73 不穏の火種
ここからはアニメの続きの内容となります!
※これ以前の小説の掲載話にも、アニメで泣く泣くカットされたシーンが複数含まれていますが、ストーリーのメイン部分はアニメで全て描かれています!
急いで会議室を出たリーシェは、足早に歩を進めていた。
本当なら全力疾走したいところだが、主城の中なのでそうもいかない。
焦る気持ちを押し殺しつつ、テオドールの説明に耳を傾ける。
「――尾行の人間が、全員撒かれた」
リーシェの傍を歩くテオドールは、声を潜めながらそう言った。
「最後に確認できたのは皇都の南、十七区画の裏通り。いまから三時間前の出来事で、その場所を中心に捜索中だ」
「見失った時の状況は? 尾行に気付かれた結果だとしても、貧民街の方々を撒くなんて……」
「甘い香りがしたらしい」
「!」
告げられた内容の薬には、十分に心当たりがある。恐らくはとある茸から抽出した、一種の痺れ薬のようなものだ。
「路地裏に入ったあと、思い出せるのはそれだけだって。目を覚ました時には二時間ほどが経っていて、『標的』は消息不明。つまり」
テオドールは、いつもより少しだけ低い声で言った。
「――ミシェル・エヴァンの監視は失敗だ」
「……」
リーシェはきゅっとくちびるを結ぶ。
数日前、リーシェはテオドールにこんな協力を依頼したのだ。
『ミシェル先生の行動を見張り、その情報を私に下さい。――それから、彼がアルノルト殿下に近づこうとした暁には、阻止していただきたいのです』
テオドールの配下には、皇都の深部まで熟知した貧民街の住民たちがいる。彼らは独自の情報網を持ち、皇都内の行動範囲も広い。
それに加え、テオドールはアルノルトの動向を収集するべく、ガルクハイン城内にも監視網を持っている。
だが、ミシェルはその尾行を撒いたのだ。
「その方には念のため、お水を多めに飲ませてください。ご存知であればなのですが、ミシェル先生は他に何か――」
「手荷物がいつもと違ったそうだ。金属製の頑丈そうな鞄で、やたら丁重に扱っていた」
「!」
「尾行対象のいつもと違うところくらい、全部報告させてるに決まってるだろ」
テオドールはにやりと笑う。
こういうときの表情は、彼とアルノルトでよく似ていた。
「報告を受けた直後から、貧民街の連中を総動員している。いまは十七区画を中心に、放射線状に広がりながらの人海戦術中だ」
「テオドール殿下……」
「ミシェル・エヴァンを見失ってから、僕に報告が来るまでの時間は二時間半ちょっと。『標的』を見つけ次第、君に言われていた通りに動く。報告は順次、僕のところに入る予定だ」
そこまで事前に手を回してくれているとは思わず、リーシェは目を丸くする。
テオドールには、火薬が何かを話していない。ミシェルがそれをアルノルトに使わせたがっているということも、今の段階では伏せていた。
確かに、『標的』を確認したら動いて欲しいと依頼していた事項がある。
とはいえテオドールからしてみれば、仔細も教えられない状況で、『異国から来た客人を監視し、ある行動を取ったらこのように動き、それを報告してほしい』と言われたに過ぎないのに。
まさか不測の事態が起きた際にも、あらかじめ、ここまで助けてくれるとは。
「なにその顔。兄上の弟であるこの僕が、指示された通りにしか動かない人間だとでも思った?」
「そ、そうではありません! ですが、私をそれほど信じてよろしかったのですか? テオドール殿下には、私がミシェル先生を追いたい理由もお話ししていないのに……」
リーシェの隣を走るテオドールは、呆れたような顔をした。
「やましいところのない人間は、尾行相手を潰したりしない。普通は単純に撒こうとするか、しかるべきところに助けを求めるよ。よくわかんない薬で気絶させるなんて手段に出るのは、その後にとんでもない行動を起こす気がある奴だけだ」
「……」
リーシェは何も言えず、早歩きをしながらも視線を落とす。
貧民街の荒くれ者たちをまとめ、犯罪者に近い人間も配下に加えている彼の言葉には、ある種の実感が篭っていた。
テオドールは後ろの騎士たちをさりげなく振り返り、一段と小さな声で言う。
「緊急事態だと判断したから、兄上と一緒だって分かっていても君を連れ出した。兄上からの追及は避けられないだろうから、それは今から謝っておく」
「いいえ、ありがとうございますテオドール殿下。改めて確認いたしますが、ミシェル先生とアルノルト殿下の接触は?」
「それは無かったと断言できる。オリヴァーに近付いた様子もなさそうだ。……だけどひとつだけ、気になることが」
「先ほど、テオドール殿下が会議室に入室なさった件ですね」
訝しく思っていた点を口にすると、テオドールは頷いた。
「第二皇子の僕だからって、兄上とカイルの会議に乱入していい理由は無い。それなのに、オリヴァーは止めるそぶりすら見せなかった」
「アルノルト殿下にも、驚いたようなご様子は見られませんでしたね……」
驚きが顔に出なかっただけか。それとも全て見透かされ、この展開になることを予想されていたのか。
(あるいは、私があの場を中座した方が、アルノルト殿下にとって都合が良かった……?)
