77 わがままと願い事
***
「――やっぱ皇都はすごいよなあ! 夜空にあんなのが浮かび上がるなんてさ」
その日、早朝の訓練場に、候補生スヴェンの声が響き渡った。
「俺が取ってた宿屋から、結構はっきり見えたんだぜ。ルーシャスお前も見たかっただろ?」
「うん、見たかった。ちょうどそのとき忙しくて、そんな余裕も無かったから」
「ふふん。そうだろうそうだろう? フリッツも俺に感謝しろよ。あんな景色が味わえたのは、俺が勉強会に誘ってやったおかげなんだからな!」
興奮気味なスヴェンの言葉を、男装したリーシェはにこにこと聞いている。
候補生への特別訓練は、今日がいよいよ最終日だ。それに従い、リーシェたちの早朝訓練も最後になるため、今日は念入りに掃除を終えた。
見上げる空は快晴で、今日は少し暑くなりそうだ。
そんな素晴らしい朝なのに、フリッツの表情は今日も浮かない。
「フリッツのやつ、最初は流れ星だって勘違いして、願い事を始めたんだぜ。なあフリッツ?」
「ん……って、え!? あ、ああ!」
「……」
やはりぼんやりしていたのか、フリッツが慌てて顔を上げる。
スヴェンは何かを察した顔をすると、彼の肩をぽんっと叩いて言った。
「ルーシャス、フリッツ、ふたりともその木剣貸せよ。俺が片付けてきてやるから」
「え? 大丈夫だよスヴェン。みんなで一緒に持って行こう?」
「いいから! ……フリッツ、これは貸しだからな!」
「!」
フリッツは目を丸くしていたものの、やがてスヴェンに「悪い」と頭を下げた。
訓練開始前の訓練場に、フリッツとふたりだけで取り残される。リーシェはスヴェンの背中を見送りながら、隣に立つフリッツに話しかけた。
「スヴェン、なんだか張り切ってたね」
「あー……うん、そうだな」
俯いたフリッツからは、どことなく緊張した様子が感じられる。
「……ルー。俺たち昨日、ローヴァイン閣下に呼び出されたんだ」
「!」
その言葉が意味するものは、リーシェにも容易く想像がつく。
「じゃあ、騎士になれることになったの!?」
「……ああ。一回故郷に帰って準備を終えたら、またこの皇都に帰ってこいって。そこからは正式にガルクハインの騎士見習いだ」
「おめでとう、フリッツ!!」
喜ばしい知らせを聞くことが出来て、自分のことのように嬉しくなった。
候補生たちは、みんなそれぞれに素晴らしいところがある。その中でも、フリッツとスヴェンは飛び抜けて優秀だった。
「絶対に選ばれるって分かってたけど、改めて聞くと嬉しいな。おうちの人に手紙は書いた? ああでも、直接顔を見て報告したいよね! 本当におめで――」
「……ここに来る前、ローヴァイン閣下に会った」
「!」
リーシェが目を丸くすると、フリッツはひどく辛そうな表情で声を絞り出す。
「『ルーシャス・オルコットは騎士団に入らない』って。本人がそう申し出たって、ローヴァイン閣下が」
「……」
ローヴァインは、リーシェの嘘を暴かないでくれたのだ。
昨晩のミシェルの一件のあと、ローヴァインには手紙を書いた。
正体を偽っていたことや、大切な訓練の場を乱したお詫びを告げたのである。
きっと多忙に違いないのに、ローヴァインはすぐさま返事をくれた。彼とは今夜あらためて、コヨルの一行を見送る夜会で顔を合わせることになっている。
そして彼の手紙には、こんな一文も添えられていた。
『どうかお時間が許すようであれば、訓練には最終日まで、騎士候補生としてご参加ください』と。
(昨夜の一件があった以上、ローヴァイン閣下をどこまで信じて良いかは分からなくなっていたけれど……あの方はきっと、『ルーシャス・オルコット』の候補生としての日々を、守ろうとしてくださっている)
そんな風に思いながらも、リーシェは大切な友人に詫びた。
「ごめんねフリッツ」
