88 ここは聖地だそうですが
「な……っ」
レオは思いっきり顰めっ面をして、一歩後ろに後ずさった。
「あんた、大人の癖になに考えてるんだ?」
まるで人に懐かない野良猫のようだ。
いまにも唸り声をあげそうな雰囲気で、上目遣いにリーシェを睨んでくる。
「ガルクハインの皇太子妃が、教団の禁忌を破って良いのかよ」
「私が立ち入り禁止の森に入ったことを知るのは、同じくその森に入った人だけだもの」
「っ、それは……」
「私は悪い大人だから、苔がついているのを指摘されたってしらを切るわ」
微笑みのままそう告げると、レオは悔しそうに舌打ちした。
「……案内したら、俺がこの森に入ったことを黙っていてくれますか」
「案内してくれなくても、秘密にしておくから安心して」
そう告げると、レオの目が丸くなる。
「けれど、連れて行ってくれると嬉しいわ。もうすぐ日没だし、遅くなる前に帰らないと、旦那さまになる方に叱られてしまうから」
「……」
レオはむすっとくちびるを曲げたあと、踵を返して歩き始めた。
「ありがとう」とお礼を言って、リーシェは彼の後をついていく。
(騎士人生で出会ったレオだったら、絶対に案内してくれなかったわね……)
恐らくは一言も発さないまま、綺麗に無視されて終わりだっただろう。
それなりに言葉を交わすようになった時期だとしても、『どうして俺があんたに付き合わなきゃいけないんだ。消えろ』だとか、『第一部隊が起こす騒動に巻き込むな』だとか、そんな言葉を返されていたはずだ。
(森歩きは久しぶりだわ。念のため歩幅を一定にして、歩数を数えながら歩かないと)
こうすることで、出発地点からの大まかな距離を図ることが出来る。
目印のない森や山の中を歩くときは、自分の居場所を把握することが大切だ。
レオとリーシェの歩く速度は、どうやらほとんど同じだった。リーシェは指を折って自分の歩数を数えつつ、レオの背中に話しかけてみる。
「あなたの名前は、さっきジョーナル閣下からお聞きしたの。私はリーシェよ、よろしくね」
「……」
「たまたま空き時間が出来たから、大神殿の周りを散策したくて。たまたまあなたが通り掛かってくれてよかったわ!」
「……」
「でも、こんなところで何をしていたの?」
「……ミリアお嬢さまが、騒動を起こしていたようなので」
ようやく口を開いたレオは、素っ気ない態度でこう続ける。
「誰も探しにこない場所でサボってました。近付いて、厄介ごとに巻き込まれるのは御免だ」
(これ、騎士人生で何度もレオに言われた台詞だわ……)
やはりこの少年は、リーシェが知るレオと同一人物なのだ。
苦笑しつつも、ふと新たな疑問が湧いた。
「それにしても、レオは大神殿への立ち入りを許可されているのね。もうすぐ祭典の時期だから、最低限の人数しか神殿に立ち入れないと聞いていたのだけれど」
「……旦那さまが気を遣って下さっただけです」
「どういうこと?」
「俺は、この近くの孤児院で育ちましたから」
それは初めて聞く話だ。
(公爵閣下は、レオの里帰りも兼ねて、大神殿に同行させたということかしら)
いまの時期、大神殿に使用人を連れて行くには、かなり込み入った手続きが必要だと聞いている。
本来ならば、いまは巫女姫が滞在しているはずであり、出入りする人間の身元証明が徹底的に求められるそうだ。
リーシェは侍女たちをガルクハインに残してきたし、アルノルトも従者のオリヴァーだけを同行させている。
道中に護衛をしてくれた騎士たちは、大神殿に近い町で待機していた。
(色々と、気になることはあるけれど)
リーシェは辺りを見回した。
「……」
夕焼けの赤色に染まった光が、森の中を照らしている。
背の低い雑草が生い茂り、そのおかげで獣道がはっきりと見えた。そこから少し外れた場所の木に、小さな傷がついている。
掻き分けられた雑草の跡や、木に絡まった動物の毛。
そういったものを眺めながら、リーシェは考えを巡らせた。
「……ここから先は、俺の足跡を踏みながら歩いてください」
「あら、どうして?」
「雑草の中に毒蛇の巣があるかもしれないので。あんたが蛇に噛まれでもしたら、騒ぎになって森に入ったのがバレる」
「ありがとう。でも、心配には及ばないわ」
立ち止まり、小さな背中に微笑んで告げた。
「――ここまで来れば、ひとりで大丈夫だもの」
「……は?」
レオがすぐさま振り返る。その目は丸く見開かれていて、得体の知れない生き物を見るかのようだ。
「案内をしてくれてありがとう。あとは私だけで進むから、レオは先に神殿へ戻っていて」
「……」
横髪を耳に掛けながらそう告げると、レオの警戒心が強まるのが分かった。
