政府緊急対策支援物資
今日もヘトヘトになって帰ってきたマンションの入り口はチラチラと騒がしい。
洒落た間接照明も良いけれど、点かなくなった照明を変えてくれないのなら台無しだ。
すっかりルーティンの一部と化してしまった文句を心の中で呟いて、私は郵便受けの中身を持って自分の部屋へと向かった。
ピザ屋のチラシ、電気代の請求書、引っ越しのチラシ、水道の修理連絡先のマグネット。
新規開店らしい、カフェなのか居酒屋なのかわからない近所のお店のチラシをマグネットで冷蔵庫の扉に。
ピザ屋の割引券クーポンも気になるが、今日の主役ではあり得ない。
政府緊急対策支援物資。
郵便受けの口にギリギリ入るか? という厚さの箱がこたつの上に鎮座されている。
「これが緊急対策ねぇ」
御大層に書かれているが、これを手配するのに使った税金は、元々私の支払ったお金である。
こういう時の為に高い税金を納めているので遠慮も感謝もいらないだろう。
手配してくれた公務員には頭が下がるが。
支援物資とやらの包装を開ける。
「なんだこりゃ?」
外出するときにはマスクをするのが義務付けされました。着けないと罰則が適用される事が検討されているという可能性がなきにしもあらず。
いつも通り言質を取られ無いよう書かれた文書と、政府緊急対策支援物資とやらの本体を交互に見ながら、私はため息をついた。
⊂ロ⊃⊂ロ⊃⊂ロ⊃
「オハッ?!」
「おはようございます」
何故か、手に持っていたゴミ袋を落としたお隣さんに、いつも通り明るく聞こえるよう挨拶をしてドアの鍵を締める。
仕方がないじゃないか。
マスクをするのが国民の義務らしいし。
郷に入っては郷に従え。
日本人らしく右にならって私は会社へと向かった。
・・・向かったのだが。
誰も彼もが、殺人鬼でも見るような目で私を見るのは何故か。
私は政府から支給されたマスクを着けているだけなのだが。
解せぬ、なぁ。
世間の人の不思議を感じながら私は歩く。
⊂ロ⊃⊂ロ⊃⊂ロ⊃
「おお。君にも支給されたのかね」
「あ、社長。おはようございます」
何故だろう? 仏のような社長だが、今日はまるで大仏のように見える。
金色に輝いているようだ。
「七百五十万枚確保で、供給が二百五十万枚と聞いた時には不安だったが、蓋を開けてみればちゃんともらえるんだな」
社長が満足気に政府をほめる。
「どうだ? マスクもきたし。今日、一杯?」
「はい。御一緒させて下さい」
あまり人の多いところには行かないでと言われているが、たまには良いだろう。
商店の売上が落ちているらしいし、何て言ったってこちらには政府緊急対策支援物資がついているのだ。
久しぶりのただ酒に気を良くして私は自分の部に入る。
「ギヤァァァあ、って部長ですか?」
誰だこいつは?
ぶっとい下がり眉毛にドングリ眼。
うちの部にこんなやついたかな?
