82 かつての主君をあやします
四度目の人生で、リーシェが公爵令嬢ミリア・クラリッサ・ジョーナルに仕え始めるのは、いまから一年半ほど後のことである。
ドマナ王国の侯爵家で働き、幼くやんちゃな子息たちと仲良くなっていたリーシェは、『ジョーナル公爵家でも同じような働きをしてほしい』と頼まれた。そして向かったジョーナル家で、十一歳のミリアと出会ったのだ。
ミリアはとても気難しくて、他の侍女たちからも遠巻きにされていた。
彼女の父である公爵は、昔罹った病のせいで体に麻痺があり、体調を崩しがちな人でもあった。
あまり一緒にいられない娘を気遣い、けれどもそのやり方が上手くなくて、ミリアの我が儘に対処が出来なくなっていたのである。
侍女長はリーシェが到着するなり、第一声で『あなたもミリアお嬢さまには気をつけなさい。とても扱いが難しい、困ったお方なのよ』と言い放った。
(でも……)
七回目の人生で、ミリアと二度目の初対面を果たしたリーシェは、腰にぎゅうっと抱きついている彼女のつむじを見下ろす。
するとミリアの馬車からは、困り果てた顔の男性が降りてきた。
「ミリア、ご迷惑だろう!」
(ジョーナル閣下……)
四十代くらいの男性が、慌てた様子でこちらに歩いてくる。
金髪を後ろに撫で付け、口髭を綺麗に整えた男性は、リーシェのかつての主人だった。だが、リーシェの記憶とは違い、いまの彼は杖をついていない。
(ジョーナル閣下は、ずっと昔に病を患ったと聞いていたのに)
実際は、体に麻痺が出たのは今から一年半以内のことだったらしい。
彼はリーシェたちの傍まで来ると、まずは礼儀正しく頭を下げた。
「申し訳ございませんお嬢さん。娘がご迷惑をお掛けして……ほら、離れなさい!!」
「嫌よ、嫌ーっ!!」
ミリアは力一杯叫ぶと、ぎゅうぎゅうと腕の力を強くする。そして、見知らぬ相手であるはずのリーシェに顔を埋めた。
「ミリア!」
「だってパパなんか嫌いだもの!! 私のお願いを聞いてくれないし、それなのに叱るし!! この人たちに迷惑を掛けるのは、全部パパが意地悪なせいなんだから!!」
ミリアがそう叫ぶと、アルノルトが眉根を寄せた。
リーシェは、彼が動こうとするのを視線で制した後、ミリアの小さなつむじに話しかける。
「……お嬢さま」
「話し掛けないでっ、あなたもパパの味方をするのでしょう!? 初めて会って何も知らないくせに、私の話も聞いてないのに!」
「お嬢さま。どうかこちらをご覧ください」
「っ、なんですの、一体……!!」
苛立ったように顔を上げたミリアが、次の瞬間に息を呑む。
「……?」
リーシェが彼女の上に広げたのは、仕込んでおいたハンカチだ。
白いレースのそれを見せると、ミリアは『訳が分からない』という顔をした。
その一瞬の困惑を狙い、リーシェはハンカチを右手の中に丸めてしまう。
握り込んだ手に左手を重ね、その手の甲に軽くちゅっと口付けたあと、一拍置いて両手を開いた。
「……え……っ!?」
手の中に仕舞ったハンカチは、跡形もなく消えている。
代わりに現れたのは、小さな熊のぬいぐるみだ。
使用人や騎士たちが、驚いてざわめく。しかし、それを目の前で見ていたミリアは、誰よりも驚いたようだった。
「まっ、まっ、まほう……!?」
ミリアの頬が赤く染まり、大きな目がきらきらと輝く。リーシェはくすっと微笑んで、彼女に告げた。
「いいえ、お嬢さま。これは『奇術』というものです。お近づきの印に」
「い、いいの!?」
「もちろんです」
ぬいぐるみを差し出すと、頑なだったミリアの両手が解けてゆく。
リーシェはその場にしゃがみこむと、ミリアより下の目線から挨拶をした。
「私はリーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します。お嬢さまのお名前は?」
「……私はミリア・クラリッサ・ジョーナル。パパの娘で、十歳よ」
「では、ミリアさま」
今回の人生で、彼女を『お嬢さま』と呼び続けることは出来ない。
リーシェは、少しだけ寂しい気持ちで微笑むと、このために準備していたぬいぐるみを彼女に渡す。
「お気に召すと嬉しいのですが」
