナにふさわしい子を産めることでしょう……」
それは遠い始まりの日の記憶を辿る夢。
初めて出会うその人は実年齢よりずっと若く見え、人間ではないものを人間の形で相見える……そんな恐ろしさを感じたのを覚えている。
「奥様おはようございます」
夢から醒めると、侍女のアンが最初に目に飛び込んだ。
「……おはよう。今は何時?」
「いつもと同じ六時にございます。朝食をお持ちしても?」
「その前に方々へのお手紙と報告書の返事や返答を書かなければならないから、それを先にちょうだい。それと眼鏡も欲しいわ」
アンにもらった手紙や書類を脇に置き、朝食のお茶で口を濡らしつつ用事を片付けていく。
貴族の奥方は朝から家内の運営、一族の社交、領主の妻、領民の母としてすることが山積みだ。
ゆえに貴族の奥方だけは、主人にも許されないベッドでの朝食を取ることが許されている。
「奥様は王都に来ても休み無しで、大変でいらっしゃいますね」
「どこもこのようなものでしょう……。奥様というものはどの身分、どの年代でもね?」
アンがカーテンを開き窓を開けると、爽やかな新緑の香りのする風が流れてきた。
ローゼナタリアはこの季節が一番気持ちが良く、社交界も盛り上がりを見せる。
「エース様とアレクサンダー様、そしてアニエス様はきっと見ない間に大きくおなりでしょうね!」
彼女は眼鏡を外しながらいったんペンを置き、それに対して阿吽の呼吸で、お湯の入った洗面器をアンが持ち、それで手を濡らして、アンに渡されたタオルでギュッと手を拭う。
「エースやアレクサンダーについては何も心配していないけれど……あの子に関しては、どうにも心配でしょうがないわ……」
なめらかな眉間に長い指を置き、皺を作らないよう努めながら思わずこぼす。
「どうして、ああも問題児に育ってしまったのか……竜は取ってくるし、ほぼ相談なく人質の件を進めてしまうし……この間イライアスからあの子がどうやら王太子を殴ったらしいと聞いた時には、卒倒してひっくり返るかと思ったわ!!」
それを聞いたアンは朗らかに笑った。
「どれもお嬢様らしいお話ばかりですね!」
「まだ社交界にデビューすらしていないのに、こう色々やられては先が思いやられるわ……」
「お嬢様は他の八人分の問題や喜びを肩代わりされてらっしゃるのですよ。きっと!」
「…………アンの毒舌ったら、朝から冴えに冴えわたっているのね?」
手紙の返事やお礼状などを書き終え、同時に朝食を済ませると、朝の湯浴みと洗顔にスキンケア、歯磨きと徐々に身支度を整えていく。
象牙色のうっとりするような肌に金色の腰まで伸びる豊かな髪。
ヴィーナスのような見事な肢体を贅の限りを尽くし化粧をして着飾る。
そして『貴婦人』という言葉が彼女のために作られた言葉ならなんと至上の言葉かと思わせる……それは素晴らしき美女が燦然と輝き現れる。
それが現在の社交界の薔薇にして、ロナ大公爵家の女主人。ディアナ・ロナ・チャイルズ・アルティミスティアその人だ。
「本当に今日も眩いばかりですわ奥様。本当に、あのように大きなお子様がいらっしゃるのに……神様は不公平でらっしゃいます!」
「……そうでもないことを誰よりも貴方はよく知っているのに、本当に調子がいいわねアンは?」
身支度が整ったので、アンや他数名の自分付きの使用人を伴い階下へと降りていき、応接間に向かうと二人のフットマンが観音扉のドアを優雅にすらりっと開けてくれた。
「ごきげんよう。公爵閣下」
中に入ると公爵は大きな愛犬の頭を撫でながら新聞を読んでいる。
「やあ、世界一美しい我が奥様!!」
いい大人の男性なのに、子供のような可愛い笑顔でイライアスはディアナの麗しの顔を見ながら言う。
「……ええっと、なんでまだガウンを着てらっしゃるの? 学校に一番乗りで向かいたいと言っていたのは貴方ではなかった?」
しかし、何の準備も終わっていない夫を妻はジロリと睨む。