フリッツの目を見て、逸らさずに告げる。
「本当は僕、とても大きな嘘をついているんだ」
「……嘘?」
「その嘘のお陰でここに通えて、みんなと一緒に訓練ができた。けれどもやっぱり嘘だから、いまの僕では騎士になれない」
その道を選んだ六度目の人生と、いまの七度目は大きく違う。
「君にも嘘をついていた。……本当に、ごめん」
そう告げると、フリッツの瞳が揺れたような気がした。
「ルー、俺こそごめん」
「そんな。どうしてフリッツが謝るの?」
「それは……」
尋ねると、フリッツはわずかに躊躇してみせた。
そのあとで、意を決したように俯いてこう叫ぶ。
「……実は俺、お前がついてる『嘘』のこと、前からうっすら気付いてたんだ……!!」
「え!?」
まさかの発言が飛び出して、リーシェは思わず目を見開いた。
「ずっとおかしいと思ってた! だってルーは小柄だし、やけに華奢だし!」
「フリッツ……」
「声も高いし髪も細くて、だから……!!」
(ま、まさか、女だって気付……っ)
思わぬ事実に慌てると、フリッツが真剣な顔でこう言い切る。
「おまえ本当は、十四歳くらいなんだろ!?」
「………………」
ぴしりと体が硬直した。
「……えっ」
「この訓練を受けられるのは、十五歳以降って決まりだもんな。でもルーはきっと家のために、年齢を偽ってここに来てたんだろ?」
「……いや、うん。えーっと、あの……」
「いやいいんだ!! 嘘なんかついてたって知られたら、来年以降の試験でお前が不利になる。俺の考えが正解だったからって、そうだって言わなくて大丈夫だから……!!」
「……」
必死に言い募ってくれるフリッツは、どうやら本当に気が付いていない。
リーシェが規定より幼い可能性は考えても、女であることには思い至らなかったらしい。
(……そうよね。六度目の騎士人生でだって、私が女だって見抜いたのは団長だけだったものね……!!)
若干の複雑さと共に、嘘をついたままにする罪悪感が募る。
とはいえ昨晩アルノルトからは、『ローヴァインに知れるのは仕方ないが、騎士候補生には引き続き、女だと悟らせないように』と言われていた。
「……ごめんフリッツ。そのうち必ず、僕の口から本当のことを話すから……」
「そんなのいいって、無理するなよ! そんなことより」
リーシェが顔を上げると、彼は晴々とした笑みを浮かべていた。
「『そのうち』って。……今日の訓練が終わっても、また会えるって思ってくれてるんだな」
「!」
その言葉を聞いて、リーシェは悟る。
フリッツが浮かない顔をしていたのは、別れを惜しんでくれたからなのだ。
たった十日間の短い時間、本当のことも話さずにいたリーシェに対してありったけの友愛を注いでくれた。そのことが本当に嬉しくて、微笑みが溢れる。
「もちろんだよ。もしかしたらいまとは少し違う形かもしれないけど、それでも、絶対に!」
「それまでに、俺もいまより強くなるから。約束だ」
「ふふ」
差し出された手を、リーシェはぎゅっと握り返した。
「お互いに頑張ろうね。フリッツ」
「……」
その一瞬、フリッツがなんだか泣きそうな顔になったような気がした。
けれども見間違いだったようだ。一拍を置いて、彼はいつも通り太陽のような笑みを浮かべる。
(あなたたちを、悲壮な戦場に行かせることのないように)
リーシェはある人物の気配を感じ、訓練場の入り口に目をやった。
辺境伯ローヴァインが、ゆっくりと歩いてくる。彼はこちらを一瞥すると、リーシェにだけ分かるよう一礼した。
リーシェも同様に礼を返したら、あとは普段通りの『教官と訓練生』だ。
とはいえ、色々な思惑を巡らせつつも、最後の特別訓練に挑むのだった。
***
午後三時、いくつかの用事を済ませたリーシェは、離宮の廊下を歩いていた。