「あ、あう」
恥ずかしがるように眉を下げたミリアは、それでもぬいぐるみを両手で包み、視線を逸らしながらこう言った。
「あり、がとう……」
「驚いた。まさかミリアが、あんなに大人しくなるとは」
父親であるジョーナルが、信じられないものを見るような視線を向けてくる。
だが、リーシェはこう考えていた。
(ミリアお嬢さまは、本当は素直で良い子だもの)
十一歳のミリアに出会い、その世話役を任されたリーシェは、年齢よりもあどけない彼女のことをずっと見てきた。
一緒に花壇で花を育て、森の散歩をし、雷の夜は同じ寝台で眠る。
勉強を嫌がる彼女のため、リーシェも一緒に教本へ向かって、たくさんの時間を一緒に過ごした。
そして、ミリアがいまのリーシェと同じ、十五歳になったとき。
ミリアは教会で婚姻の儀を結び、幸せそうな花嫁になるのである。
(けれども、あの日)
リーシェは静かに立ち上がり、そっと目を瞑る。
(――ミリアさまの婚姻の儀を終えた場に、ガルクハイン国の軍勢が攻め込んできた)
そしてリーシェは殺された。
侍女でありながら、ミリアの姉同然の身として参列を許されたリーシェは、ガルクハイン軍が雪崩れ込んだ教会にいたのだ。
そして、火を放たれた教会からミリアたちを逃し、そのまま命を落としたのである。
(そういえば、私が死んだあの教会に、アルノルト殿下はいらしたのかしら)
ふと気になって、傍らのアルノルトを見上げた。
アルノルトは、リーシェとミリアのやりとりを淡々と眺めていたようだが、リーシェが振り返ったために視線が重なる。
(……きっと、いらしていたわね)
そしてアルノルトが命じたのだ。
あの美しい神殿に火を放ち、中にいる人間を殺すように言い放った。
「……」
リーシェはそっと目を伏せて、気づかれないように深呼吸をする。
それから顔を上げ、婚約者の名を呼んだ。
「アルノルト殿下」
「……なんだ」
そうして彼の傍に歩み寄り、小さな声で抗議をした。
「――先ほど、私が奇術を使った際に、仕掛けの辺りをじっと注視なさっていたでしょう!」
「……」
するとアルノルトは、ふいっとそっぽを向いてこう答えた。
「仕方がないだろう。右手に周囲の視線を集めるように誘導していたが、左手が明らかに不自然な動きをしていた」
「普通の人は、ちゃんと右手の方に集中してくれるはずなんです。たとえ気が付いたからといって、そこは受け流していただかなければ」
「……そんなことより、いまのは前もってドレスの袖に仕込みをしておく必要があっただろう。随分と用意周到じゃないか」
「……」
今度はリーシェがそっぽを向きたくなったが、怪しまれないように堂々と見上げる。
「本当はアルノルト殿下にお披露目しようとしていたんです。馬車の道中、お仕事の休憩のときにでも」
「ほう? まさかお前は、俺の前に熊のぬいぐるみを出す気だったとでも言うのか」
「……ふわふわで、癒されるかと思いまして」
「っ、は」
アルノルトはそこで、おかしそうに笑った。
それがびっくりするほどに穏やかな笑い方だったので、リーシェは目を丸くする。
「まあいい。そういうことにしておいてやる」
「……本当は、神殿に小さな子供がいたら、その子たちに見せたくて練習していたのですけど!」
「そうか。それは残念だな」
何が残念なのかは分からないが、そういうことにしておく。でなければ、アルノルトの言う通り、怪しすぎるからだ。
(ミリアお嬢さまには、大神殿かその道中かでお会いできる算段だったのよね。まさかアルノルト殿下も、私が最初からミリアお嬢さまに鉢合わせるつもりだったとは思わないでしょうけれど……問題は、ミリアお嬢さまたちの方だわ)
リーシェは振り返り、先ほどよりは落ち着いた父娘のやりとりを見遣る。
「ミリア、聞き分けなさい。ここから大神殿まではそれほど遠くない、白い馬車でも構わないだろう」
「だって、よく見たら白なんて子供っぽいもの! 私は祭典で巫女姫さまの代理に選ばれたのよ!? だったら、それに似合う馬車じゃないと恥ずかしいわ!」
周囲では、ジョーナル家の使用人や侍女たちが、はらはらとした顔で見守っていた。