「大丈夫、大丈夫! アーネストが頑張ってくれるから時間にはきっと間に合う!」
「アーネスト。時には反抗しても良いのよ?」
するとアーネストが笑顔で応えた。
「おはようございます奥様。身に余るご配慮をいただき痛み入ります」
「……あなた、アニエスも現地で一緒になるのですか?」
「ああ、アニエスはタニア王女殿下に付いて見に来るみたいだからね。タニア王女殿下の兄君のセオドリック王太子殿下がご在学でいらっしゃるから」
「そう……」
「寂しいかい?」
「別に……ただそうですね。いつもうちのお転婆娘がご迷惑をおかけしているのは明白でしょうから……出来るだけ早くご挨拶には伺いましょう!」
その答えにイライアスはくすくすと笑いながら了承した。
◇◇
一方、寄宿舎特権学校であるエールロードでは朝からバタバタと生徒も教師も大忙しである。
今日は年に一度の唯一、郊外から客人を招いての催しのお祭りだからだ。
一番の目玉は各寮対抗のボートレースだが、他にも個人発表や演目もさまざま用意されている。
出店は無いがケータリングのようなものが入り、臨時のフットマンが数多く雇われ、各社交ブースや休憩所でシャンパンやジュースにお茶や軽食、デザート等が饗されることになっている。
何しろ本日ここにはどう少なく見積っても、社交界の半分近くの人々が集まるのだ。
ボートレースは各寮の代表者。本来であれば上級生が参加するところだが、エースは異例にも参加することになっており、再度ボートの注意事項に耳を傾けていた。
「へえ、君も参加するのか?」
エースは声を掛けられ振り返ると、そこにはセオドリック殿下が立っていた。
「セオドリック殿下……お久しぶりにございます」
「すごいな、一年生が参加するなんて」
正直、前のことがあってあまり良い印象は抱いていないが表面上は友好的に対応する。
セオドリックもその辺りは解っているのでこちらも表面上は、爽やかに応じていた。
「僕はもともと補欠参加だったのですが、出るはずだった上級生が麻疹になってしまって急遽繰り上げで参加が決まりました!」
「そうか……。一年生は活躍の場がほとんどないから君を見られたら、さぞ、ご両親も自慢に感じるだろう。私は所属が違うから応援は出来ないが、お互い健闘を祈ろう!」
「ありがとう存じます。セオドリック殿下」
去っていく自身の敵の後姿を見ながらエースは内心舌打ちした。
(セオドリック王太子殿下……自分たちの三・四つ上で、優秀で国民にも絶大な人気を誇る……特に女性人気が高くて女性の扱いに長けている人物。正直、王子なんて分の悪い相手がライバルになるだなんてな……油断していたよ)
十代の四つ差は大きい。セオドリックの方がもちろん背は高いし体格だっていい。しかも十二歳なんてちょうど年上に憧れる年頃といえるだろう。
「ふざけるな。絶対に渡さないぞ!」
青紫の瞳に強い光を宿し、エースはセオドリックのその後ろ姿に呟いた。
「王子であろうと国であろうとな……!」
外ではそんなことになっている中、学校の中の大講堂では最終の舞台リハーサルが終わり、アレクサンダーもさっさと着替える。
女物のドレスなんて、ずっと着ている気にはとてもなれなかった。
実際にドレスを着た自分の姿にアレクサンダー自身、正直、絶望するほど違和感がない。
わざわざ用意された銀髪の鬘は人毛の本格的なもので、今回しか使用することは無いのに、そのあり余る情熱と熱意にアレクサンダーはうっと引いている。
もうすぐ十三歳になるアレクサンダーだが、その声変わりはまだ先のようで、アレクサンダーは高いボーイソプラノの声が出せた。
普段、彼が話す声はもっと低いと思うのだが、音楽の授業の歌はソプラノに振られている。
今回の劇も本格的な歌劇にあたり、ただでさえこの格好で舞台に立つのは嫌だったが、さらに人前で見世物として歌わされるなんて、これはいったいどういう罰ゲームなのか?