途中ですれ違ったオリヴァーに尋ねると、アルノルトは執務室にいると言う。主城に向かうオリヴァーを見送ったあと、執務室の扉をノックした。
返事を待って入室すると、アルノルトは意外そうにリーシェを見ている。
「……随分と早かったな」
「これだけお時間をいただければ十分です。本当に、ありがとうございました」
座れと視線で促されたので、執務室の右手に置かれた椅子へと腰掛けた。
アルノルトはそれを見守ると、再び手元に視線を落とし、書類にペンを走らせながら言う。
「満足したか?」
「はい。先生と、しっかりお話が出来ました」
午前の訓練が終わったあと、リーシェはミシェルの元へと向かった。
コヨル国の面々は、明日の早朝に皇都を発つ。丸一日ここで過ごすのは今日が最後ということもあり、カイルは各所の挨拶に忙しい。
そのあいだ、『ちょっとした騒ぎ』の罰で謹慎となったミシェルと話せるよう、アルノルトがカイルに取り計らってくれたのだ。
『私の頭を取り出して、知識だけ提供できたらいいのにね』
開口一番、ミシェルは物騒なことを言い放った。
彼の言動に慣れているリーシェも、さすがにそれには面食らう。それを窘めつつ、ミシェルの紅茶に蜂蜜を注いだ。
『そんな方法はないですし、そもそも意味がありませんよ。「ひらめきは既存の知識から生まれるものではなく、新しい経験があってこそ」でしょう?』
『おや、よく分かっているね。……だけど、寛容すぎると思うんだ』
甘すぎる紅茶を受け取りつつ、ミシェルはそっと目を伏せる。
『私を処刑したり、戦争のための薬をたくさん作らせたりするならまだしも。コヨルとガルクハインの合同研究を取り仕切らせて、世界に良いものを作らせようなんて、ふさわしくない判断じゃないかなあ』
『……先生』
リーシェは昨夜、ミシェルに断りを入れた上で、アルノルトにだけすべての真相を話したのだ。
火薬というものの存在や、ミシェルがそれを使おうとしたこと。
いまのミシェルが、きっとそのことを償いたがっているであろうことも。
アルノルトはどうでもよさそうな表情で、『ミシェル・エヴァンの使い道は変わらない』と言い放ったのである。
騒ぎを起こしたミシェル本人は、その決断が納得できないらしい。
その気持ちも十分に理解しつつ、リーシェはミシェルに説く。
『そうは仰いますが、普通ならとても大変な罰だと思いますよ? 二ヶ国の王族が関わる事業で、常に最善の結果を出し続けるよう要求されているのですから。常人であればとんでもない重圧を感じるところかと』
『うーん、そうだねえ。頑張らないととは、思っているかな』
ふわふわした言い方だが、これはある意味すごいことである。ミシェルが頑張っているところなど、錬金術師の人生で見たことがない。
『慣れないことだけど、頑張るよ。――世界にとって素晴らしいものを生み出すなんて、そんな気持ちで研究をしたことはなかったからね』
『私もすごく楽しみです。先生の新しい境地が、どんな発明を生み出すのか』
リーシェが大真面目にそう言うと、ミシェルはおかしそうにくすりと笑った。
その微笑みは、嬉しそうでもあるのだった。
彼がこんな風に笑うところも、リーシェにとっては初めてだ。ミシェルは横髪を耳に掛けながら、目を伏せてぽつりと呟いた。
『……先日、私が君に言ったことを、きちんと謝っておきたくて』
『謝る?』
『「お妃さまなんて向いてない」って、間違ったことを言っただろう?』
そう言えば、そんなこともあったのだと思い出す。
『それについては、そんなに間違いだったとは思いませんが』
『ううん、きっと十分に向いているよ。でも、惜しいなと思うのも本当』
菫の色をした瞳が、柔らかなまなざしでリーシェを見る。
『後悔はしない? アルノルト・ハインの花嫁になる人生を』
『もちろんですよ、先生』
