68 人を守るべき立場
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「……ルー、ちょっといいか」
「……」
その日の早朝訓練後。
フリッツにおずおずと話しかけられたリーシェは、ぴしりと微笑みを凍り付かせた。
一緒に訓練をしていたスヴェンはいま、井戸まで水を汲みに行っている。
まだ他の候補生が来ていない訓練所は、フリッツと男装したリーシェのふたりきりだ。
今日のフリッツは、ずっと様子がおかしかった。
剣の動きも奮わず、どこかぼんやりとしていて、思い詰めたような面持ちである。
そしてリーシェには、不調の理由に心当たりがあった。
「その。昨日の訓練後のことだけど……」
(……やっぱり、色々と悩ませちゃったわよね……)
なにしろ昨日、フリッツ憧れの人物であるアルノルトと話しているところを目撃されてしまったのだ。
(それも壁際に追い詰められて、アルノルト殿下に私のほっぺをむぎゅむぎゅ押さえられているところを……)
ふっと遠い目をしたリーシェに対し、フリッツはどこか気まずそうな顔だ。彼はひとつずつ言葉を探しながら、神妙な様子でこう続ける。
「これが無神経な質問だったら、遠慮なく俺を殴ってくれ。ルーは昨日、訓練場の裏でアルノルト殿下と……」
やっぱり誤解されていた。
確信したリーシェは、考えておいた言い訳を口にして笑う。
「――そう。アルノルト殿下に、目に入ったゴミを取ってもらったんだよ!」
「……へ」
フリッツが、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
驚いて呆気に取られているうちに、リーシェは淀みなく説明を続ける。
「昨日は風が強かっただろ? 目にゴミが入って思わず悲鳴を上げたら、それに気付いたアルノルト殿下が様子を見に来て下さったんだ。恐れ多くて思わず暴れちゃった所為で、がっちり固定されちゃったけど。お陰ですぐにゴミが取れて、井戸まで洗いに行かずに済んだんだ」
「そ、そうなのか?」
「そうだよフリッツ。せっかくだから色々と剣術のお話を聞けばよかったのに、慌てて何処かに行っちゃうんだから!」
「……」
黙り込んだフリッツを前に、リーシェは内心で冷や汗をかく。
これでは誤魔化せないだろうか。ごくりと固唾を飲んだのと同時に、フリッツが口を開く。
「す……」
「す?」
「――すっげーなルー!! まさかアルノルト殿下に直々に、目のゴミを取ってもらえるなんて!!」
(よかったああ……!!)
フリッツが信じてくれたのだと分かり、リーシェは力が抜けそうになった。
晴れ晴れとした顔になったフリッツも、何故かひどく安堵したようだ。
「そっか、目にゴミが……。なんだ、そうだったのか……」
(フリッツは、アルノルト殿下に憧れているんだものね。英雄同然に思っている人が、一介の訓練生を壁に追い詰めている現場なんて、見たくなかったに違いないわ……)
この件で一晩悩ませてしまったのかと思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「そういえばルー、昨日呼び止めようとしてくれてたもんな。もしかして、俺とアルノルト殿下を会わせようとしてくれてたのか! あーっ、早とちりして俺、情けないところを……」
フリッツが頭を抱えるので、リーシェはそっと励ました。
「アルノルト殿下に良いところを見せる機会は、本物の騎士になったらいくらでもあるよ。フリッツなら絶対に大丈夫」
「……」
するとフリッツは、そのままへなへなとしゃがみこみ、項垂れた。
「……ルー。今から格好悪い話をする」
「うん? どうしたの」
「夕べぐるぐる考えて、怖気づいちゃってさ」
フリッツの様子がおかしかったのは、他にも理由があるようだ。
リーシェが首をかしげると、彼は静かに話し始めた。
「――俺が騎士を目指すようになったのは、アルノルト殿下の影響だ」
「覚えてる。敵国に襲撃されたフリッツの町を、アルノルト殿下が救ったんだよね?」