その中にリーシェの知る顔ぶれは、ひとりも入っていないようだ。
(……やっぱり変ね)
リーシェはなんとなく、違和感を覚えた。
(ミリアお嬢さまは、いくらなんでもこんなに我が儘では無かったはず。お勉強が嫌だったり、おやつに甘いものが食べたいと駄々を捏ねることがあっても、『馬車の色が気に入らない』なんてどうにもならない無茶は仰らなかった。……私が知る十一歳になられる前は、このくらいだったのかもしれないけれど)
ジョーナル公爵にも目を向ける。
『昔から体調が悪かった』と聞いていたかつての主人だが、いまのリーシェが見る限り、彼は至って健康体だ。少々疲れが見えるものの、それは馬車による移動と、娘の癇癪に手を焼いた末のものだろう。
公爵は深い溜め息をついたあと、改めてリーシェとアルノルトに頭を下げた。
「ご挨拶が遅れました。私はドマナ聖王国にて公爵位を拝領しております、ヨーゼフ・エーレンフリート・ジョーナルと申します。娘がご迷惑をお掛けしてしまい」
その次に彼は、アルノルトの馬車に描かれたガルクハイン国の紋章に目を向ける。
「もしや皆さまは、ガルクハイン皇族の方々でしょうか」
アルノルトは短く息を吐き出し、皇太子としての挨拶を述べた。
「アルノルト・ハインだ。貴公には、父帝が世話になっているのだったな」
「――……」
公爵が、僅かに息を呑んだような気がした。
巧妙に隠したようだが、リーシェにははっきりと動揺が分かる。恐らくは、アルノルトもそれを察しただろう。
「皇太子殿下であらせられたとは。であればこちらのお嬢さんは、この度婚約なさったという御令嬢でしたか。重ね重ね、我が娘のご無礼をお許しください」
「……妻が許すと言うのであれば」
「もちろん問題ございませんわ。こんな可愛らしいお嬢さまにお会い出来たのですから」
リーシェはにっこり微笑んだ後、ミリアの方に歩み寄った。
アルノルトとジョーナル公爵は、そのまま儀礼的な挨拶を続けている。その隙にリーシェはしゃがみこみ、ミリアにそっと微笑みかけた。
「ミリアさま。どうしてそのように、お父さまと喧嘩をなさるのです?」
「私は巫女姫さまの代理なのに、パパは分かってくれないの。祭典までもうすぐなのだし、私がきちんとしなければ、お亡くなりになった本物の巫女姫さまや女神さまに恥ずかしいわ!」
「まあ。それでは次の祭典は、ミリアさまが巫女姫さま役を務められるのですね」
本当はすべて知っているのだが、初めて聞いたふりをしてリーシェは頷く。
クルシェード教では、信仰対象である女神のための祭典が開かれる。
その祭典には通常ならば、女神の血を引くと言われる『巫女』の女性が臨み、女神に祈りを捧げるのだ。
教会は、その巫女を代々とても大切にしてきた。
しかし二十二年も前に、先代巫女姫が事故で命を落とし、女神の血筋の女性がいなくなってしまったという。
血族には男子が生まれているため、血が絶えることはないのだが、女神の代行者である巫女姫は女性にしか務められない。
(だから教団は、二十年ほど祭典を中止にし続けてきた。でも、信者たちから抗議の声が上がり始めた結果、今年から巫女姫の代理を立てた祭典を再開する……)
侍女人生で受けた説明を、リーシェは思い返す。
「たしか、巫女姫の代理になれるのは、ドマナ聖王国の貴族家に生まれた女性だけだとお聞きしました。ミリアさまはその座に選ばれた、と」
「そうなの。これはとっても名誉なことでしょう? それなのに、パパは……」
ミリアはきゅっとくちびるを結び、小さな声で呟いた。
「――パパは馬鹿だわ。私を怒らせるだなんて」
聞いたことのないほど低いミリアの声音に、リーシェは思わず瞬きをする。
先ほどまでのミリアは、年齢よりも幼い我が儘を繰り返していたはずだ。
それなのにいまは、ずっと大人びた表情をして、静かに父親を見据えている。
「私はパパを呪えるのに。……私に呪われた人たちが、みんなみんな死んじゃうってことを、パパはまだ信じていないのだわ」
「……ミリアさま……?」
ぞくり、と。
嫌な寒気が、リーシェの背中を這い上がった。
仕えていた少女の、これまで一度も見たことのない表情に、リーシェは思わず言葉を無くす。