リーシェはきっぱりと口にした。
そういえば先日の問答では、最後まで口にすることは出来なかったのだ。
だから、微笑んで告げる。
『いまの私が、世界で一番知りたいのは、私の旦那さまになるお方のことなのです』
どんな研究結果や、どんな原理よりも。
心の底からそう思い、言葉を重ねた。
『だから、あのお方の傍にいるつもりです。仮に婚約破棄されたって、追い出されることになったって』
『ふふ。なら、私にそれを止める権利はないね』
分かってくれたことが嬉しくて、リーシェは立ち上がって一礼する。
『長々とお邪魔しました。帰国の準備中に、お時間をいただいて申し訳ありません』
『ううん、話せて嬉しかった。君ともしばしのお別れだ』
ミシェルは立ち上がり、穏やかな微笑みのままこう言った。
『またね。私の教え子』
『……!』
――さようなら、と。
錬金術師だった人生で、ミシェルと最後に交わした言葉を思い出す。再会を意味する『またね』の響きは、いつかの月夜とまったく違った。
***
「アルノルト殿下のおかげです」
お礼を言うと、執務机に向かったアルノルトは関心のなさそうな声音で言う。
「大したことをしたわけじゃない」
「いいえ。寛大な処断をしていただきました」
「未遂に終わったことを騒ぎ立てるよりも、有用に利用した方がマシだというだけだ」
それに、とアルノルトは続ける。
「ミシェル・エヴァンの言動について報告は受けた。いくら有能な学者といえど、あれの手綱を取るのは御免被るからな。それならばコヨルとの合同研究に投じて、管理の手間なく利益だけを得た方がいい」
「それでも、やっぱり寛大だと思いますが……」
「どうでもいい。……それに、二度と妙な意図での研究が出来ないよう、お前が定期的に目を通すのだろう?」
その言葉に、リーシェは大きく頷いた。
「――はい。それはもう、しっかりお任せいただければと!」
アルノルトに何かを任されるのは、これが初めてのことである。
そう思うと、改めて気合も入るというものだ。
「楽しみですね。アルノルト殿下とカイル王子、それにミシェル先生が、これからどんなものを開発なさるのか」
「……お前の言う『馬がいなくとも動く馬車』に辿り着くまで、どれほどの月日が掛かるかは分からないがな」
「ふふ」
あのときは相手にもしない素振りだったくせに、ちゃんと考えてくれているらしい。
そのことが妙に嬉しかった。
リーシェが必死に並べるだけの選択も、アルノルトや他の誰かが一緒に目指してくれるのであれば、未来に不可能はないのだと思えてくる。
(どうせなら、最悪の未来を避けるための人生ではなく、より良い未来を目指すために進みたいもの! アルノルト殿下の思惑は分からないままだけれど、少しずつは進んでいるはず……)
こんな変化を積み重ねて、いつかの未来を変えられればいい。
騎士候補生として訓練を受ける日々も、無事に終わりだ。これからは婚姻の儀に向けて、本格的な準備を始める予定である。
(いよいよ次はあの件を――)
頭の中で計画を練っていると、アルノルトがペンを止めてこちらを見た。
「……よからぬことを考えている顔だな?」
「いえいえいえ、まさかまさか!」
にこっと鮮やかに微笑みつつ、急いで話題を切り替える。
「えーっとそれからアルノルト殿下! コヨルの技術繋がりで、もうひとつご報告が」
「報告?」
手にしていた鞄から、いそいそと小さな箱を取り出した。
ベロアの張られた手のひらに乗るほどの小箱である。それを見て、アルノルトも中身を察したらしい。
「……完成したのか」
「はい」
この中には、アルノルトから贈られた指輪が入っている。
コヨルの加工職人が仕上げてくれ、午後一番にリーシェへと献上された。
箱に入ったままの指輪だが、リーシェもまだ見ていない。
