63 雪の国の記憶
リーシェが初めてコヨルを訪れたのは、商人の人生でのことだった。
コヨルにも短い夏がある。あれはそんな季節であり、凄まじい雷雨の夕刻だ。タリーとリーシェは、半ば遭難しそうになりながら、湖の畔に建つコヨル城へと辿り着いた。
雨よけの外套も役に立たず、いっそ諦めがつくほどの土砂降りだった。
裏口に通されたあと、出迎えてくれた侍女にタオルを渡されて、ようやく一息つけたのを覚えている。
『はっははは!! 大雨が降る降るとは言われていたが、想像以上の土砂降りだったな』
上司のタリーは大笑いし、ずぶ濡れになった前髪を掻きあげた。
『リーシェ、だからついてこなくて良いって言っただろ? 商談時間を遅らせない判断をしたのは俺だ。お前も他の連中と一緒に、宿で留守番していれば良かったのによ』
『そんなことよりタリー会長!』
リーシェは髪を拭きながら、興奮気味にタリーに話す。
『夏にもこれだけ雨が降るなら、雨除けの外套が売れるのではありませんか? 雪用よりも薄くて軽くて、見た目も明るく涼しげなものが!』
『それは良い案だがお前さん、自分の有り様はどうでもいいのかい。せっかく整えた髪もドレスも、商品を守ってめちゃくちゃじゃねえか』
『だって、人間は拭けば乾きますし』
『はっは!!』
タリーはひとしきり笑ったあと、リーシェを見る。
『まあいい、駆け出しがよく俺についてきた。そういう性根のやつは、ここのお得意さんに好まれる』
『お得意さま?』
それは、この城の使用人などのことだろうか。
『……いずれにしても、この格好でお城に滞在するのは失礼ですよね。納品は間に合いましたし、おいとまを……』
そう言いかけたリーシェをよそに、タリーがにやりと口の端を上げた。
『お久しぶりです、カイル殿下』
『!』
突然そんな風に言い放ったタリーは、そこで紳士めいた一礼をした。
リーシェも咄嗟に体が動き、ドレスの裾を摘まんで頭を下げる。
(『殿下』って、もしかして……)
こつこつと靴音が響いてきて、リーシェたちの前で止まった。
『久しぶりだなタリー。荒天の中、急がせてしまってすまなかった』
『こうしてお目に掛かれたことを、嬉しく思っております。とはいえ、お見苦しい姿で失礼をば』
『一刻も早くと頼んだのは父王だ。すぐに着替えと湯を用意させよう。こちらの女性は?』
『私めの部下で、ヴェルツナーと言う者です』
『では、挨拶をせねばならないな』
凜とした声だ。
まさか王族がここに来たのだろうか。一介の商人を迎えるために、わざわざ裏口まで。
『――お初にお目に掛かります。リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します』
リーシェは頭を下げたまま名乗る。ぽたぽたと髪から雫が落ち、床を濡らした。
『カイル・モーガン・クレヴァリーだ。貴殿たちの来訪を、心より歓迎する』
驚いたのは、その直後である。
『か、カイル殿下!?』
カイルはリーシェに跪いた。
一国の王子が、見習いの商人に対し、迷わず膝をついてみせたのだ。
ひょっとして、これが『コヨルの男性は女性を尊重する』という文化だろうか。
そう思ったのは一瞬のことで、リーシェはすぐに彼の真意を知る。
『雨の中、馬と馬車を守りながらの道中は苦労しただろう。それでなくとも船旅で、危険を冒してまで良く来てくれた。この国は物資に乏しく、あなた方のような商人に支えられ、それによって国民の生活を守ることが出来ている』
水色の瞳を持つその王子は、リーシェの目を真っ直ぐ見て言った。
『――僕はあなた方商人に、尊敬の念と感謝を捧げよう』
これが最初の出会いである。
カイルは王族でありながら、様々な立場の相手に対し、敬意を抱く人物だったのだ。
使用人のことも、カイルを守る騎士のことも。自国の国民にも、老いた人にも、自分よりずっと幼い子供にさえも。
『君がハクレイの弟子か。彼女からの手紙でも、将来有望な薬師だと聞いている』
薬師の人生では、病弱な体を押してまで港に迎えに来てくれた。
『ミシェルが教え子を取るなどと、想像してみたこともなかった。苦労はお察しするが、優秀な錬金術師にお越しいただけたことは嬉しく思う。あなた方の持つ叡智を、少しばかり我が国に貸していただけないだろうか』
錬金術師の人生でも、世間一般のように怪しい学問だと切り捨てるようなことはなく、リーシェやミシェルがやりたいことに耳を傾けてくれた。
