118、図書館の新しい世界たちと『嫌じゃない』
「…………」
「…………」
セオドリックの執務室は今、今世紀最大に重々しい空気に満たされていた。
それというのも、先日のレベッカによる魔法の『いたずら』のために、ノートンが媚薬をうっかり飲んでしまった故に……。
何と事もあろうか、主人のセオドリックを襲って、その様子をしっかりとアニエスとエレナ嬢にご披露してしまったのである。
また、それがどうやら王宮宮廷行儀見習いの中で、あっという間に噂が広がったらしく……。
彼女たちは二人を見ると女性同士で目配せし、自分達が去った後に何やら黄色い声を上げているのに何度か出くわした。
「本当に申し訳ございません。セオドリック様……!」
ノートンは何度目かの謝罪をセオドリックに申し上げた。
「あのような失態を……よりにもよってアニエス嬢の前で。……いっそ私は腹を切ります!!」
それに、セオドリックは溜息をつく。
「もとは私が許可を出したのが原因だ。私の方こそ、今まで清廉潔白で、傷一つなかったノートンの経歴をこんな風に辱める結果になって申し訳ないよ…………。それに、好きな女に知られて痛手を負ったというのに関してなら、ノートンも同じではないか?」
「…………」
そう、知られてしまった。
この不名誉な噂をせめて行儀見習いまでで留めるために、王宮宮廷行儀見習いの総元締めである王女タニア殿下にすぐに口止めを依頼したためである。
しかし、それは同時にノートンの密かな想い人であるタニアに真っ先に知らせるということでもあり……。
それは、清潔、誠実、信頼、爽やかの代名詞とまで言われていた、これまでの彼の評価を地の底に突き落とし、密かな恋にヒビが入るは確実なものと言えた。
ノートンはそれを思うと、その場に立っているのさえやっとであったが、そこは優秀な最側近。
彼は、どんなに胸の内がぐちゃぐちゃであろうと、決してその身を崩し、地面にその膝を着けることはなかった。
だがその分、彼の胸中を知るセオドリックにはその痛々しさがあまりに生々しく感じた。
「……ノートン。今日は丁度、王宮図書館に献本がある日だろう? 昼からそちらで、私の好きそうな本を探しに行ってくれないか? ……この書類共は夕方までには、片付けておくから!」
つまりは、それはノートンに対する半休を与えるという意味が言外にこめられた言葉である。
セオドリックは、今まさに忙しさも佳境だったが、この自分に忠実な側近に少しでも心休まる時を与えてやりたいと考えたのだ。
だが、もちろんその申し出をノートンは断る。
「殿下! 何をおっしゃるんですか。こんな猫の手も借りたい時分に!?」
そう異を唱えた。
本当にノートンはいつでもどこでも、優先すべきは王太子なのである。
けれど、肝心の王太子はその言葉にさらに強いNOを示す。
「いや、これは王太子の絶対命令だ。異は認めない。……なあノートン。少しずつでも私に主人としての名誉を挽回させてくれないだろうか? これでも、ノートンを巻き込んだこと本当にすまないと感じてるんだ」
ふざけた様子も、何かを含んだ様子もなく、セオドリックは真剣な表情でノートンにお願いした。
「殿下……」
「私は、何かあってもそれはきっと自分の身から出た錆だが、ノートンに錆が出るとしたらそれは絶対ノートン自身じゃなく、私からうつった錆だ。…………私が知る限りノートン以上の誠実な人格者はいない。私は、この世に浮気をしない男は絶対にいないと常々思っているが…………でも、それでもそんな存在がいるのだとしたら、恐らくそれは君なのだろうなと感じるているよ」
それに、ノートンはちょっと笑う。
「……そこまで信じられると、逆に裏切ってしまいたくなりますね?」
「ああ、そうだな。お前は口では確かにそう言うんだよ。でもノートンは口以上に行動が誠実なんだ。他の奴とは正反対でな?」
そう言われ、ノートンは笑うのを止め。驚いたように真っすぐにセオドリックを見つめる。
「……いいから休め。図書館は暖房ももう入っているから、きっと長時間いても過ごしやすいと思うぞ?」
◇◇
図書館はセオドリックの言う通り、暖房空調が既に入れられ、全体に心地よい具合になっていた。
無数に林立する遥かなる本の塔…………と言える真上に見上げる程高い書棚。
ノートンはその本の森へと誘われた。
ローゼナタリアには献本制度があり、毎週沢山の本がここに集う。
しかも、現在のローゼナタリアの文化を正確に把握するため、どんな下らない大衆誌やゴシップ誌、怪しげな都市伝説を扱ったもの……また、ごくごく一部しか知らないような専門の本やマニアックな本や下世話な本さえも献本されそのバラエティは想像以上に豊かで多様だ。
