54 かつての先生にお答えします
『人間の生み出したるものは、正しく使われなくてはならない』
リーシェが彼と最後に会ったのも、ちょうどこのような月夜のことだった。
『――それには概ね同意するけれど、この訓戒には問題がある。それはつまり、「正しさ」なんて、誰にも定義できないということだよ』
天才と呼ばれるミシェル・エヴァンは、あのときも香り煙草を咥え、花の香りを身に纏いながら言ったのだ。
『私のこの「薬」を使えば、きっと世界は簡単に壊れる。それは正しくないことだと、カイルであれば止めるだろうね。でも、本当にそうなのだろうか』
『先生。それは……』
『ねえリーシェ』
淡い金色の髪を耳に掛けながら、ミシェルはそっと微笑んだ。
『自分が生み出したものが、世界をどんな風に変えるのか見てみたいと願うのは、そんなに悪いこと?』
『……』
菫色をした瞳がリーシェを見る。
彼はこころ寂しげに、それでいて微笑みを消さないまま口にした。
『――さようなら、私の教え子。願わくは君の人生が、君にとって正しきものでありますように』
彼と会ったのはそれっきりだ。
そんなミシェルがいま、目の前に立っている。
驚いて立ち尽くすリーシェを守るように、ふたりの護衛騎士が歩み出た。
「失礼いたします。コヨル国のお客さまとお見受けしますが、念のためお名前をお聞かせ願えるでしょうか」
「んん? ……ああ! 驚かせたのならすまないね」
ミシェルはそう言って一礼をした。
体の重心に芯がない、ふわふわとした立ち振る舞いだ。
「私はミシェル・エヴァン。君たちの推察通り、コヨルから来た者だよ」
「皆さまにお泊まりいただいている塔は、ここから少し離れた場所にあります。警備の騎士が、おひとりで外出させてしまったようで申し訳ありません」
「エヴァンさま。城内で迷われたようでしたら、ただちに他の騎士を呼び、塔までご案内いたしましょう」
普段はやさしい騎士たちが、どこか張り詰めた空気でミシェルに接する。それでいて、外交上の無礼には当たらない振る舞いだ。
だが、当のミシェルは意にも介さず、にこにこ微笑みながらこう言った。
「やさしいね。でも、私は迷子じゃないよ。そこの女の子に興味があるから、ちょっと話を聞いてみたいんだ」
「エヴァン殿。失礼ながら、この方は我が国の……」
「大丈夫です。おふたりとも」
リーシェが止めると、騎士たちは「承知しました」と言い、一歩ずつ後ろへ下がった。
守ろうとしてくれた彼らに感謝しつつ、リーシェはミシェルに向き直る。
(ここで先生に会ってしまったのは、本当にびっくりしたけれど!)
ひとまずは初対面の人間として、初対面らしい挨拶と質問をしなくてはならない。
「リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナーと申します。エヴァンさまは、カイル王子殿下がお連れになった学者の方でしょうか?」
「まあ、学者という言い方が最も適切かな? 私は研究優先で、現場での仕事はほとんどすることがないからね」
ミシェルはくすっと笑いながら、人差し指をこちらに向ける。
「――その爪」
彼が示したのは、爪紅でピンク色に彩ったリーシェの指先だ。コヨル国に爪紅を流通させる布石になればと、カイルと会う前に塗り、まだ落としていないものである。
「ジェルウッドの樹液かな。本来であれば乳白色の樹液を、何か染料で着色しているみたいだけど」
「……」
指摘され、こくりと喉を鳴らす。
(これを一目見ただけで、そこまで見抜くなんて)
この爪紅は、リーシェが作り出したものだ。
当然ミシェルは存在を知らず、いま初めて目にしたもののはずだが、あっという間に分析されてしまう。
「硬化にはどんな方法を使ったの?」
「リッシ草にジビーの花蜜、ラペト草を加え、膠と一緒に調合しました」
「なるほど。それは上手な組み合わせだなあ」
ミシェルは感心したような声で、改めてリーシェの爪を観察した。
「キリル草を使わないのは、余計な気泡の発生を防ぐためかい?」
「仰る通りです。すべてお見通しなのですね」
「まあ、理論上の計算をしただけに過ぎないけどね」
ミシェルは言い、悪戯っぽい目を向けてきた。
「――そこに混ぜるものが、エストマの樹液だったらどうなると思う?」
「!」
頭の中に浮かぶのは、実験を繰り返してきた日々のことだ。
(エストマの樹液は、先生の元にいたときに何度も扱ったわ。だからこそ、なんとなくの想像は思い描ける)
リーシェはミシェルの目を見上げ、頭の中に組み上がった推測を答える。
「私が調合したものよりも、もっと強力に固まるかと。欠けた歯の接着にも使える頑丈さで、濁りはなく、透明なまま硬化するように思えます」
「うん。私も君の意見に賛成だな」
「……ですが、これはあくまで想像の域を出ません。実際の結果がどうなるかは、検証しなくては導き出せないかと」
そう告げると、ミシェルは少しだけ目を丸くした。
続いてふっと柔らかく笑み、満足そうに頷く。
