75 異なるもの
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(無事に、ひとつが上がった……)
皇城の庭園から城外を見上げ、リーシェは短く息を吐き出す。
リーシェを追ってきた護衛騎士ふたりのうち、ひとりが慌ててどこかに向かった他は、この場に残る全員が空を見上げていた。
協力者であったテオドールも、兄と似た色の瞳を丸くしている。
ミシェルを見失って以降、テオドールたちは皇都中に捜索網を敷いてくれた。
だが、彼らが主に探していたのは、ミシェル本人ではなく火薬の方なのだ。
『この尾行において、主な「標的」はミシェル先生ではありません』
テオドールへの依頼の際、リーシェはこんな風に説明していた。
談話室のテーブルに数枚の紙を広げ、一通りの説明をしたのは、数日前のことである。
『先生の目的は、恐らく皇都の三ヶ所にある物を設置すること。配下の皆さんには、この紙に書かれた形状のものを見つけ次第、周囲の人々を避難させていただきたいのです。……罠の解除が得意な方はいらっしゃいますか?』
『もちろん。僕の部下の半分は、その技術を持っている人間だ』
『では、その方々に、ここに記した手順の実施を』
テオドールに渡したのは、ミシェルが使うであろう仕掛けの解説図だった。
『罠と同じく、誤った手順で解除すれば危険な装置です。ですがこちらは罠とは違い、解除が困難な仕組みにはなっていないので、正確な手順を覚え込むことで危険度はかなり低下するかと』
『普段あいつらが解除している罠に比べれば、親切すぎるくらいの設計だ。とはいえ、くれぐれも気をつけるようには命じておくよ』
『ありがとうございます。……続いて、「標的」設置場所の候補地について。万が一先生を見失った際も、ある程度の絞り込みは可能です』
そう言って、リーシェはテオドールに説明を続けた。
毎日の尾行によって、ミシェルが下見したルートはすべて把握できる。
尾行をつける以前の行動範囲も、貧民街の人々が持つ情報網で割り出せるだろう。中性的で美しいミシェルの容姿はよく目立つ上に、街に溶け込むような変装をする性格でもない。
なおかつリーシェは覚えているのだ。
錬金術師の人生で教え込まれた、ミシェルの実験計画書のことを。
(市街地実験の計画書では、用意する装置の数は三つ。実験に使うのは、低い建物だけに偏っている風通しの良い場所だとおっしゃっていたわ)
それらの条件が重なる地点は、稼ぎのために皇都中を歩き回っている貧民街の住民が熟知している。
捜索するべき候補が、ミシェルの通ったルートのみに限られるとなれば、さらに容易に見つかるだろう。
遠隔での実験において、ミシェルはなるべく不確定要素を排除するため、ほとんどの条件を計画書通りに揃えてくると踏んでいた。
(この実験に最適な気候、湿度、天候、建物の密集率。風向きなどの条件をなるべくバラつかせるために、三つの装置はそれぞれ一キロ以上の距離を空けて設置という教えも。……何度繰り返したって、ぜんぶ覚えている……)
爆発の時刻は日暮の前だ。爆発の状況が目視できる明るさがかろうじて残っていて、街を出歩く人が減る時間帯。
この時期のガルクハインは、それが夕刻の十八時だ。
そしてつい先ほど、ミシェルの会話を終えた直後に、『間に合った』との報告がテオドールのもとに届いたのである。
「いまのは……」
立ち上がったミシェルが、ふらりと一歩前に歩み出した。
騎士たちが慌てて剣を構えようとして、けれどもすぐに手を止める。ミシェルが予告した十八時、皇都に起きた事象を目にした彼らは、戸惑った表情を浮かべていた。
ローヴァインは、無表情のままミシェルを見下ろして、何も言わない。
「色のついた炎。火薬の匂い。あれが空で爆ぜた? 一体何が含まれて……」
(ミシェル先生の作る装置は、やっぱり正確で分かりやすいわ)
リーシェが間に合うかどうかを危惧していたのは、花火と名付けた火薬の玉が、うまく空に打ち上がるかという点だった。
(火薬装置の発見は出来ても、導線の繋ぎ換えが上手くいくかどうかは賭けだったのに。たとえその装置を見たことがない人でも、正しい手順を説明するだけで扱えるように作られているおかげね)
その装置には無駄がなく、視覚だけである程度が繋がるようになっている。
誰でも使えるほどに簡素化された装置は、利用する側にとっても好都合だ。
大空に打ち上がった美しい炎を、リーシェは花火と呼んでいる。
その輝きは、しっかりとミシェルの目に焼き付いたらしい。彼は、まだ星空を理解できない子供のように、未知のものを眺める目で空を見つめていた。
その空に、今度は二つ目の花火が上がる。
ミシェルの視線が奪われた瞬間を見計らい、リーシェははっきりと言葉にした。
「――かつて私の先生は、私にオーロラを見せて下さいました」
そう告げると、無感情に近い表情を浮かべたミシェルが、ゆっくりとこちらを見る。
