怖いものがあるリーシェと、それをあやすアルノルトの話
※以前載せていた短編の再掲です。
※1章と2章のあいだくらいのお話
春の空気に月が潤む、とある夜会のさなか。
ひとりでホールを歩いていたリーシェが耳にしたのは、貴婦人たちのこんな噂話だった。
「――皆さんもご存知でしょう? 皇城の南回廊から見る春の月は、本当に美しいではありませんか」
「分かっていても、夜に近付きたくはありませんよ」
どうやら彼女たちは、この皇城にまつわる秘密を知っているらしい。
こんな状況を逃がさないため、夜会中にアルノルトから離れる時間を作っているようなものだ。
リーシェは情報収集のため、彼女たちの輪に加わった。
「皆さま、なんのお話をなさっているのですか?」
「まあリーシェさま! 良いところにいらっしゃいました。いえね、皇城内で眺めの素晴らしい場所を話し合っていたのですが、南回廊だなんて言葉が出てきたものですから……」
「南回廊は、私も何度か足を運んだことがあります。景色の美しい回廊ですが、何か忌避されるような事情が?」
噂話に混ざるだけのふりをして、深いところに踏み込んでゆく。
情報通の女性たちから飛び出してくるのは、果たしてどんな話題だろう。
(この皇城や皇族の方々、アルノルト殿下のお父君の話が聞ければ良いのだけれど……)
だが、期待していたリーシェの耳に飛び込んだのは、聞きたくなかった言葉だった。
「南回廊には、幽霊が出るという噂がありますの」
「え…………」
その途端、さーっと血の気が引いてゆく。
「なんでもこの城を建てるときに足を滑らせて亡くなった人夫の霊が、夜な夜な現れるとかで……」
「あら? 私は確か、大昔の侍女長にいじめられた侍女が幽霊に……って聞いたわよ」
「馬の幽霊じゃなかったかしら? ほら、大暴れして手が着けられず、騎士に斬られたっていう……」
「いえいえ違うわよ! 私のおばあさまから聞いた話だけど」
「…………」
彼女たちが夢中で話しているあいだ、リーシェは沈黙して固まっていた。
やがて夜会が終わり、アルノルトの遣いがリーシェを呼びに来る。
リーシェはぎこちなく夫人たちに別れを告げ、アルノルトと合流して夜会のホールを後にした。
***
この日は昼間から暖かく、外に出れば心地よい夜風が吹いていた。
だが、アルノルトの後ろを歩くリーシェの足取りは重い。
「……おい」
「……」
「リーシェ。何をしている」
「!」
アルノルトに名前を呼ばれ、はっとして顔を上げた。
気が付けば、アルノルトから随分と離されている。
慌てて追いつこうとしたものの、リーシェはそこから動けない。
(もしかして、ここは……)
ここは皇城の南側だ。
この日の夜会に使われていたホールの位置から、リーシェの暮らす離宮までの最短ルートである。
アルノルトは、リーシェの傍まで戻ってくると、訝しげにこちらの顔を覗き込んできた。
「まさか、先ほどの連中に何かされたのか?」
「い、いえ、違います! そんなことはありません」
「ならば何があった。歩き方からして、足を怪我しているわけでもないだろう」
「……っ」
気遣いは有り難いのだが、いまのリーシェに仔細を答える余裕はない。
何故ならば、俯いてとぼとぼ歩いているうちに、大変な事態に陥っていたからだ。
「……で、殿下」
「なんだ」
「ここは、もしかしなくても、皇城の南回廊ですよね……?」
「そうだが?」
「……!!」
分かりきったことを尋ねたリーシェに、アルノルトはますます険を深めた。
「リーシェ、夜会で何があった? 事と次第によっては俺が直々に動いてやるから、言ってみろ」
「ほ……本当ですか?」
「ああ。約束する」
「で、では、お言葉に甘えて申し上げますが……」
心強い言葉に背を押され、リーシェは勇気を出して口を開いた。
「――ここ、おばけが出るそうなんです!!」
「…………」
その瞬間、アルノルトが一気にどうでもよさそうな表情になる。
「……何かと思えば……」
「あっ、いま『くだらない』ってお顔をなさいましたね!? だって夫人たちが仰っていました、実際に見た人もいるんだとか!」
「どこの城にも存在する、退屈しのぎの作り話だろう? 真偽よりも話題性の方が重要視される、一種の娯楽のようなものだ。そもそもが、死霊の類など実在しない」
「するかもしれないじゃないですか……!!」
リーシェが半べそで反論する理由は、決してアルノルトに説明できない。
(私だって、一度目の人生ではおばけを信じてなかったけれど。だけど、でも、だって!!)