本が元々たいして好きでない者ですらちょっと楽しめる娯楽施設感がある。
それが、ノートンのような無類の本好きともなれば、そこは正に夢の国と言っていいだろう。
ノートンは、セオドリックの仕事は気になってしょうがなかったが、一方でやっぱり胸ときめくのを抑えられなかった。
涼しげな顔を若干上気させ、ノートンは図書館の先へ先へと進む。
「あ!」
早速ノートンは待ち望んでいたシリーズ物の最新刊を見つけ手に取った。
お宝がいきなり見つかるとは実にツいている。
席に座るのさえ惜しくて、ノートンは立ちながら本のページを捲った。
本の文字がするするとノートンの目に吸い込まれ、ジャブンと本の世界にノートンの意識は沈み、今、その世界はノートンだけのものである。
ノートンは結局、その本を読み終えるまで本の世界に没頭していた。
ふうっと、満足感と高揚感と共に本を閉じて、本を元の位置に戻そうとしたその時。
「ふふ、よっぽど面白い本だったみたいですね?」
と、その人の声で話しかけられ、ノートンは弾かれた様に声の方を向いた。
「まあ、ノートンったらその反応、まるで居眠りを注意された子供みたい!」
その声は、やはりその人……ローゼナタリア連合王国タニア王女殿下のその人のものであった。
「た、タニア様!!」
想い人だけに、今は一番会いたくない人物が目の前にいてノートンは焦る。
しかし、タニアの方はいつもと何ら変わりな様子で話しを続けた。
「へえ、何だかとっても面白そうなタイトルの本ですね? 私も次は借りてみようかしら」
とノートンの他にも手にしている本に興味を示す。
「ど、どうして、こちらにおられるのですか?」
ノートンの質問に、タニアは不思議そうに小首を傾げる。
「あら、だって今日は新しい本が沢山、献本されるでしょう?」
と「貴方だって知っているでしょうに?」と語りかけるような瞳と共に彼女はそう言った。
「いえ、新しい本をご所望なら、女官や行儀見習いに足を運ばせるものかと……」
王族自ら足を出向いてること自体にノートンが疑問を示すと、タニアは笑って答える。
「あら? だってそれではこの空間を胸いっぱいに味わえ無いではないですか? この無数に自分の知らない世界に囲まれるこの空間。居るだけでドキドキワクワクして、まるで冒険の旅にでも出るみたいだわ…………! そんな素敵な場所がすぐそこにあるというのに出向かずになどおられますか? ……なんて、大げさかしら?」
そう言い、本当に高鳴る逸る気持ちを抑えきれないように、その黒く引き込まれそうな瞳をキラキラとひたすら輝かせ、タニアは語った。
それにノートンは固まる。
「…………わかります!!」
深い感銘を受け、感動に瞳を震わせる。
まるで、自分の心の代弁者に巡り合えたような喜びに胸が大きく早鐘を打つ。
「でしょ、でしょう!!」
「……はい、全く……その通りです!!」
思わず二人は唯一の理解者に出会えたかのように、胸の前でお互いの手を取り合った。
「本を読むといろんな世界が垣間見えて、自分じゃない誰かになったかの様」
「会ったこともない、見たこともない人物と共感したり、喧嘩したり、時には頭から水を浴びせかけられたり、すでに亡くなった偉人や有名人に出会える」
「知らなかったこと、見た事が無かったもの、信じられないような可笑しなこと!」
「人々の深い想いや強い決心! 勇気や、意外な視点や数々の発見!」
二人は、興奮したように、本への思いをぶつけ合う。
また矢継ぎ早にはなっていた言葉を、一旦息継ぎのために止まった所で、やっと二人はハッといつもの冷静さを取り戻した。しかもずっと手を握り合っていたことにも今さら気付き、慌ててお互いに手を離す。
「し、失礼しました! タニア様……」
「い、いえ、私こそ興奮して何とはしたない……」
しかし、何だかその状況もまた変におかしいことに気付き二人は思わず噴き出す。お互いお腹を抱えて笑った。
そうして、ひとしきりタニアは笑い終えて言う。
「……この時間なら王宮の他の者は少ないから、私もゆっくり図書館を回れるの……せっかく皆ここへ楽しみに来ているのに、私がいたら変に畏まってしまうでしょう? いまは皆が働いている時間だから……これに関しては当に王女の特権ですね?」
そうタニアは言うが、そもそも彼女がただのご令嬢であったなら、下々にそんな配慮をせずに済んだことだろう。
彼女は王女ゆえに極端に自由が少ないのだ。