「アレク姫! どうぞお飲み物をお持ちしました!!」
アレクサンダーが舌打ちをしながら振り返って、姫呼ばわりした奴を心底軽蔑した目で睨みつけた。
「エンヴリオ……何の真似だ?」
「いや、差し入れだけど?」
赤毛のくせ毛に青い目の眼鏡の少年がニコニコと冷たい瞳に怯むことなく……いや、むしろ喜びに打ち震えながら答える。
「本当に綺麗だよ!! どんな美の女神も君には敵わない!!」
「……君が寮の部屋に真っ先に飛び込んできた初日、皆の前で裸になって見せてやっただろう? そうやって僕が女ではないと散々知らしめたはずなのに、何故わからない!」
「僕は男女関係なく美しい者がたまらなく好きなんだ。君と寮で同室になれるなんて……!! 実家で毎食ごとにお祈りを捧げたのは無駄ではなかった。ねえ、どうか僕の恋人になっておくれよ!」
アレクサンダーは、もう一度舌打ちする。
「寝言は寝て言え。あと命は大事にしろよ。お前を捻り潰すなんて……造作も無いんだからな?」
「感情が露わになると言葉が乱暴になる……そんなドSなところも、なんて絵になるんだろうね君は?」
「殺す……」
「……おいおい舞台の前に殺傷沙汰はどうかよしてくれ!」
割って入ったのは演技指導をしている他寮の監督生をしているレイモンドだ。
「エンヴリオ……うちの主演をどうか刺激しないでくれと何度言ったらわかるんだ!?」
レイモンドがそう圧をかけるもエンブリオは悪びれなく答える。
「そんなー! 例え僕が来なくとも彼に近付こうとする者はうじゃうじゃいますよ? ましてやこんなこの世のものとは思えない人外の美しさを目のあたりにしたら……」
「うんうん。そうだねそうだね……よし、邪魔だ早く行ってくれ。君の寮の監督生を呼ぶぞ? いいのか? そしたら確実にアレクサンダーとは、いっちば〜ん遠い別の部屋をあてがわれることになるが……?」
「……それじゃあ、アレク姫。また後で舞台を拝見に参ります! では……さよなら!!」
そう言って、エンヴリオは一目散に逃げていった。
「ありがとうございます。レイモンド先輩」
「お前も粘着質なファンが多くて大変だな? まあ今日がその格好をするのも最後だから……せいぜい頑張れ」
「ええ、とっとと終わってほしいです。出来れば誰にも見られずに……」
アレクサンダーは本音を隠さずにそう吐露する。
「もしかして彼女でも見に来るのか? ほらずっと前に制服を着て……忍び込んできた大胆な子がいただろう?」
それに思わずアレクサンダーは頬を赤くしながらプイッと横を向いた。
「彼女ではありません。僕の……主人です」
アレクサンダーの言葉にレイモンドは「えっ」と驚愕する。
「……ごめん……まさか、そんなディープな関係性だったとは……」
「いや、あの違います。先輩が想像するようなものではありませんよ!?」
心底安心したように、レイモンドが胸を撫で下ろした。
「驚かせるなよな~! もう」
「驚いたのはこっちですよ!!」
アレクサンダーはエンヴリオがいなくなったので気にせずさっさとその場で着替えだす。
「前から思っていたんだが……何か昔からしていたのか? その年齢で相当に鍛え抜かれた身体をしてるよな……?」
アレクサンダーの腹はすでにキレイに六つに分かれていた。
それ以外にも他の同い年の男の子たちが、まだぷにぷにと子供らしく筋肉が未発達でフラットな中、一切の無駄な肉を削ぎ落され、実にひき締まった筋肉質な身体をしている。
これはきっと体脂肪率を測ったらかなり攻めた数字になるのではないだろうか?
「軍に志願でもするつもりか?」
そう言われて、アレクは着替えながら首を横に振った。
「そんなんじゃありません。油断すると負けるかもしれない危機感があって……仕方なく鍛えているというか」
「負けるって……いったい誰に?」
制服の燕尾服のジャケットを羽織りボタンを全て留めると、アレクサンダーはレイモンドに向かって静かに振り返った。
「制服を着て忍び込んでくる、変わり者の女主人に」
◇◇
「くっしゅん!」
「あら、アニエスったら、風邪をひいたの? 今日は行けそうかしら?」
タニアがそう言ってアニエスを心配したが、アニエスは手を振って元気に力こぶを作って見せる。
「大丈夫です! もう初夏だからと少し油断しておりました。でも上着も持参しておりますので何も問題はございません!」
「それなら良かったわ。今日はいよいよアニエスご自慢の二人に会えるのですもの、私もとても楽しみにしているのよ?」
「タニア様……いったいそれは誰のお話ですか?」