考え過ぎかもしれない。
けれど、リーシェが思いつく可能性はすべて検討しておくくらいでないと、アルノルトの考えには及べない。いずれにせよ、十分に警戒する必要がありそうだ。
「テオドール殿下、先生の捜索状況は……」
「失礼いたします、テオドールさま」
廊下の先から現れた騎士が、慣れた様子で耳打ちをする。大柄なその騎士は、テオドールの近衛騎士だったはずだ。
「――分かった。行くよ義姉上、こっちだ!」
「まさか、もう先生の居場所を掴めたのですか!?」
「僕を誰の弟だと思ってるの! それにあの男、一番監視しやすいところに戻ってきた!」
主城を出た途端に駆け出したテオドールを追い、ドレスの裾を摘んで外庭を走る。
一番監視がしやすい場所というのは、確かめるまでもなく明白だ。
「っ、は……」
走り続けたせいで息が上がる。騎士候補生としての鍛錬はしていても、ほんの十日で体力が増すはずもない。
肩で呼吸をするリーシェが辿り着いた場所に、その人物は寛いでいた。
「――やあリーシェ」
花の咲き乱れる庭園で、ミシェルは悠然と微笑みを浮かべる。
彼の背後に控えるのは、合計四名の騎士だった。彼らが纏う制服は、アルノルトの近衛騎士とは少しだけ違う意匠だ。
騎士たちに囲まれたミシェルは、庭園に据えられた白い長椅子に座り、香り煙草の煙をふわふわと燻らせていた。
「君は優秀な教え子だけど、実験動物の扱いについては指導が必要だね。追い詰められた動物は、時として想定外の行動を取るんだよ?」
「……先生」
「退路をすべて塞いでは駄目だ。避難先の木がなくなった猫は、追い掛けてきた犬を引っ掻くだろう? にゃあ! ってね」
ミシェルは右手をひょいと上げ、爪を出す猫の真似をする。
「とはいえ。見張られていようと、私が取る行動に大きな変化はないのだけれど」
彼が首をかしげると、肩までの長さがある金色の髪は、重力に従ってさらさらと流れた。
息を切らしたテオドールが、それでもリーシェを庇うように、さりげなく前に出ようとする。
「なんだあいつ。うちの兄上の、婚約者に対して、馴れ馴れしいな……っ」
リーシェの護衛をする騎士も追いついてきたものの、リーシェは彼らを視線で止めた。
そのあとで、ミシェルの連れている騎士たちを見遣る。
「テオドール殿下。先生の後ろにいる騎士の方たちを……」
「分かってる。お前たち、なんのつもりでその男についているのかは知らないけれど、この場から下がれ」
テオドールが命じると、騎士たちは気まずそうな表情で礼をした。
「申し訳ございません、第二皇子殿下。そのご命令をお受けすることは、我々の判断では出来かねます」
「……なんだって?」
テオドールが不愉快そうに眉根を寄せた。騎士たちはそれに怯むのだが、ここを辞する気はないようだ。
そんなやりとりを見て、ミシェルはぱちぱちと瞬きをする。
「ねえリーシェ、どうして騎士たちを追い払いたいの? もしかして、私に配慮してくれてるのかな。やさしいね、ありがとう。だけど」
ミシェルがとろりと微笑んだ。
「――そんなものはいらないよ」
(この気配……)
芝生を踏み締める音がして、リーシェは咄嗟に振り返る。
近付いてくる人物が誰なのか、探るまでもなく分かっている。これはつい先日、その人物と顔を合わせずに済むようにと、十分に観察して覚えた気配だ。
(ローヴァイン伯!!)
「……ルーシャス・オルコット……」
リーシェの前に立ちはだかった長身の武人は、一瞬だけ目を見開いた。
すぐさま冷静な表情に戻ったローヴァインは、リーシェから視線を外すと、まずはテオドールに礼をする。
「……テオドール殿下。騎士たちが何か、ご無礼を?」
「この僕が下がれと命じたのに、あいつらはそれに従えないと返事をした。ローヴァイン、お前から説明してもらおうか?」
「どうかお許しください。たとえ殿下のご命令であっても、忠義ゆえそれには従えません」
「だから、それは何故だって聞いてるんだよ」
「……」
いまのローヴァインが纏っている空気は、戦場に立つ騎士のそれだった。
これまでのリーシェが接してきた、面倒見のいい指導者の表情とは異なるものだ。
「我々の主君は、皇帝陛下です」
「!!」
『皇帝』という言葉に、テオドールがわずかな怯えの色を見せる。
「ミシェル・エヴァンは予告しました。いまから十五分後、大きな事件を起こすつもりでいると」
「ミシェル先生……」
「彼の言う通りだよ。お城の中にいる騎士を適当に見繕って、宣言したんだ。『このあと、十八時に起きる凶行は私の仕業だから、実現したら捕らえてほしい』って」
ミシェルは何を言っているのだろう。
一瞬混乱したものの、彼の目的を思い出す。
「そうすれば、『火薬』の話がアルノルト殿下の耳に入ると?」
「取り調べの名の下、洗いざらい全部話すことになるだろうからね。これから起きることを考えれば、ガルクハインの皇太子や皇帝は、きっと私の話した内容に目を通すだろう?」
ミシェルは柔らかく微笑んだまま、なんの邪気もなく口にする。
「これから起きることの大きさを思えば、皇族の耳に入らないなんてことは有り得ない」
「……っ!!」