「え、ああ。これですか? 政府緊急対策支援物資ってやつです。昨日届いてました」
なんだ新人君か。
支給されているマスクには色々なタイプがあるようだ。
ズレていたマスクをつけ直して手探りで歩く新人君を横目に、私は自分のデスクに座る。
あ、危ない。危ないぞ新人君。
その先には・・・。
「きゃぁぁぁ!」
パアァァンっといい音が新人君の左頬から響く。
「な、な! いきなり、ム 胸を・・・」
ヤバイ。もう一発入りそうだ。
仕方がないじゃないか。
今の新人君は前が見辛い。
何せ、マスクの前に目がついているのだ。
私は急いで女子社員を止めに入った。
⊂ロ⊃⊂ロ⊃⊂ロ⊃
「助かりました部長」
「もういいよ」
話題が無いのかさっきの件のお礼を言い続ける新人君と取引先の会社へ。
今日は定期的に結んでいる契約の更新日だ。
まだ、先の見えない新人君だが、契約のやり方をおぼえるにはちょうど良いだろう。
契約の結び方を確認したところで相手先の会社に着いた。
おかしい。
これは、何かが変だ。
受付嬢が私を見て悲鳴をあげるのは想定内だが、取引担当の彼が契約内容を見直せとぐいぐい新人君に迫る。
いつも朗らかな彼なのだが・・・。
着けているマスクのせいか、まるで普段の明るさが見てとれない。
プー、ハー。とくぐもった呼吸音と。
空耳だろうが、ちゃんちゃかちゃんちゃかちゃんちゃかちゃんと、アノ帝国のテーマソングも聞こえてくる。
これは不味い。
新人君には荷が重いので私がかわりに交渉に入る。
見えない赤い光剣とチェーンソーが火花を散らす。
いや、彼は作中チェーンソー使って無いけどね。
今日のところは契約の内容変更は保留となった。
私は結構、担当者の彼を圧倒していたのだが。
形勢不利と感じ取った彼が自分の上司に内線をかけたのだ。
響きわたる白いリングのジャングル曲。
さすがの私も虎まで相手にはできない。
「持ち帰ります」とだけ伝えて早々に退散した。
「ダメでしたね」
キリッと吊り上げた眉毛に燃える瞳の新人君が元気無く私に話しかける。
トイレに行ったついでにマスクを代えたようだ。
それは交渉に入る前に代えた方が良いのではなかったかな?
私はやはり、先の見えていない新人君に隠してため息をもらした。
⊂ロ⊃⊂ロ⊃⊂ロ⊃
それにしても、ますく マスク 覆面 mask。
「こんだけ人が顔を隠しているのを見るのは大学生の時代以来だよ」
仏の社長にそんな過去が。
久しぶりの飲みで上機嫌になった上司の意外な過去に驚く。
「最近、こんなに御客がくるの、珍しいのよぅ」
政府緊急対策支援物資は効果を発揮しているようだ。
予想外の人出に酔ったような声で、伝統を感じさせる美人がサービスなのか濃いめの水割りを作ってくれた。
感染対策でカウンターの彼方から滑ってきたグラスをこぼさないように受けとる。
いつものなじみの接客のお姉さんなのだが、顔を見ると般若の面は変身途中でまだ変身を一回残しているというマメ知識が浮かんでくる。
何でだろうと考えていると社長がウトウトし始めた。
日本の人口は一億二千万人だったか?
一億二千万のマスクが一日ごとに使い捨て。
もっと良い方法は無いのかな。
酔った社長をタクシーに乗せる時に飛んできた白い四角に哀愁を感じて、私は家へと戻った。
⊂ロ⊃⊂ロ⊃⊂ロ⊃
「繰り返します。政府はマスクを配っていません。政府はまだマスクの配布をできていません」
つけたテレビがわけのわからない事を言っている。
なら、今日一日着けていたこのマスクは幻だろうか?
「しかし、これは悪質なイタズラですね」
コメンテイターが、昨日自分の家にも届いたという偽物の政府緊急対策支援物資の箱を叩く。
「マスクって名前がつけば何でも良いわけじゃ無いんですよ」
字幕でナントカ医科大学教授と紹介された男性が箱を乱暴に開ける。
「では、これは効果が無いのですね?」
アナウンサーが箱から出てきた、当たりと書かいてある使い捨ての手術用マスクを持ち上げる。
「いや、それはあります」
「え? イタズラなんですよね?」
「イタズラだけどさ」
「結局、効果はあるんですか無いんですか!」
「見りゃわかるだろバカ!」
「バカって言ったか?」
「中身を確認しとけよ!」
「政府がしっかり・・・」
あ~あ。
マスク一つでぐだぐだになった番組を見ながら私は今日一日付き合った相棒に話しかける。
「偽物ってみんな知ってたよな? でも、まあ、ツバが飛ばなきゃいいんだろ?」
ホラー映画で有名なマスクは答えない。
が、OKと言った気がした。
フィクションだから。
真似しちゃヤーヨ。