膝をつき、同じ目線で話を聞いて、相手に寄り添おうとする。
カイルは決して横柄に振る舞うことはなく、それでいて、王族としての責任を果たそうと努めていた。
そんなカイルと一番長い時間を過ごしたのは、錬金術師としての人生だろう。
リーシェはミシェルと出会い、彼の教え子となって、それから共にコヨルへと渡った。
そして、学問に関する公務を担当していたカイルの元で、さまざまな研究をすることになったのだ。そのため、こんな出来事もしょっちゅうだった。
『――ミシェル。先日あれほど言ったのに、また部屋の掃除を怠ったそうだな』
カイルがリーシェたちを叱るとき、彼はまるで保護者のようでもある。
その日もカイルは、自分よりずっと年上であるはずのミシェルをソファに座らせ、自分はその前に腕を組んで立っていた。
『他の学者から苦情が来たぞ。全身血まみれで戻ってきたお前が、研究室に閉じこもって恐ろしかったと。研究室の絨毯を汚して、今度はなんの研究をしていたんだ』
困ったように眉を下げたミシェルが、隣に座るリーシェに尋ねてくる。
『どうしようリーシェ、覚えていない。先日そんなことがあったのかな?』
『先生、あのときですよ。牛のお産を手伝って、代わりに検体をもらったと仰ってた件です』
『ああー、あれかあ!』
ぱっと嬉しそうになったミシェルを見下ろし、カイルは難しい顔をする。
『……それだけじゃない。研究室に寝泊まりばかりして、私室に戻っていないだろう。部屋に手つかずの食事を放置したままにしているから、卵が腐って悪臭を放っているらしい』
『あはは。最近天気もよかったしね』
『すみません、カイル王子……』
自然の摂理を受け入れているミシェルに代わり、教え子であるリーシェが頭を下げた。
『今後は十分に気をつけます。汚れた姿で研究に没頭することは控えていただきますし、配膳された食事は完食いただくようにしますので……! もう二度と、「食事を取りに行くのが面倒だから」という理由で、お庭の花を食べてしまうようなことを見過ごしたりしません!』
『待て、最後のは僕も初耳だぞ。――それに、問題にしているのはミシェルのことだけではない』
へ、と声が出る。リーシェが顔を上げると、カイルはこちらを見下ろしていた。
『君もだ、ヴェルツナー』
『え!?』
『本を大量に貯蔵していて、「石床すら抜けかねない」と報告が入った。読み終わったものに関しては、どこかに移すのが適切ではないか?』
『そ、それは……!』
『それに、君の身長より高く本を積み上げるのはやめるよう言ったはずだ。地震などで倒壊する危険もあるし、危ないだろう』
『……返す言葉もございません……』
とはいえ部屋にある本は、どれも貴重で勉強になるものだ。
何度も読み込み、内容は頭に入っている。けれども本というものは、読むタイミングによって全く違う気づきが得られるものでもあった。
(居候の身だし、お城に迷惑をかける訳にはいかないわ……。でも、手放そうにも優先順位がつけられない!! せめてあと二週間、いいえ三週間は検討と最後の一読に費やさないと……)
『よって、僕の持つ部屋のひとつを、書庫として君たちに開放する』
『……すみませんカイル王子、やっぱり処分には一ヶ月ほどお時間を……って、え!?』
衝撃の言葉に、リーシェは心底驚いた。
『どうかしたか?』
『よ、よろしいのですか? 部屋にあるのは錬金術の本です。使うのは私くらいのものなのに、部屋をいただいてしまうのはご迷惑なのでは』
錬金術師というものは、『資金と時間を使うばかりで、結果の方はほとんど出せない』という目で見られるのが常だ。
ミシェルがコヨルに招かれているのも、求められているのは錬金の知識ではなく、薬学をはじめとするさまざまな知識を期待されてのことだった。
カイルには本来、『錬金術師』としてのリーシェたちを尊重する理由など、無いはずなのだ。
けれども彼は迷わずに言った。まっすぐな意思を感じさせる、凜としたまなざしで。
『君たちを支えるのが僕の義務だ。僕自身の振る舞いに、一切の妥協はしたくない』
『カイル王子……』
その言葉通り、カイルは何度もリーシェたちを助けてくれた。
『お前たち、また食事も摂らず研究に没頭しているのか……!? 待て、分かった動かなくて良い、フラスコを見ていて良いからすぐさまこのパンを口に運べ。先に水を飲め』