「私は一応、セオドリック殿下のご申し付けでここへ来たのですが……そうは言いつつも、これは殿下が私に大いに配慮して休憩を下さったようなものでして……」
「ふふふ、お兄様はノートンをそれは頼りにしていますからね。うっかり自分のせいで潰れでもしたら大変だと青くなって、きっとそうしたのですよ? ……この間の媚薬の件も、どうせお兄様がアニエスに下心を出して失敗したというのが関の山でしょう?」
タニアがそう言い笑った。その言葉を聞きノートンは驚きに目を瞠る。
「大丈夫、私はちゃんと解っていますよノートン?」
ノートンは自分が随分とタニアを見くびっていたという……今度は違う恥ずかしさから、サッと自分の顔を赤くした。
「……申し訳ございません」
「まあ、何でそんな謝るの?」
タニアは笑ったが、自分は反省すべきだとノートンは強く感じ、そのまま瞼を伏せる。
「ところで本に詳しいノートンなら分かるかしら? この本が読みたいのだけど、いまいちどこに分類されているのかが解らなくて……自分で探そうとさっきから、うろついていたのよ。どうかしら?」
そう言われてタニア持ってきたメモを見せてもらう。
「……そうですね。これなら東奥の棚かもしれません!」
そのまま二人は、見当をつけた東奥に向かって歩き出した。
東奥に着くと、暫く細かい分類の表示をキョロキョロ探し回り、そこで棚を見上げたタニアが、「あっ」と小さな声を上げ、階段状の踏み台車の上段に上る。
「あった! あったわノートン!!」
「それは良かっ……」
しかし、タニアがその時、振り向き様にうっかりドレスの長い裾を踏みつけバランスを崩し、その華奢な背中から落ちそうになった!
「タニア様!?」
それをノートンは脊髄反射のように飛び出しタニアが落ちそうな寸でで、なんとか彼女が落ちるのを未然に防ぎ、大怪我にならずに済んだ。
……だが、その絶妙な互いの体制は丁度お互いの顔だけが真正面に来る形で……体はとっさに支えることが出来たが、タニアの自分へと向かう頭を止めるには、ノートンの腕が二本では足りなかった。
二人はそのアクシデントで互いの口同士が重なってしまう事態になる。
「「!!」」
二人は、驚き暫く硬直した。
まずノートンが目を覚まし、急いでタニアの身体をゆっくりと押し上げ、重心の落ち着くところにそのタニアの身体を持ちあげる。
「し、失礼を致しました。どうか……お許しください!」
ノートンは、耳まで赤くしている。
「い、いえ、危ない所をありがとう存じますノートン……」
タニアも恥ずかしさから顔を赤くして顔を伏せた。
そして、ノートンのエスコートで踏み台車をタニアが慎重にゆっくりと降りると、丁度奥から「タニア様ー!」という女官長の声が響いた。
それに、タニアは声を上げて応える。
「女官長、私は、こちらですよ! …………そ、それじゃあノートン、迎えも来てしまったし、私はもう行くわね? 本の話が出来てとても楽しかったわ。それではまたね……」
そう言い出入り口へと向かった。
残されたノートンは、出入り口までエスコートすべきだったのかもしれないが、そうしたいのに……まだ体が先程の余韻に縛られ、上手く動き出せなかった。
タニアが女官長と共に図書館から執務室に戻ると、アニエスがタニアの代わりに書類を確認して、それぞれにジャンルや日付けごとに分類し、更に仕事の緊急性の高い低いや、難しさを考慮した内容の重い軽いでわかり易く振り分けている。
「まあアニエス! 助かるわ。ありがとう」
タニアはそれに感嘆の声を上げ、部下で親友の仕事ぶりに感謝した。
「いいえ、ところで良い本はございましたかタニア様?」
そう言いながら、アニエスは窓際に行き一番大きな窓を少し開ける。
「まあ……? どうして、この寒いのに窓を開けるの? アニエス」
それにアニエスは笑う。
「だってタニア様の顔が、ほてって赤くなっておいでなんですもの? 図書館は暖房が入りたてで、どうやら暑かったようですね……ご気分が悪くはございませんか?」
そう返され、タニアは自分の熱くなってる頬に手を当てた。同時に、タニアの脳裏をふとノートンの顔がよぎる。
「……気持ち悪くはなかったわ……嫌でもなかった」
「じゃあ、もう少ししたら閉めますね? どちらにしろ、少しは換気も必要ですから……」
アニエスは朗らかに笑った。
「わあ、でも新しい風は何だか、気持ちがいいですね!」
「ええ……そうかもしれないわ……」
図書館には新しい世界が詰まっている。
またその世界は、ほんの稀に……世界にも大きな変化をもたらすのである。




