61 企みごとが気付かれました
(どっ、どうしてアルノルト殿下がここに!? 正式な騎士の訓練ならともかく、 候補生の訓練に皇太子が来るなんて!!)
テオドールだって、この訓練場にアルノルトが足を運ぶことはないと言っていたはずだ。
だが、目の前に立つ美丈夫の姿を見間違えるはずもない。
「…………」
「…………」
アルノルトに無言で見つめられ、冷や汗がだらだらと伝うのを感じた。
時間にすれば一秒ほどだろうか。他人には瞬きほどの短さだろうが、リーシェからすれば随分長く感じられる。
騎士人生において、緊迫した戦闘中に周りの光景がゆっくり見えることがあったが、剣も握っていないのにこの緊張感はなんなのだろう。
「――……」
リーシェが身構えたそのときだ。
アルノルトは、ふっとリーシェから視線を外し、隣に立つ臣下にこう命じた。
「ローヴァイン。さっさと訓練を始めろ」
(……んっ!?)
拍子抜けしたリーシェとは裏腹に、アルノルトが淡々と言葉を続ける。
「訓練生たちの動きを見たい。訓練項目はどうなっている?」
「は。すでに手合わせは取り入れております。柔軟と走り込みのあとに実施し、そのあと筋力鍛錬となっておりますが、如何いたしましょう」
「では柔軟後に手合わせを。体が十分に解れ、体力的な消耗のない状態を確認する」
アルノルトが何か喋るだけで、訓練生たちは背筋が伸びるようだった。アルノルトは先ほどの一度を除き、あとはリーシェの方を見もしない。
(ま、まさか気付かれてないのかしら……!?)
――いや、そんな訳はない。
心の中に湧いた希望的観測に、自分で思いっきり訂正を入れる。
短髪のカツラを被っているとはいえ、顔立ちはほんの少し化粧で印象を変えただけだ。リーシェを知っている人が見れば、一目で気付かれてしまうだろう。
そもそも、なにかしらの方法で顔立ちを大幅に変えていたとしても、相手はアルノルトだ。
リーシェの立ち姿や歩き方、ちょっとした動きの癖などで見抜かれてしまう気しかしない。
(それでも、ほんの十日間だけ逃げ切れば良いはずだったのに! 公務に多忙なアルノルト殿下とここで鉢合わせるなんて、どういうことなの……!?)
アルノルトの命令を受けて、ローヴァインが候補生たちに指示を出す。
「それでは、いつも通りまず柔軟から入りなさい。アルノルト殿下がいらしているからといって、浮足立つことのないように」
「はい!」
声を揃えて返事をし、それぞれいつもの場所に散らばる。リーシェも駆け足で訓練場の隅に向かいつつ、アルノルトの気配をそっと探った。
「なあルー、すごいな! あのアルノルト殿下、本物だぜ!?」
「う、うん、よかったねフリッツ」
引き攣り笑いを浮かべたリーシェは、もうひとつの希望的観測を抱いてみる。
(もしかして、見逃してくださるつもりかも)
リーシェの存在など気付かなかったことにし、何も言わないでいてくれるのかもしれない。
そうであれば、リーシェもここでの訓練を続けられる。
テオドールとの条件であった、『訓練中はアルノルトに隠し通し、訓練後に真相を明かすときは自分も同席させること』というのも、なんとなく守れるのではないだろうか。
ほのかな期待を抱きつつ、いつも通りの訓練と手合わせを終えた、そのあとだった。
***
「――――で?」
「………………」
訓練場の裏手に呼び出されたリーシェは、壁とアルノルトの間に挟まれて絶望していた。
訓練のあいだ中、アルノルトは一切リーシェに構わず、ローヴァインと共に訓練生たちの様子を分析していたのだ。
このまま何事も起きずに終わることを祈っていたが、そんな思いは当然のごとく打ち砕かれる。
「お前は一体、ここで何をしている」
「え、えーっと……」
間近から見下ろされ、まともにアルノルトの顔が見られない。壁に背中を張り付かせたリーシェは、ぎこちなく顔を逸らす。
「こ……皇太子殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう……。一介の訓練生に直々のお声掛け、恐悦至極に存じます……」
「……ほう?」
白々しいことは承知の上で、一応は訓練生のふりをしてみる。それに、周りに誰の気配もないのは分かっているが、下手な会話を聞かれてもいけない。
「なるほどな」
リーシェの言葉を聞いたアルノルトは、おもむろに手を伸ばした。
最近は黒い手袋をつけていることが多いアルノルトだが、いまは何も着用していない素手だ。
何かと思えば、アルノルトはその両手でリーシェの顔をくるみ、むにっと頬を押さえるようにした。
「むっ!?」
「お前が俺の思っている人物でないのなら、つまるところ、俺が直接触れても構わないということになるが」
「!!」
突然そんなことを言われ、びっくりしてしまう。
「俺は基本的に、婚約者に対する契約を破ることはないよう努めている。……だが、一介の騎士候補生が相手ならば、そのような配慮をする義務はないな」
(か……顔が近いんですが!?)