『研究資金であれば、僕が父に掛け合おう。――お前たちであれば、必ず結果を出すと分かっているんだ。必ず首を縦に振らせてみせる』
『上手くいったのか!? ……そうか、おめでとう』
『何よりも、お前たちの頑張りが報われたことが、僕にとっては本当に嬉しい』
ガルクハイン皇城の一室で、リーシェは静かに考え込む。
(……カイル王子には、どの人生でも本当に良くしていただいた。だからこそ、私は……)
「リーシェ」
目の前のミシェルに呼び掛けられ、顔を上げる。
午前中、アルノルトに訓練の継続を許されたリーシェは、午後になってコヨルの学者たちが滞在する塔を訪れていた。
「一通り目を通したよ。着眼点がとっても良いし、面白い。私も結果に興味があるな」
「ありがとうございます、ミシェル先生」
卓上に並べたのは、ミシェルと再会してから数日間のあいだに書き出した研究の案だった。
これらは錬金術師の人生において、志半ばのままに終わってしまったものだ。今後の戦争回避計画に使えそうなものもあったため、ミシェルの意見を聞いておきたかった。
「どれもこれも、ある程度の検証がされてるんだね」
「実家にいたころに、趣味で少々。この国に嫁いできた関係で、中断してしまいましたが」
リーシェは真実に嘘を混ぜる。実際は、研究の途中で死んでしまったせいなのだけれど。
「参考までにお聞きしたいのですが、この素材を使った実験をなさったことは?」
「あるよ。だからこそここの配分が気になるかなあ。素材に対して薬液が強すぎるから――……」
護衛の騎士たちに見守られながら、リーシェはミシェルに色々と尋ねる。
(……いまのコヨル国が持つ武器には、ミシェル先生という学者の存在がある。アルノルト殿下は興味を持たれるでしょうけれど……両国の友好には繋がらないわ。ミシェル先生は、今後ずっとコヨルに属するわけではないもの)
それに、と思う。
ミシェルとアルノルトを近づけたくない理由は、もうひとつあるのだ。かつてミシェルと袂を分けたときのことを思い出し、ぎゅっと両手を握り締める。
「ねえリーシェ」
議論の言葉を止めて、ミシェルが柔らかく微笑んだ。
「君は勉強が好きなのかな?」
「はい、とても!」
その問い掛けに、本心から頷く。
「新しいことを学ぶのは、どんなことでもわくわくします。世界がどんどん広がって、さまざまな見方を知ることが出来れば、昨日までの景色すら違って見えますもの」
「ふふふ、そうだねえ。学ぶことは楽しいし、それを実践するのも楽しい」
「はい。机の上で組み立てた理論が、実験で証明できたときは、嬉しくて飛び上がってしまいます」
「よく分かるよ。それに、やっぱりそうだって確信した」
ミシェルは机に頬杖をつき、とろけるような微笑を浮かべて言うのだ。
「――君は、お妃さまになんか向いていないよ」
「……」
護衛の騎士が何か言いかけたので、リーシェは視線でそれを止めた。
誤解される要素をはらんでいるが、ミシェルに悪気はまったくないのだ。彼は晴れ晴れとした声で、こう続ける。
「だってそうだろう? 君には、望んだときに何処でも行けて、なんにでも挑戦できるような自由が似合ってる。そんな生き方のほうが、ずっと向いているはずだけどな」
「……先生」
「私のところに来ればいいのに」
彼が首をかしげると、金色の髪がさらさらと零れる。
「そうすれば、君の知らないことをたくさん知ることが出来るよ。全部なんでも教えてあげるよ?」
「……お誘い、本当にありがとうございます。ですが、私がいま最も知りたいことは……」
リーシェは窓辺に視線を遣った。
遠くには、リーシェたちの部屋がある離宮が見える。アルノルトは執務に戻り、あの一室で公務をしているはずだ。
「アルノルト・ハインか」
「!」
ぎくりと体が強張った。
ミシェルが目を伏せると、その長い睫毛の影が頬に落ちる。
「私も彼に興味がある。カイルのお願いが断られたそうなのだけれど、そのときの断り文句がとても私の実験向きでね? とある薬品を彼に渡したら、どんなことが起きるかを知りたいんだ」
「あ……」
嫌な汗がじわりと滲むのを感じた。
「私は火薬と名を付けた。君の旦那さまであれば、ふふっ」
ミシェルは、どこか暗さを感じる瞳でリーシェを見つめながら言う。
「――とても効果的に使ってくれるような気がするよ」