せっかくプレゼントを開けるなら、贈ってくれた人の目の前がいいと思ったからだ。
「指輪が出来たら、アルノルト殿下へ一番にお見せすると約束したでしょう?」
「……」
「私は先に意匠画だけを見ているのですが、とっても素敵だったんですよ。きっと完成品も――」
わくわくしながら箱を開けようとすると、アルノルトはそれを遮るように名前を呼んだ。
「リーシェ」
「はい、アルノルト殿下」
顔を上げると、アルノルトの目が真っ直ぐにこちらを見ている。
彼は、先ほどまでと変わらない無表情で、淡々と静かに言い切った。
「――その指輪を着けてみせる必要はない」
「!」
その瞬間、胸の奥がずきりとひどく痛んだ。
アルノルトに顔を見られたくなくて、リーシェは咄嗟に下を向く。
きっといま、アルノルトの言葉を聞いて、ひどく情けない顔をしてしまったはずだ。
(何かしら、これ)
膝の上に乗せた指輪の箱を、無意識に両手でぎゅうっと包む。
そして、自分の感情に困惑した。
悲しくて、とても寂しくなったからだ。
「必要がない、とは……」
声が掠れないように気を付けながら、なんとかそれだけを口にした。
どうしてこんなに悲しいのだろう。
いつものリーシェなら、誰に共感してもらえなくとも、自分自身が好むものを愛でていられれば十分なのに。
「言ったはずだ。俺がお前に要求するのは、指輪を贈らせろという一点のみだと」
「……」
アルノルトが口を開いたのに、彼の方を見る勇気が出そうになかった。
胸の痛みがあまりにも辛くて、もう二度とアルノルトの顔を見ることが出来ないかもしれない。
夫の顔を見られない皇太子妃なんて、失格どころの騒ぎではないはずだ。
(どうしよう……)
そんなことをぐるぐると考えるリーシェに、アルノルトが言った。
「俺に、そこまでのことを望む権利はない」
「……え」
思わぬ言葉を耳にして、弾かれたように顔を上げてしまう。
一生顔を見られないかもだなんて、そんなことはなかった。目が合ったアルノルトはペンを置き、椅子の背もたれに体を預けながらこう続ける。
「お前が身につけるものはすべて、お前自身の望む通りにすればいいんだ。俺に贈られたからといって、意に沿わないものを身に着けなくとも構わない」
「アルノルト殿下」
「たとえそれが、婚姻の儀であろうとも。――お前は、自分自身が気に入ったものだけを、誰の目も気にすることはなく自由に選べ」
それを聞いて、アルノルトの言わんとしているところを理解した。
つまりアルノルトは、あくまでリーシェの望むものを尊重しようとしてくれているのだ。
そんなこと、普通の皇太子妃には許されない。
現にリーシェは幼い頃から、自分の好むものよりも優先すべきことがあると教えられてきた。
だからこそいまでも、その癖が出てしまいそうになることがある。
指輪の石を選ぶ際、『婚姻の儀や、皇太子妃の立場にふさわしいものを』と考えたときのように。
(だけどアルノルト殿下は、私の意思を尊重すると言ってくださっているんだわ。……たとえ、ご自分が贈った指輪であろうとも、それを理由に身につける必要はないと)
アルノルトは常にそうだった。
リーシェが男の格好をしていようと、錬金術を学びたがろうとも、それらを容易く許してくれる。
(無関心や、放って置かれるのとも違う。私の求める『自由』を、ちゃんと肯定しようとして下さっている)
その事実は、とても嬉しいことのはずだ。
(喜ぶべきなのに。これ以上は望みすぎだって、分かっているのに……)
それでもリーシェは、不貞腐れた気持ちになって反論した。
「…………ヤです」
「なに?」
我ながら、拗ねたような声が出てしまったと思う。
リーシェの答えが予想外だったらしく、アルノルトは驚いたような顔をしていた。
彼のこんな表情は、きっと珍しい。
そう思いながらも、隠し通すつもりだった事実を口にする。