「アニエスのご自慢の義弟君と、アニエスの腹心の幼馴染殿よ」
「良かったらアンジェリカ様方にも紹介しとうございます。私と違って、とてもしっかりしているんですよ?」
あれ以来アニエスとアンジェリカの関係は改善されている。
本日のエールロード寄宿舎学校の六月の催しにタニアと同伴希望をする者を募ったところ、応募が殺到した。
出来るだけその希望に応えたいとする優しいタニアの計らいもあり、全員を連れて行くことに決まったが、それはまるで女学園数クラスを連れ歩くような大所帯となっている。
タニアの前方をタニアの護衛が前に出て守り、タニアの後ろには年功序列ではなく貴族の家格順の列となって王宮宮廷行儀見習いは並んでいた。
そのため、ロナ公爵家のアニエスとボーズ侯爵家のアンジェリカはタニアのすぐ後ろに付くことになる。
そのようにタニアに続いて二、三列を成している王宮宮廷行儀見習いたちは、華やいだ揃いのドレスと催しに合わせた飾り帽子で着飾り、優雅でありつつも、まるでマスゲームのようにぴったりと息の合った動きで前へ前へと進む。
それは道行く人の目を奪うもので、これ自体が演目の一つでもあるかのようだ。
前から数人ずつ馬車に乗り、アニエスとアンジェリカとタニア、それからタニアの侍女長と副侍女長が同じ馬車に相乗りとなっている。
王宮からエールロードは近く、目的地は馬車を走られてすぐに目に飛び込んできた。
「あ、エールロードが見えてまいりましたタニア様!」
馬車の窓から身を乗り出してアニエスが声を上げる。
「ああ本当ね。楽しみだこと!」
タニアもニコニコと本当に嬉しそうだ。
こうして物語の登場人物が勢揃いし、いよいよ寄宿舎学校の催しの幕が上がろうとしていた!!
【ローゼナタリアの階級社会】
『上流階級』……王族と代々の世襲貴族や豪族とその家族、一代貴族、政治家、アッパーミドルクラス出身でいくつも土地を所有し社会貢献により王室からが認められた者とその家族。国王王太子クラスの人物に日常的に接することのできる宮廷人。将軍・指揮官クラスの軍人。上位一部宗教家。特別な魔法使い。
基本的には税金の無い特権階級である。
有り余る財産と暇から一生働く必要がなく『週末』を知らない者も多いが、高い魔力を駆使した社会貢献や領地経営などで忙しくしている人物も同時に多い。魔力が他の階級と比べ圧倒的に高く、その影響からかスタイルの良い美男美女が多く存在する。
『上位中産階級』……会社や企業や大工場のオーナーや代表取締役や役職。資産家や投資家や銀行員。海外帰りの大富豪。官僚。大病院の院長や弁護士事務所の代表等、非常に豊かな資産を有し高等教育を受け、社会貢献にも積極的な人々が所属するクラス。貴族を意識し目指す傾向がある。意外にも質実剛健。子供の教育が厳しい場合が多い。
『中位中産階級』……階級として上か下に割り振られ、一般に考えない場合も多いが、ちゃんと存在はしている。
専門的な知識を有し教育水準が高く資産も多いが、見栄っ張りや上昇志向が多く生活が派手な場合が多いため「お金がいくらあっても足りない」と言っていることが多い。……例えるなら年収1000万円以上超えて世間にはお金持ちと見られるも、その分持ち物や生活費のランクを上げ、税金も高いので、意外にも自由にできるお金が少ないとかそんなイメージか? 中規模の商人、普通の医者、大学教授、外国帰りの富裕者など。
『下位中産階級』……教師、宿のオーナー、芸術家、卓越した工匠、小規模の商人、店主、貧相な宗教家など。物語冒頭の記者たちもこのランクに属している。
『労働者階級』……賃金で雇用され、生産手段を持たない社会階級。国民の肉体労働者、雇われ人、一般的な職人や工場労働者、製造業者、行商人、煙突掃除夫、陸海軍の雑兵、季節労働者、一般的な農民や、漁民、お針子、メイドや給仕、ボーイなど(※なお、使用人は所属する家庭や就いている役職によってもそのランクによって所属するクラスは変わってくる。解りやすいところだとコックや家庭教師は中産階級)
因みに労働者階級はランチを『ディナー』と呼び、夕飯は『ティー』と呼ぶことが多い。労働者階級の食事によく出る『バターパン』はなぜかやたらと美味しそう……。
『ランク外・貧民』……高級娼婦以外の娼婦、泥棒、ホームレス、薬の売人など。
因みに『錬金術師』や『冒険者』は英雄から犯罪者までその差はピンキリが過ぎるため割とあいまいなどっち付かずな扱いだが、比較的悪い印象が強いイメージ。偏見も多い。