一度死に、そこから繰り返しの人生を生きているリーシェ自身の存在こそが、『幽霊だっているかもしれない』という可能性を示唆しているのだ。
そうなれば当然恐ろしい。
盗賊も自分を誘拐したならず者も、五年後の未来で敵対した世界最強の皇帝も怖くなかったけれど、幽霊だけはとても怖い。
幽霊に武器は通用しないし、リーシェの力ではどうやっても立ち向かえないからだ。
「リーシェ」
「ひゃい……」
「……」
返事をする声が裏返る。
アルノルトは額を抑え、ふーっと息を吐き出したあと、こう言った。
「……分かった。ならば引き返すぞ」
「!!」
「この道が恐ろしいんだろう? だったらここを通らなければ解決する。そうだな?」
「い、いえ……」
アルノルトの提案に、思わず縋りそうになる。
だが、リーシェはここで頷くわけにはいかなかった。
「大丈夫です。ここを通って、帰ります……」
「……この南回廊が問題なのではなかったか」
「それはそうなのですが。ここから別の経路を通る場合、夜会のあったホール前に戻らなくてはなりませんよね?」
「まあ、そうなるな」
「お客さまもお帰りになりましたし、いまごろ使用人の皆さんが大急ぎで後片付けをなさっているはずです。その最中に、皇太子殿下がお戻りになってしまっては、ホールは大混乱に陥るかと……」
皇族が傍にいるあいだ、下級の使用人は顔を上げることはおろか、姿を見せることすら良しとされない。
リーシェに付き従う侍女たちだって、アルノルトがいるときは、給仕の侍女以外を下がらせる必要があるのだ。
夜会の片付けは大変で、ただでさえ使用人たちの眠る時間は遅くなる。
かつて侍女だった身として、ホールを片付けている人々にそんな負担を掛けるわけにはいかない。
「ということで、頑張ります……。頑張って、ここからひとりで部屋に戻りますから、大丈夫です……!」
「――待て。ひとりとはどういうことだ」
「すぐには勇気が出ないので、もうちょっと時間が掛かるかと……。ですので殿下はお気になさらず、どうか先にご自身のお部屋へお戻り下さい」
「…………」
アルノルトは、リーシェを見下ろして口を開いた。
「その勇気とやらは、どうすれば出るんだ」
「え……」
「動けるようになるまで協力してやるから、対処法を言え」
「ですが、そんなご迷惑を掛けるわけには――」
リーシェのくちびるの前に、アルノルトの人差し指が立てられる。
「声が震えている」
「!」
強がる台詞を封じられて、リーシェは素直に押し黙った。
「お前の恐怖を軽んじるような振る舞いをして、悪かった」
「殿下……」
「婚約者として夜会に連れ出した以上、お前を無事に離宮まで送り届けるのは俺の責務だ」
「いえ、そのようなことは! 元はといえば、噂話に首を突っ込んだ私の自業自得ですし……」
「第一、俺と居てもそんな有り様のお前が、ひとりでここに取り残されて対処できるとは思えない」
「う……っ」
正直なところ、図星だった。
恐る恐る視線を上げると、アルノルトは本当にリーシェに協力してくれるつもりのようだ。
自分は幽霊など信じていないのに、それを恐れるリーシェのことを突き放したりしない。
「……袖を」
リーシェは言葉を絞り出す。
「アルノルト殿下の袖か、上着の裾の端っこでいいので、掴んだまま歩いてもいいですか」
「……構わないが。それになんの効果がある」
「私の知る限り、この世界中で最もお強いのが、アルノルト殿下なので」
もごもごと口ごもりそうになりつつも、せめて誠実に答えたい。
心の中で思っていることを、目の前のアルノルトに向けて紡いでいく。
「そんな無敵のアルノルト殿下が、私の手の届くところに居て下さると思えば。……ちょっとだけ安心できて、勇気が出るという、すごい効果があります……」
「――……」
どうにかここまで言い切ると、アルノルトが僅かに眉根を寄せた。
かと思えば、再び深い溜め息をつく。
(手を繋いでいただくのは、さすがに迷惑だと思ったから、袖にしたけれど。……いずれにせよ、迷惑なのは変わりないわよね……)
きっと本気で呆れられたはずだ。そう思ったのに、しばらくしてアルノルトは顔を上げ、リーシェの方に右手を伸ばす。
そして、そのままリーシェの手を取った。
「あ、アルノルト殿下?」
手を繋ぐような形になり、リーシェは目を丸くする。
