59 雪の国との転換点(◆アニメ9話ここまで)
バルコニーに近づいたリーシェは、気配を探り、その場にアルノルトとカイルのふたりしかいないことを確かめた。
(なんとなく、深刻な話をしそうな雰囲気だわ)
本来であれば、こんなバルコニーで言葉を交わすのは不用心だ。しかしアルノルトであれば、不用意に近づく人間がひとりでもいれば、すぐに気が付いてしまうだろう。
それが分かっているからこそ、リーシェは最大限に気配を殺す。踵が高い靴を履いていても、靴音を立てないように歩くことは出来るのだ。
慎重に注意を払い、ローヴァインの動向にも気を付けつつ、柱の陰から耳を澄ませる。
「ガルクハインは実に素晴らしい国ですね。これほどまでに国が栄えているのも、皇帝陛下とアルノルト殿下の手腕の賜物でしょう」
カイルの声は、硬い響きを帯びていた。
さり気ない会話から切り出そうとしているのかもしれないが、それでは駄目だ。緊張や覚悟が滲んだその声を、アルノルトが許容するはずもない。
「回りくどい前置きも、社交辞令が見え透いた賛辞も不要だ」
思った通り、アルノルトはあっさり切り捨てた。
「本題をお話しいただこう。貴殿が病弱な体を押して、遠路はるばるこの国に来た理由をな」
「……アルノルト殿下」
その言葉を聞いて、カイルが浅く深呼吸をする。
「社交辞令などではありません。私は心から、貴殿の皇太子としての功績を尊敬しています。貴殿の行う政治は、か弱い民にこそ配慮し、手を差し伸べるような施策を取っておられる。……貴殿であれば私の想いが分かっていただけるのではと考え、お父君にではなく、こうして貴殿とお話しさせていただいています」
「……」
「どうか、我が国コヨルに力を貸していただけませんか。――金銭や、医療等の支援ではなく」
カイルはそのあとで、アルノルトに告げる。
「軍事の上で、ガルクハインに支援をいただきたい」
その言葉に、リーシェは息を呑んだ。
(コヨル国が、一体どうして)
雪国コヨルは、決して戦争に積極的な国ではない。
その理由は明白で、軍事力に乏しいからだ。
極寒の地にあり、なおかつ周囲を大国に囲まれているコヨルは、外交術と豊かな財源によって国交を行ってきた。
「ご存知の通り、コヨルに軍事力はほとんどありません。……ですが、望んで兵を育てなかったわけではない。長い歴史の中で、周辺諸国から軍事力を持たないように圧力を掛けられ続けた結果です。戦う力を持たず、周辺国に宝石を提供し続けることを条件に、侵略されず存在することを許されている」
いつだったか、カイルが同じような言葉を悔しそうに零していたことがある。
あれは一体、何回目の人生のときだっただろう。
「王室は他国に国の命運を握られ、『その気になればいつでも滅ぼせる』と脅迫され続けてきました。……その境遇から抜け出し、自国の運命を自国で決め、民を守ることに全力を尽くしたい。そこに至るために、どうか力を貸していただけないでしょうか」
アルノルトは、普段より少し低い声音でこう尋ねた。
「つまり、コヨルは周辺国との同盟を破棄し、代わりにガルクハインとの盟約を結びたいと?」
「仰る通りです」
「……」
バルコニーは、少しのあいだ沈黙に包まれた。
すぐそばに夜会のざわめきがあるせいで、この場の静寂が強調される。それと共に、カイルの緊張が伝わってきた。
「……一体何を言い出すのかと思えば……」
しばらくして、アルノルトの冷たい声がする。
「平和ボケした王族というものに、存在価値があるのかは疑問だな」
「っ」
その瞬間、空気が一段と張り詰めた。
聞いているだけのリーシェすら、本能的に体が強張るほどだ。アルノルトは、呆れと嘲りを隠しもしない声音で続けた。
「海を挟んだこの国に、隣国と戦うための戦力を求めること自体が愚かしいが。仮に話を進めるとして、我が国が軍事力を提供するのと引き換えに、コヨルは何をもたらすつもりだ?」
