87 気掛かりな相手に接近します
アルノルトの背中を見送ったあと、リーシェはふうっと息を吐き出す。
頬の火照りを覚ますため、幾度か深呼吸を繰り返していると、今度はバルコニーに修道士がやってきた。
「リーシェさま、大変申し訳ございません。休憩のために儀式を中断しておりましたが、再開までにもう少々時間がかかりそうでして」
申し訳なさそうな修道士の顔を見て、リーシェは首を傾げる。
「そんなことでしたらお気になさらず。ですが、何かあったのですか?」
「そ、それが……」
修道士は眉を下げ、困り切った声音でこう言った。
「……巫女姫代理のお嬢さまが、お部屋に立て籠もってしまわれたと……」
「……」
***
儀式のための聖堂を離れたリーシェは、ひとりで中庭を歩いていた。
『――ミリアさまはどうやら、我々が祭典のために準備した衣装がお気に召さなかったようで』
先ほどの修道士は、肩を落としながらこう話したのだ。
『現在、当教会でミリアさまと面識のある司教が、ジョーナル公爵と一緒に扉の前で説得をしているのです。……明日の朝までに衣装の調整をしませんと、祭典に間に合わず』
そのため、ミリアの部屋の前は大騒ぎになっているのだという。
リーシェの儀式を担当していた司教は、ミリアと面識があるうちのひとりだったため、説得の中に加わっているそうだ。
リーシェは儀式の延期を申し出たあと、ミリアが閉じこもっているという部屋の場所を尋ねた。
ただし、公爵たちが集まっているという廊下の方には向かわずに、客室棟の裏手に続く中庭を歩いている。とある思惑があってのことだが、途中で思わぬものを見つけた。
(小さな足跡が、ひとつだけ残っているわ)
足跡のつまさきは、大神殿の外側をぐるりと囲む森に続いていた。足跡の主は、どうやらそちらに向かったようだ。
(……ここに到着した後、『大神殿を囲む森は、聖域のために立ち入りが禁じられている』と説明を受けたけれど……)
注視してみるものの、形からして男の子用の靴らしい。ひとまずその足跡を素通りしたリーシェは、到着した客室棟を見上げてみる。
ちょうどそのとき、三階の一番東にある窓際から、聞き慣れた声が響き渡った。
「私は!! ピンク色のドレスしか、祭典で着ないのーーーーっ!!」
「……」
中庭の木々に止まった鳥たちが、驚いて一斉に飛び去ってゆく。続いて聞こえてきたのは、公爵の声だ。
「ミリア!! 何度言ったら分かるんだ、聞き分けなさい!!」
(よかった。おふたりともお元気そうだわ)
父と娘の言い争いに、ひとまずは胸を撫で下ろす。
大きな怪我がなかったとはいえ、馬車の滑落があった後だ。精神的な消耗を心配していたが、声の張りを聞く限りは問題なさそうだった。
窓は開け放たれており、カーテンも閉ざされていない。
リーシェのいる位置からは、扉を睨みつけるように立っているミリアの後ろ姿が見える。
(扉の向こうには、本当に大勢が詰めかけているみたいね。……これだとミリアお嬢さまは、ますます頑なになってしまうわ)
リーシェは辺りを見回して、誰も人の気配がないことを確かめた。
そして、中庭に立ち並ぶ木のうち、ミリアの部屋に近い一本を見上げる。
「……」
ドレスの裾をするりと捲ると、太ももに取り付けていた短剣が露になった。
その短剣は素通りして、固定するためのベルトに指を伸ばす。このベルトの留め具には、先端に鉤のついた細いロープが束ねられ、結ばれているのだ。
(――さて)
見上げた窓からは、依然としてミリアの声が響いていた。
「どうしてパパは分かってくれないの!? さっきの馬車だって、私の不思議な力でああなったのよ!!」
「馬鹿なことを言うんじゃない。あれは車輪の故障であり、事故なんだ!」
「違うもの、私の力の所為だもの!! だから私のお願いを聞いてくれないと、また大変なことになるんだから!」
「ミリア……」
「もう、全員早く扉の前からいなくなって!! じゃないとまた……っ」
ミリアの声がぴたりと止まった。
何かの気配を感じたのか、窓の方を振り返った彼女は、信じられないものを見るような表情で硬直する。
「ふえ……っ、え、えええ……っ!?」
窓枠から室内へと降り立ったリーシェは、ミリアに向かってにこりと微笑んだ。
「――こんにちは、ミリアさま」
乱れたドレスの裾を直し、鉤つきロープを手の中に手繰る。髪に絡まった葉っぱに気付き、手で梳きながら取り払った。
窓から現れたリーシェを見て、ミリアははくはくと口を開閉させる。
「ミリア? ミリア、どうしたんだ?」
「な、なんでもないわ!!」
公爵の呼びかけに、ミリアは慌てて返事をした。それからリーシェを振り返ると、動揺を隠しきれない小声で問い掛けてくる。
「あっ、あなた、どうしてここに……!? 三階なのに、どうやって窓から……!」
「それは秘密です。ほかの皆さまにも、私が来たことは内緒にしていてくださいね?」
くちびるの前に指を立てつつ、リーシェは微笑みを深くした。
ミリアは瞳をまんまるくして、それから神妙な顔つきになる。
「……やっぱりあなたも、私と同じで不思議な力を持っているのね」
(そうではないですが、お嬢さまが真似をなさると危ないので……)
内情はそっと伏せつつも、リーシェはミリアの前にしゃがみ込む。
「ミリアさま。祭典のドレスについて、どのようなご不満があるのですか? あちらに掛けてある白のドレスだって、とってもお可愛らしいのに」
「……」
ミリアは一度俯いたものの、やがてぽつりと言葉を紡いだ。
「私のママは、亡くなっているの」
「……はい」
小さくて細いミリアの指が、ふわふわした菫色の髪を摘み、毛先をくるくると弄り始める。
「『ミリアは我が家のお姫さまだから、お姫さまみたいなピンク色のドレスがよく似合う』って言ってくれていたわ。だから私、巫女姫さまの代理をするなら、ママが似合うって言ってくれたピンクのドレスが良い」
「……」
その説明を聞いて、そっと目を伏せる。
(――お嬢さまは、嘘をついていらっしゃる)
リーシェはそれを知っている。
指先に髪の毛を巻きつけるのは、ミリアが嘘をつくときの癖だ。
とはいえ、亡くなったミリアの母親が、愛娘にピンク色のドレスをたくさん着せていたのは事実だとも知っていた。
(ピンク色のドレスを着たいのは、きっと本当。だけど、それを我が儘の理由として挙げていらっしゃるのは嘘。でも、そうだとしたら、その嘘は一体なんのため?)