両手で上を向かされたまま覗き込まれ、整った顔立ちがますます近付く。
何度見ても芸術品のように美しいアルノルトの容姿は、至近距離で見るには毒と言えるほどだ。
(それに、この感じ、前に一度どこかで……)
そう考えて、不意に思い出した。
頬に触れられ、上を向かされて、アルノルトのくちびるに触れられたときのことを。
あの瞬間の、息が止まりそうな感覚が鮮明に過ぎり、頬が一気に熱くなった。
「……っ!」
アルノルトの手が、ひんやりとして冷たい。
思い出してしまったことを、アルノルトに悟られただろうか。そう考えると、ますます彼の目が見られなくなった。
しかし、そんなリーシェに対し、アルノルトは容赦がない。
「ほら。早く俺に反論してみろ」
「殿下……!! 最初は怒ってるのかと思いましたけど、実はぜったい楽しんでますよね!?」
「なぜ? 俺にただの候補生で遊ぶ趣味はない」
そんなことを言いつつ、アルノルトはリーシェの頬を両手で押さえる。むにむにと動かされると上手く喋れないのだが、そのとき不意に気が付いた。
「アルノルト殿下、いったん離れてください!」
「断る」
「だって、人が来……っ」
気配が近づき足音がする。アルノルトだって気が付いているはずなのに、彼がやめてくれる様子はない。
「おーい、ルー? ルーシャス、何処に……」
リーシェが思った通りの人物が、訓練場の裏手に足を踏み入れた。思いっきり目が合って、息を呑む。
そこにいたのは、同じ候補生であるフリッツだった。
「あ」
そして、思いっきり目撃される。
アルノルトに壁際へと追い詰められ、顔を両手でくるまれて、間近に覗き込まれているこの現状を。
「あ、アルノルト皇子!?」
思わずそう呼んでしまったらしいフリッツが、慌ててそれを言い直す。
「じゃ、じゃなくて皇太子殿下!! えっ、あれっ、ルー!? なんで!?」
「フリッツ! 違うんだ、これは!」
別にこれは、冗談で遊ばれているだけなのだ。アルノルトの振る舞いが誤解される前に訂正しようとしたのだが、フリッツは裏返った声で叫んだ。
「し、失礼しました!!」
(何が!?)
リーシェが何か言う前に、フリッツが慌てて駆け出す。
「ちょ、フリッツ、待っ……!」
呼び止めたのだが、彼の気配は一直線に走り抜けていった。
「あ……アルノルト殿下!? 人に見られましたよ今、思いっきり! 彼は絶対大丈夫ですけど、相手次第ではどんな噂が立つことか!」
「噂を立てられたからどうだというんだ。問題があるか?」
「大有りです!」
「へえ。どういった点が」
フリッツが来てからも、アルノルトは一度もリーシェから視線を外さなかった。先ほどの訓練中とは大きな違いだ。
「こ……」
リーシェは、何故か無性に恥ずかしいことを言わなくてはならないような気持ちで、口を開く。
「婚約者の方が、いらっしゃるのでは……」
「……」
すると、アルノルトがぴたりと手を止めた。
妙な沈黙が流れるが、これは一体なんの時間なのだろう。そう思っているとややあって、アルノルトが言った。
「まあ、いるな」
「そ、そうでしょうそうでしょう! だから、こんなところで候補生を……」
「とはいえ」
「わぷっ」
再び頬をむにっと押され、変な声が出た。
「『ただの騎士候補生』が、この俺に向かって随分と無礼な口を利くじゃないか」
「うぐぐぐ……」
そう言われ、リーシェは覚悟を決める。協力してくれたテオドールには申し訳ないが、ここが限界だ。
「……申し訳ありませんでした」
「なんに対する謝罪だか分からないな。何をしたのか、自分の口でちゃんと言え」
「わ、私は殿下に秘密で男装し、騎士候補生の訓練に潜り込んでいました! 誠に申し訳ありません!」
「上出来だ」
ぱっと手が離れ、ようやく解放されたリーシェは、その場にへなへなとしゃがみこんだ。
「はああ……」
アルノルトにくるまれていた頬が熱いような、手の冷たさがまだ残っているような、なんだか不思議な感覚だ。自分の両手で上からくるみ、深呼吸をする。
アルノルトはやっぱり、少しだけ楽しそうではなかっただろうか。訓練以上に消耗したリーシェを見下ろして、彼はこう尋ねてきた。
「それで? こんな真似をして、今度は何を企んでいる」
「純粋に、体を鍛えたくて」
「……」
「本当ですよ!?」
疑いの目を向けられて心外だ。だが、アルノルトを欺こうとしたのは自分なので、それも仕方ない。
「殿下こそ、どうして自ら候補生の視察にいらしたのですか?」
尋ねると、アルノルトは僅かに間を置いたあと、表情だけはどうでもよさそうにこう言った。
「……今期の候補生には、テオドールの名で推薦があったと聞いた」
「!」
それはつまり、リーシェのことだ。
しかしリーシェが驚いたのは、『アルノルトが、テオドールの推薦した人物を気に掛けていた』という事実だった。
(テオドール殿下は、アルノルト殿下が候補生の訓練の場に顔を出すことはないと仰っていたけれど……)
でも、そうではなかったのだ。
リーシェは嬉しくなるのと同時に、このことをテオドールに早く教えてあげたくなる。
(テオドール殿下、どんなお顔をなさるかしら)
「そんなことより、話を戻すぞ」
「!」
ぎくりと体を強張らせた。