「……これまで同盟国に輸出してきた宝石と金銀を、ガルクハインに最優先で輸出するとお約束しましょう。我が国の採算は度外視し、自国で採掘するよりも安価で提供いたします」
その言葉を聞いて、リーシェは理解する。
(……そういうことだったのね)
カイルの話したことは、表面だけ捉えれば、国防を最優先に考えた末のなりふり構わない行動だ。
だが、そうではないことは明白だった。
(駄目です、カイル王子)
リーシェは俯き、心の中で語り掛ける。
(あなたはとても真面目なお方。……嘘をつくのには、向いていない)
「笑わせるな」
アルノルトは案の定、カイルの発言にあった綻びを逃さなかった。
「俺がお前の立場であり、仮に他国へそのような申し出をするならば、宝石の輸出条件には必ず適用期間を設ける。最大の財源である宝石を、利益を無視して提供し続けるなど、緩やかな自害でしかないからな」
「……それは……」
「お前はどうやら、わざわざ期間を区切る必要がないことを知ってるらしい。それが無意識に滲んだと見えるが」
アルノルトの言う通りだ。
そしてリーシェの中には、その推測を裏付ける知識がある。いまから数年後までのあいだ、コヨル国の輸出状況がどんなものだったかを思い描き、理解した。
「コヨル国では最早、宝石をさほど採掘できなくなりつつあるのだろう?」
「……!」
カイルが息を詰めた気配がする。
(そう、だったのね)
これまでカイルとは、さまざまな人生で関わってきた。
そのつど絆を結んできたつもりでいたけれど、彼やコヨル国の抱えていた大きな問題は、一介の商人や薬師でしかなかったリーシェには秘密にされていたのだ。
(当然だわ。こんなこと、国の中核を担う人たちにしか明かせない)
コヨル国は、財力と、政略結婚による外交の力だけで国としての存在を守ってきた。
そのコヨルから財力が消え失せるということは、そのまま国家の滅亡に直結する。
コヨルに差し出せるものがなくなれば、周辺国はコヨルを巡って争い、勝った国が領地を自国のものにしてお終いだろう。
(……それに近いことが、未来でも起きていた)
それは、皇帝となったアルノルトが、世界に戦争を仕掛けた際のことである。
コヨルのように戦う力のない国は、戦いの前に降伏することが、最も被害の少なく済む方法のはずだった。
だが、コヨルを取り囲む周辺諸国はそれを許さなかったのだ。
なにしろ、ガルクハインからの航路はすべて、コヨルの港に繋がっている。
コヨル国がガルクハインに奪われれば、北の大陸諸国にとっては大きな痛手だ。
だからこそ同盟国は、一緒に戦うことをコヨルに強いた。コヨルがそれを拒むのであれば、ガルクハインよりも先にコヨルへ攻め入ると布告したのである。
コヨルは仕方なく戦争に応じた。
国内にほんの僅かしかいない騎士たちを搔き集めて戦場に投じ、結局そのほとんどが殺されてしまったという。
薬師の人生での出来事を、リーシェはいまも覚えている。
『ヴェルツナー。僕はこの国を守りたい』
あれはもはや、コヨルにまともな騎士など生き残っていない状況下でのことだ。自ら剣を手にしたカイルは、リーシェが止めるのも聞かずに言った。
『そのためならば、手段は選ばないつもりだ。……それが、死に損なって生まれてきた僕に課せられている、最大の責務だろう』
カイルがそれからどうなったのか、リーシェは知らない。
外ならぬリーシェ自身が、薬師として出向いたある戦地で命を落としてしまったからだ。
「しかし、どうにも解せないな」
そう口にしたアルノルトは、実際のところ、さほど興味もなさそうに尋ねる。
「お前の行動は、愚行というほかにない。無策にも等しい状態で、何故この国に来た」
その問い掛けには、すぐに返事が返ってくる。
「私の命は、きっとそれほど長くないでしょう」
一種の悲壮な覚悟を帯びたカイルの声が、ゆっくりと語る。