「あんた、本当に何を考えてる?」
「そんな顔をされるようなことは何も。ただ、これ以上付き合ってもらうのも悪いでしょう?」
「俺も残ります」
思わぬ言葉に、リーシェは瞬きをする。
「もうすぐ完全に陽が沈むし、森の中でひとり残るのは危険なので。あんたに万が一のことがあったら、俺が疑われて罰を受ける」
リーシェの脳裏に、眼帯をしたレオの姿が過ぎった。
「……あなたのご主人さまは、そんな人には見えないけれど」
「とにかく俺も残ります。なにかこの森で見たいものがあるなら、さっさとしてください」
「いいの? では、そうさせてもらうわね」
「あっ!」
リーシェが一歩踏み出すと、レオが慌てたように声を上げた。
彼が驚いたのは、リーシェがレオの足跡を外れ、森の中をどんどん進み始めたからだろう。
「待て! だから、下手に歩くと毒蛇の巣があって危ないって言ってるでしょう!」
「この大陸に生息する蛇は、毒があっても臆病なの。人を見付けたら逃げていくし、話し声が聞こえている中で巣穴から頭を出すこともないわ」
「たとえそうでも、万が一ってことがあるだろ!?」
「いいえ。どちらかというと、蛇よりも危ないのは……」
幹に傷のついた大木の前で、ぴたりと立ち止まった。
追いかけて来たレオも、すぐ後ろで足を止める。
リーシェは落ちていた枝を拾うと、その枝で雑草を掻き分けるようにして、傷のある木の周りを調べ始めた。
そして、想像していた通りのものを見つける。
「……やっぱり」
落ち葉と雑草で隠された地面の上には、金属製の罠が仕込まれていた。
半月型をした金属板が二枚重なり、その内側にぎざぎざと尖った牙のついた形状だ。
獲物がこの罠に掛かったら、獲物の足へ噛み付くような形になるのだろう。
「……あんた、ここに罠が仕掛けられているって、どうして分かったんだ?」
「木の幹に目印がついていたわ。こういうときは、罠の場所が分からなくならないよう、人間だけに分かる印がついているものなの」
屈み込み、罠の状態を観察する。金属製の獰猛な牙は、その表面が虹色に光っていた。
ハンカチを取り出して、罠を作動させないように注意しながら表面を拭う。そしてまず、鼻を近づけてみた。
(……鉄臭い。それに、表面に塗られているこの液体……)
立ち上がり、もうひとつ手近にあった木の幹に近付く。
こちらの罠が何なのかは、調べてみるまでもなかった。
限界まで腕を伸ばし、手にした枝で地面をぐっと押すと、弾くような手応えのあとに地面が消える。
「落とし穴が……」
「危ないから、レオは離れていてね」
そう言いながら、先ほどハンカチと一緒に取り出したロープを手にした。
ロープの片端を真上に放り、その先端に結ばれた鉤を木に引っ掛ける。
ぐっと引き、安定性を確かめたあとで、そのロープを片手で掴んだまま落とし穴を覗き込んだ。
(直径は一メートルほどの穴だけど、深さは……これも一メートルくらいね。底の方に逆茂木が仕掛けてあるけれど)
落ち葉の中からは、尖った金属の杭が覗いている。
リーシェはロープを支えにしつつ、穴の底まで手を伸ばして、杭の先をハンカチでごしごしと拭った。
(こっちの罠も同じ。金属の臭いが強いのに、それに負けないほど香りのきつい薬だわ。この香りは、何度か嗅いだことがある……)
確信が、ぽつりと口をついて出る。
「……毒が塗られているわ」
すると、レオが顔を顰めた。
「それって獲物を仕留めるための? 立ち入り禁止の森なのに、どうして猟師が使うような罠なんか……」
「立ち入り禁止の森だからこそ、誰かがそれを逆手に取って、罠を仕掛けに出入りしているのかもしれないわね」
「……そしてあんたはなんで、せっせと針山をハンカチで拭ってるんですか」
「この辺りの狩人が使っている毒に興味があるの。サンプルは見つけた時に採取しておかないと、後回しにしたら大変だから」
きちんと理由を説明したのに、レオはますます難しい顔になる。
「どうかした? レオ」
リーシェが首をかしげると、彼は重たげな口をゆっくりと開いた。
「……俺、聞いたことがあります。王族や貴族の中には、暗殺から逃れるために、自分とよく似た身代わりを立てている人がいるんだって」
「あまり知られていないけれど、確かにそういう国もあるわね。それがどうかしたの?」
「あんたに身代わりは向いてない」
「え」
レオはリーシェのことを見上げたあと、大真面目な顔でこう言う。
「別の仕事を探した方がいいと思う。――おかしな言動で、皇太子妃の偽物だってすぐバレるから」
「………………」
レオからの親切な助言に対し、リーシェはとても返答に困り、しばらくのあいだ頭を悩ませることになるのだった。