考えつつも、リーシェは口を開く。
「それではミリアさま。この白いドレスを、後ほどピンク色に変えてしまいましょうか」
「え……!?」
予想外の提案だったのか、蜂蜜色の瞳が大きく見開かれた。
「ま、魔法? やっぱり魔法なの?」
「魔法ではありません。けれども染料を用意して、好きな色に染めてしまうのです」
「染める……」
「見たところ、濡れても縮まない布のようですし。仕立ての最終調整だけ終わらせたら、出来上がったドレスを自分の手でアレンジすることが出来るでしょう? 白いドレスをピンクに変えて、たとえばお花の飾りをつけて」
「……!!」
きらきらと目を輝かせるミリアを見ると、可愛くて仕方がない心境になる。リーシェは頬を緩めつつ、彼女に説いた。
「とっても楽しい作業ですが、同時に時間が掛かることでもあります。今日のうちに調整を終わらせてしまわないと、祭典に間に合わせることは難しいかと」
「や、やるわ! いますぐに! ……あっ」
思わず返事をしてしまったらしいミリアが、慌てたように自分の口を両手で塞ぐ。リーシェはくすくす笑いつつも、そっと立ち上がった。
「それではどうか扉を開けて、お父君にお顔を見せてあげてください。……その前に、少しの間目を瞑っていただけると」
「?」
ミリアが両目を閉じるのを待ち、リーシェは窓辺に歩み寄る。
ここから下に『降りる』のは、登ってくるよりもずっと早くて簡単だ。
しばらくして、中庭の地面に到着したリーシェは、自分が出てきた窓へと声を投げた。
「――もう、目を開けてもいいですよ!」
「う、嘘……!!」
ミリアが窓からこちらを見下ろす。リーシェは再び人差し指を立て、自分のくちびるに当てた。
こくこくと頷くかつての主を眺め、丁寧に一礼をしてから、来た道を引き返して歩き出す。
(お嬢さまのことや、アルノルト殿下のことを調べるのはもちろんだけれど。『もうひとり』のことについても、今世で捨て置けないわ)
辺りの気配を探ったリーシェは、木々の影からそっと森の方へ歩みを向けた。
(前の人生でここに来たときも、森は『聖地』だと説明されたわ。だけどそのとき、立ち入り禁止だなんて話は出ていないはず)
薄く残された足跡は、小さな子供のものだった。
靴の形が少年用なので、これはミリアの足跡ではない。そして痕跡を調べれば、数時間以内についたばかりの新しいものだと分かる。
(これだけなら、それほど重要視する事柄ではないかもしれないけれど……立ち入り禁止の森に、気掛かりな人物が出入りしているのだとしたら、無視することは出来ないわよね)
これまでさくさくと歩いていたリーシェだが、森の入り口に差し掛かる前に、自分の足音を消すことにした。
慎重に気配を殺し、物音を立てないままに歩を進める。
そうすると、夕暮れの森に人の気配があった。ごくごく小さな足音が、リーシェの方に近づいてくる。
「こんにちは、レオ」
「うわっ!?」
リーシェが彼に声をかけると、レオは短い悲鳴を上げた。あどけない目を見開いて、リーシェのことを見つめる。
「……あんた、ガルクハインの皇太子とさっき一緒にいた……」
(声を掛けただけでこんなに驚かれるのは、これで今日二回目ね)
そんなことを思いながら、リーシェはレオに微笑みを向ける。レオは、警戒心に満ちた目でリーシェのことを見据えた。
「この先の森は、立ち入り禁止ですよ」
「知っているわ。……そして、そこにあなたが出入りしていることも」
「誤解です。俺はただ、旦那さまのお部屋に飾る花を探しに来て、ここで引き返そうとしただけだ」
十一歳という年齢に似合わず、レオの物言いは素っ気ない。
けれど、騎士人生で出会った傷だらけの彼よりは、振る舞いに棘がなくて柔らかかった。そんなレオの小さな頭を見下ろしながら、リーシェは告げる。
「あなたのズボンの裾に、ザオット苔の切れ端がついているでしょう?」
「!」
「その苔は、陽の当たらない場所にしか生息しないものだわ。たとえば、森の中とか」
レオがぐっと眉根を寄せた。そのあとで、面倒臭そうに顔を背ける。
「説教をするつもりですか。それとも、俺を教団に突き出す?」
「そんなことはしないけれど、私を案内してほしいの」
「……案内って、どこへ」
「それは当然」
リーシェはにっこり笑いながら、レオが歩いてきた方向へと指を差す。
「立ち入り禁止の、あの森に」