こくんと頷いたフリッツが、消沈した様子で言葉を続ける。
「俺にとって、嬉しいだけの出来事だったみたいに話しただろ? だけど本当は違うんだ。わざと明るく言っただけで、あの日の思い出は他にもある」
(……やっぱり、そうだったのね)
フリッツは、アルノルトの剣を見たことがあると言っていた。
だが、彼が安全に逃がされた子供であったのなら、そんな機会が訪れるはずもない。
リーシェの知る皇帝アルノルト・ハインは、自らが最前線に立っていた。
今回の人生で、リーシェがガルクハインに来る道中でもおなじだ。馬車が盗賊に襲撃された際、護衛の騎士がいるにもかかわらず、アルノルトは馬車を降りて剣を振るった。
(戦地でのアルノルト殿下は、いつだって最も危険な場所にいる)
その剣を目の当たりにしたというなら、シウテナが戦場になったときのフリッツは、危険地帯に取り残されていたのだ。
「アルノルト殿下に助けられたのは、俺にとって夢みたいな出来事だった。……あの日に起きた全部のことが、どこか現実感のない夢だったんだ」
「……うん」
「だけど、全部現実だった」
リーシェがフリッツを見つめると、彼は俯いたままこう続ける。
「情けないだろ? 憧れてた人を目の当たりにして、怖かったことまで思い出した。久しぶりにあの日の夢を見て、騎士になった俺がシウテナに居て。だけど俺はアルノルト殿下と全然違って、怖くて少しも動けなかったんだ」
「……」
「夢の中のルーのことも、助けられなかった」
リーシェはそっとしゃがみこみ、フリッツと目線の高さを合わせた。
「フリッツ。――怖くていいんだよ?」
「……え」
膝の上に頬杖をついて、そっと微笑む。
「戦争は怖くて当然だ。怖くて嫌だと感じるのが、きっと当たり前のことなんだ」
「でも、俺は騎士になろうとしてるんだぞ? 戦うのが怖いなんて、騎士としてなんの価値もない。いくら剣の稽古をしたって、それじゃ戦場で最弱だ」
リーシェは首を横に振る。
「フリッツが弱いはずないだろう? 君はシウテナ戦の被害者で、本当に怖い思いをした。――それなのに、未来の希望とも呼べる憧れを抱いて、現実にするために努力したんだから」
「……ルー」
まっすぐにフリッツの目を見据えると、彼は心底驚いた顔をしていた。
「戦いの怖さを知っている方が、きっと優秀な騎士になれる」
だってリーシェは怖くなかった。
騎士としての人生を生き、主君たちを守るために戦ったあの日、自分が死ぬことを恐れなかった。それこそが騎士の本懐だと、命を賭して戦場に立ったのである。
だからこそ死んでしまったのだ。
その生き方を、あの死に様を選んだことを、決して後悔などしていない。
けれど、はっきりと言い切れる。
「フリッツは強くなるよ。――恐れるべきものを、ちゃんと恐れていられるんだから」
「……」
アーモンドのような形をしたフリッツの目が、驚きに丸く見開かれた。
彼はリーシェの言葉を噛み締め、ゆっくりと自分の中で考える素振りを見せたあと、くしゃりと笑う。
「元気出た。……だけど、ごめんなルー」
困ったような口ぶりなのに、すっきりとした声色だ。フリッツは悪戯っぽく笑い、こんな風に言う。
「お前に『強くなる』って保証されただけで、怖いものなんかなくなっちまいそうだ」
「……ふふ!」
それでは、リーシェの話したことが無に帰すではないか。
冗談めかした言葉に笑い、リーシェは立ち上がる。フリッツもそれに倣いつつ、吹っ切れたような表情を浮かべた。
「一緒に騎士になろうな、ルー」
「……」
その言葉には応えずに、リーシェは柔らかな微笑みを浮かべる。
「……ルー?」
「スヴェンが戻ってきたみたい。みんなで掃除道具を取りに行こうか、フリッツ」
「あ、ああ……」
一緒に歩き出しながら、リーシェはすっと表情を戻した。
(嘘をついていてごめんなさい、フリッツ)
ここで頷く資格はない。
今世のリーシェは、騎士として前線に立つ側ではなく、彼らを戦地に送り込む側の人間だ。
けれど、だからこそ。
(――私は私のなすべきことで、あなたたちを戦争から守らなければ)