「アルノルト殿下は覚えていらっしゃいますか。指輪のサイズを測る際、私が左手の薬指を選んだこと」
「……ああ。何故かと尋ねたが、答えなかったな」
「私の国では結婚の際、夫から妻へと指輪が贈られるのです。初代国王夫妻の始めた慣習で、かならず左手の薬指に」
だからリーシェもそうしたのだ。
そのことを告げると、アルノルトが何故だか眉根を寄せる。
「私にだって、そういう儀式への憧れはあります」
「……」
きっと今、言わなくても良いことを言ってしまった。
そんな自覚があるものの、どうにも抑えることが出来ない。リーシェは自棄っぱちな心境になり、指輪の小箱を手に立ち上がる。
「婚姻の儀でこの指輪を着けたいですし、ドレスも指輪に合わせて選びますので! 必要はないと仰いましたが、今後もあらゆる場面で使わせていただきます!」
「リーシェ。落ち着け」
「む、むしろ、いますぐ指に嵌めたいのを我慢してここに持ってきたんですから……!」
執務机の前に立ってそう言うと、アルノルトがわずかに息を飲んだ。
「……だから、アルノルト殿下が、私に指輪を嵌めてください」
アルノルトの前に箱を置き、リーシェは左手を差し出した。
すると、彼は難しい顔のまま、こんなことを言う。
「いまは手袋を着けていない」
「う……」
今世でアルノルトと会ったばかりのころ、『指一本触れない』と約束をしてもらった。
アルノルトは今日まで律儀にそれを守り、夜会などの場では手袋をしている。
今日のアルノルトは素手のままで、晒された手の甲には、手袋をしているときは見えない筋が浮かんでいた。
「なくても、大丈夫です」
これを言うのは、いささか恥ずかしいような気もする。
けれど、「今後はもう、直接触っても大丈夫です」と口にするよりは簡単だ。
アルノルトがリーシェに望んだことは、とても少なかった。
だって、勝てばなんでも言うことを聞くという勝負に勝っておいて、彼が望むのはリーシェに指輪を贈るという一点だけだというのだ。
リーシェはこの指輪をちゃんと身に着けたい。
そして、その姿をアルノルトにも見て欲しい。
「……どうしても、いますぐがいいんです。だから」
アルノルトは、リーシェにわがままを言わせるのが上手すぎる。
そんなことを思いながら、勇気を振り絞ってこう言った。
「おねがい、殿下」
「――……」
目を伏せたアルノルトが、短い溜め息をついた。
彼は小箱を手に立ち上がると、執務机を回り込む。
かと思えばリーシェの手首を掴み、長椅子のある方に手を引いた。
長椅子にぽすんと座らされ、リーシェは瞬きをする。
するとアルノルトは、リーシェの目の前に跪いてみせるのだ。
アルノルトの大きな手が、リーシェの左手を取った。
たったそれだけのことなのに、一気に頬が熱くなる。
あまつさえアルノルトは、その姿勢のまま目を伏せると、リーシェの手の甲にくちびるを寄せるのだ。
そうして、薬指の付け根に口付けを落とす。
「リーシェ」
「っ、ん」
くちびるを押し当てたまま名前を呼ばれ、自由な方の手で自分の口を塞いだ。
アルノルトは淡いキスをすぐにやめ、顔を上げる。
けれどもその後に、互いの指をするりと絡めるではないか。
(な、なにこれ……!)
頭の奥が、くらくらとした。
こうされて初めて自覚する。リーシェは、アルノルトの瞳の色だけでなく、その手や指の形も好きなのだ。
とはいえいまは、それどころではない。
リーシェを散々振り回しておきながら、アルノルトは至って涼しい顔だ。
それどころか、どこか真摯な目をリーシェに向けて、わずかに掠れた声でこう尋ねてくる。
「――触れてもいいか」
「……っ!!」
もう、とっくに触っているくせに。
まるで、リーシェにちゃんと頷かせたくて、わざと言葉で確かめているかのようだ。