「もうじき我が王家には、新しい命が生まれてくる。その子の未来のためにも、そして自国の民のためにも、私はいま私に出来ることをしなくてはならない」
「……は」
アルノルトがひとつ、嘲笑を零した。
話にならないとでも言いたいのであろう、雄弁なものだ。
それからアルノルトはカイルに向けて、思わぬことを告げた。
「俺の知る、戦争の勝ち方を教えてやろうか」
「……いま、なんと仰いました?」
カイルと同様に、隠れて聞いているリーシェも驚く。だが、アルノルトは意にも介さない。
「――王においては、普段から民心を掴んだ政治をすること。軍の将には、知謀と指揮統率力に優れた者を置くこと」
こつりと硬い靴音が響く。
「兵は熟練した者を選び、命令と規律の遵守を徹底させること。兵に対する賞も罰も、どちらも公平かつ厳格に行うこと。戦場の地形を掌握し、可能な限り自軍に有利な天候、気候下で進めること。……他にもあるが、基本はこんなものだろうな」
カイルに手の内を語ったアルノルトは、こうも続けた。
「だが、俺がいま告げたような知識をお前が持っていようと、コヨル国は戦争に勝てないだろう。それは、お前たちにこの知識を実行に移す力が無いからだ。お前の国民は冬を越すための薪を割る手を止めて、訓練に励むことが出来るのか。土地を肥やす工夫に使う時間を、他国との争いに使っている暇があるのか?」
「それは……」
「出来ないと判断したからこそ、かつての王族は外交に活路を見い出したのだろう」
カイルに向けて、アルノルトは容赦せず言葉を向ける。
「能力がある者というのは、身に着けた知識を実用できる者のことだ。そして俺は、無能な人間に興味はない。……それが、近隣国の王族であろうとな」
「お待ちください、アルノルト殿下」
「断る。そもそも思い違いをしているようだから言っておくが、この国の皇帝と俺は同類だ」
その瞬間、場の空気がさらに冷たさを帯びた。
「他国と手を結ぶよりも、侵略して支配下に置く方が、俺の性には合っている」
「……っ」
アルノルトの靴音が、バルコニーから響いてくる。リーシェは彼に気付かれる前に、すぐさまその場を離れた。
ローヴァインの気配に注意しつつ、足早に一度ホールを出る。大勢の人々が談話する声を背に、主城内の廊下の隅へと逃れた。
そして物陰で考える。
頭の中で渦を巻くのは、もちろん先ほどの出来事だ。
(――これは、ひとつの転換点だわ)
リーシェは短く息を吐く。
(カイル王子がアルノルト殿下に対し、同盟締結を提案した。ガルクハインの歴史においては、ほんの些細な出来事かもしれないけれど……コヨル国にとっては、五年後に起こる悲劇を変えるための、大きな歴史の分岐になる)
なにしろかつてのコヨルには、ガルクハインに滅ぼされるか、周辺諸国に滅ぼされるかの選択しか選べなかったのだ。
けれど、もしもここでガルクハインと友好関係を築き上げることが出来れば。
それを契機に、周辺国に怯えずに済むだけの力を手に入れることが出来たのなら、それはコヨルの命運を変えるのではないだろうか。
(絶対に、ここで間違えるわけにはいかない)
リーシェはくちびるをきゅっと結ぶ。
(カイル王子は、ガルクハインとの同盟を組むためならなんでもする覚悟のはず。だけど、それでは無意味だわ。コヨルが従属的な立場のままでは、コヨルの支配者が、同盟国からガルクハインに変わるだけ)
そうなれば、目指すべきはただ一点のみだ。
(――つまり、決して大きな力を持たないコヨル国に、強国ガルクハインとの対等な関係を結んでもらう必要がある……?)
リーシェはその場に蹲りそうになった。
果たしてそんな方法があるのだろうか。ガルクハインの皇帝に会えない以上、リーシェが何か出来るとすれば、それはアルノルトの考えを変えるしかない。
『他国と手を結ぶよりも、侵略して支配下に置く方が、俺の性には合っている』
そう言い放った声音は本気だった。
掴み取らなければならない道の途方もなさに、リーシェはぎゅっと両手を握り締める。