こちらの驚きに対し、アルノルトは至って平然としていた。
整った顔立ちには感情が滲んでおらず、いつも通りの無表情だ。
つまるところ、当然のことを言い切るかのような表情で、こんな風に口にしたのだった。
「――離さないから、安心しろ」
「!」
その言葉に思わず息を呑む。
アルノルトはリーシェの手を取ったまま、離宮に向けて歩き出した。
彼に手を繋がれた状態のリーシェは、思わず普通に一歩を踏み出す。
(……歩けた……)
気が付けば、先ほどまでの震えが落ち着いている。
アルノルトと繋いでいる手は、痛むほど強く握られているわけではない。
むしろ、リーシェの手を潰してしまわないように、やさしく繋がれているのを感じる。
だというのに、決して離れてしまわないだろうという、そんな安心感があった。
(……怖くない)
リーシェはほっと息をつく。
そして、今度は自分からもアルノルトの手を握り、その背中を見つめて口を開く。
「……ありがとうございます。アルノルト殿下」
「いいからそのまま歩き続けろ。気を抜くとまた動けなくなるぞ」
「はい。――あの、迷惑ついでに剣をお借りしてもよろしいですか? 丸腰よりももっと安心できるので、歩く速度も上がるかと」
「……」
アルノルトは器用に片手で腰の剣を外すと、そのままリーシェにぽいっと放った。
自由な右手でそれを受け止め、鞘の上からぎゅうっと強く抱きしめる。
「ふふ」
そうすると、すっかり恐怖心がなくなった。
「……何故笑っている」
「いえ。片手にアルノルト殿下で、もう片手に殿下の剣なので、これは本当に無敵だなあと思いまして」
「お前に剣を持たせていると、有事のときに俺が抜けないがな」
「それは問題ないでしょう? 殿下であれば、私が抱き込んでいようと関係なく、瞬時に剣を抜けるはずですから」
「お前、つい先ほどまで震えていたくせに、いきなり元気になっていないか……?」
胡乱げにそう言われるのだが、自分だって不思議なくらいなのだ。
とはいえ、アルノルトの手を離したらこうはいかない。だからこそ、大人しくついていく。
その途中でふと上を見て、リーシェは無意識に声を上げた。
「あ」
「今度はどうした」
思い出したのは、先ほどの夫人たちが交わしていた言葉だ。南回廊から見上げる夜空は、素晴らしいものなのだと。
「月が綺麗ですね」
「……」
アルノルトは一度空を見上げ、遠くに潤む三日月を眺めた。
そのあとで、何も言わずに視線を戻す。
リーシェとアルノルトは、そこから離宮までの道のりを、繋いだ手を離さないままに歩いたのだった。
***
その翌日、アルノルトの執務室でのこと。
アルノルトの従者であるオリヴァーは、主君の婚約者に向けて笑いながらこう言った。
「南回廊? ああ、幽霊騒ぎの件ですか。あれは根も葉もない噂ですよ」
「そ、そうなのですか!?」
珊瑚色の髪をしたその少女は、慌てた様子で念を押してくる。
オリヴァーは彼女から受け取った書類を確かめつつ、安心させるために頷いた。
「あの場所で亡くなった方はいませんし、斬られた馬もおりません。誰かがでたらめに作り出した嘘ですから、ご心配なく」
「よ、よかったあ……」
「アリア商会に関する書類の方も問題ないようですので、このまま受領いたしますね」
「ありがとうございます、オリヴァーさま。――それではアルノルト殿下、失礼いたしますね」
「ああ」
執務机でペンを動かしているアルノルトは、少女の呼び掛けに簡素な返事をする。
彼女が退室したあと、オリヴァーは書類の束を整理しつつ微笑んだ。
「それにしても、リーシェさまはお可愛らしいですね。解毒剤を突きつけて騎士を脅迫するようなお方が、まさか幽霊を怖がるとは」
「オリヴァー。黙って手を動かせ」
「とはいえ、皇城に関する根も葉もない噂を、未来の皇太子妃殿下に話す輩がいるのは看過できません。出所を調べて対処しておきます」
「ふん。……つくづく、馬鹿げた噂だ」
アルノルトは、ペンを持っていない方の手で頬杖をつき、皮肉めいた口調でこう言った。
「――そもそもが、本当に『死人の出た場所に死霊が現れる』というのなら、目撃証言が湧くのは別の場所だろうに」
「はははは! いやあ、その通りですよねえ」
主君の言葉に笑いながら、オリヴァーは書類をまとめてゆくのだった。