「当時私は悩んでいたのです。『金属塊が、とある有害な金属を含んでいるかどうか』を判別する方法を。そしてそのとき、先生に美しいオーロラの光を見せていただいて、何かに似ていると気がつきました。――それは、金属を火に掛けたときの反応です」
「……そうだね。金属を燃やすと、炎は金属の種類ごとに色が変わる。青や緑のその炎は、確かにオーロラに似ているかな」
どこか茫洋としたミシェルの言葉に、リーシェはこくりと頷いた。
花火に使ったのは、コヨルの職人から得た金属の削り粉である。製品として出回ることのないその粉を、カイルに頼んで入手してもらったのだ。
「私はその経験によって、『金属の種類を判別する方法を得た』と思っていました。ですが本当は、それだけではなかったのです」
短く息を吐き出して、彼に告げる。
「――見方を変えれば、『炎に色をつける』方法をも手にしたことになる」
ミシェルの目が、ほんのわずかに見開かれた。
「暗闇に浮かぶ小さな光を、戦火の松明と見るか、蛍の光だと受け取るか。見方を少し変えるだけで、事象の持つ意味はまったく変わります」
リーシェがそれに気がついたのは、アルノルトとバルコニーで話した晩のことだ。
ミシェルを止めるにはどうすればいいか。アルノルトにどうコヨル国を受け入れてもらうか。
その両方の答えが、彼らが無価値や有害に感じているものに対して、別の見方や価値を提示することではないかと思い至った。
「観測される事象がひとつであろうとも、その役割がひとつきりであるとは限りません」
だからこそ、と思うのだ。
「人間や物の役割も、それと同じではありませんか?」
「――!」
ミシェルはずっと、自分自身が人を不幸にする役割を持ったものだと信じ続けてきた。
意義などなくても存在していいのだと、リーシェが訴えた言葉は否定された。けれど、思えばそれは当然だ。
(だって、先生は錬金術師なのだから)
証明してみせない限り、言葉とはただの仮説なのだ。
天才的な錬金術師のミシェルが、他者の仮説を信じることも、ましてや鵜呑みにすることもあるわけがない。
(目の前で実証し、結論を示さなければ、きっとなにもかも届かない……!)
だからこうして証明したのだ。
「人や物が起こす作用は、ひとつではありません。何かを不幸にするためだけの存在なんて、あるはずがないのです」
「……それを私に分からせるために、こんな仕掛けを作ったというの? 君は、どうしてそこまで……」
問いかけへの答えは決まっている。
「私が、あなたの教え子だからです」
「!」
リーシェが言った『教え子』の真意が、ミシェルに伝わるはずもない。
だけど、それでも祈るような気持ちで重ねる。
ミシェルはかつての人生で、さまざまな知見を惜しまずに与えてくれた人だ。
(たとえ、先生がそのことを知らなくとも。……世界が巻き戻ってしまったとしても……)
なくなりはしない。
リーシェが覚えている限り、その事実はずっと心の中に存在し続ける。
「あなたがどうしてもご自分の存在や、ご自身の手で生み出したものを、『誰かを不幸にするしかないもの』だとお考えなら」
皇都の片隅で、三つ目の火の玉が光るのが見えた。
ミシェルの作った仕掛けであろうとも、時間の誤差はどうしても生まれる。遅れて火の点ったらしき三発目が、すうっと尾を引きながら空に登ってゆくようだ。
「――私は、全身全霊をかけて、そうではないのだと説き続けます」
「……っ」
上空で爆ぜるその直前、光が一瞬だけ姿を消した。
「どうかその目でご覧ください。……あなたの生み出したものが、あなたの知らない価値を発揮する、そのさまを!」
どおん! と重たい音が響く。
夜空に大きな花が開き、それらは流星のように瞬いた。
青や緑に瞬く光は、星屑そっくりに零れてゆく。ぱらぱらと乾いた音を立てながら、空の一部を染め抜いて、オーロラのごとく鮮やかに輝かせた。
ミシェルはその光を見上げ、とても眩しそうに目を細める。
「……知らなかったな」
紡がれたのは、とても柔らかな声だった。
「炎色反応のことも、火薬の作用についても理解していたのに。それらにこんな使い道があるなんて、私にはちっとも思い付かなかった」
「……ほかにもきっと、いくらでもありますよ。あなたが生み出し、この世界にとっての毒だとばかり思っていらっしゃる物の、別の視点での使い道が」
「ふふ。そうなのかもしれないな」
ミシェルは寂しげに笑っている。
「君はすごいね、リーシェ」
「いいえ、先生」
首を横に振り、はっきりと告げた。
「すごいのは先生に決まっています。あなたは世界一の天才で、これからもっと素晴らしい発明品を生み出す、そんな錬金術師なのですから」
「……君は、本当におかしなことを言う」
困ったような表情を浮かべたあと、ミシェルは再び空を見上げる。
「でも、そうか。……そうだったのか」
その微笑みには、いまにも泣き出しそうな儚さが滲んでいた。
「私は、あんなに美しいものの源を、作り出すことが出来ていたのか…………」