「君はとってもいい子だね。理論の組み立てが出来て、応用も利いて、実験と実証を大事にしている。叶うことならば、私の教え子にしたいくらいだ」
「ありがとうございます、エヴァンさま」
かつての人生でも、これと同じような言葉を掛けられた。
だが、あのときと同様の返事はできない。
「師事することは難しいですが……エヴァンさまが滞在なさっているあいだだけでも、色々とご教示いただけないでしょうか」
「ああ、もちろん構わないよ。私もまだまだ勉強中の身で、知らないことは山ほどあるが」
「ありがとうございます。では、エヴァンさまは私の『先生』ですね」
「先生か。ふふ、なんだか面白いな」
機嫌の良いミシェルに微笑みを向けつつ、リーシェは考えを巡らせる。
(……問題は、先生がガルクハインに来た目的だわ。これがもし、あの『薬』のためだったら……)
焦燥にも似た感覚が、胸の中にじわりと湧いた。
しかし、もしも違うのであれば、余計なことを尋ねて矛先を向けたくはない。
彼は純粋に、カイルの命令で同行している可能性もあるのだ。さまざまな状況に考えを巡らせていると、ミシェルの視線が畑へと戻される。
「ところで我が教え子。最初の質問に戻るけれど聞いても良いかい?」
「はい、なんでしょう?」
「この畑に生えている植物は、私の専門分野とは少し外れているようだ。だからそれほど詳しくないし、あくまで推測になるのだが――」
指の間に挟んでいた香り煙草を咥えながら、ミシェルが言った。
「ひょっとして君は、カイルに一服盛るつもりかな?」
「……」
詳しくないなどと言いながら、しっかり用途を見抜くのはやめてもらいたい。
お陰で傍らの近衛騎士たちが、驚愕のまなざしでリーシェを見てくるではないか。
(たとえ専門の分野でも、『自分は詳しい』なんて仰らないのが先生だわ。『万物を知っているわけでもないのに、完璧に理解できたなんて言えるはずもない』って)
そんなところは相変わらずだ。
いいや、このミシェルはリーシェの知る以前のミシェルだから、相変わらずだなんて言い方は間違いかもしれないが。
「あのですね、先生」
こほんと咳払いをし、リーシェは言った。
「そのことで、早速ご相談があるのです」
これは絶好の機会である。
(ごめんなさい先生。だけど出会ってしまったからには、カイル王子のため働いていただきます!)
***
(――とは言ったものの……)
自らが招いた展開に、リーシェは頭を抱えたくなった。
やってきたのは主城の応接室だ。昼間に使った部屋とは違う、もう少しこじんまりとした一室である。
その部屋には、リーシェとミシェルと護衛の騎士、それから呼び出されたカイルがいた。
(まさか、いきなりカイル王子のところに行くとは思わなかったわ)
真っ直ぐ背筋を正して椅子に座るカイルは、完全に困惑しきった顔をしつつも、リーシェには丁寧に挨拶を述べる。
「素晴らしい夜をありがとうございます、リーシェ殿。一日に二度も貴女にお目に掛かる幸運が訪れようとは、身に余るこの喜びをなんと表現したらいいか……」
「カイル殿下、どうかくれぐれもお気遣いなく。お心のままに発言なさってください」
「……では、お言葉に甘えて。ミシェル、お前は一体何をしているんだ」
カイルは困った顔のまま、自身の隣に座るミシェルを見た。ミシェルはにこにこ微笑みながら、やさしい声音で言う。
「中庭ですごい子を見つけたんだよ。とても良いものを持っていたから、カイルにも早く紹介したくて」
「言葉を慎むべきだ。そのお方は、ガルクハイン国皇太子殿下の婚約者殿だぞ」
「あれ、そうだったの? でもこの子、ついさっき私の教え子になったんだよね」
「教え子?」
「そう。いいでしょ」
「……?」
カイルから不思議そうな目を向けられて、リーシェは『すみません』と頭を下げる。
ついついミシェルの身内のように謝ってしまうのは、彼の教え子だった人生の名残だ。
「簡単に言うと、この子はとても薬学に精通しててね。彼女の調薬したものが、カイルの体に効きそうなんだ」
「調薬? リーシェ殿が?」
「なんと、レンファ出身の師匠に学んだんだって。少し話を聞いた限り、かなり私と気が合いそうなお師匠さまだったよ。ね? リーシェ」
「あはは……」
ミシェルの問い掛けを笑顔で誤魔化す。そんなこと気にもせず、ミシェルは続けた。
「私には専門外の薬草だったけれど、それでも薬効くらいは把握している。確かに効果がありそうだし、副作用も日常生活に支障の無い範囲。これは是非とも、カイルに飲んでもらって実験するべきだと思ってね」
「先生、一国の王子殿下をお相手に『実験』は駄目です……!」
「あれ? 失敗したかな。常識というのは難しいね」
ミシェルは驚いた顔の後、なんともいえない表情をしているカイルを見て、にこりと微笑んだ。
「でも、私は心から、カイルに早く治ってほしいなあと思っているよ」
「……」
(あああ、先生、その言い方は……)
カイルはとても生真面目で、誠実な心の持ち主だ。
病弱な体を持ち、それによって迷惑を掛けているという意識が強い分、他人からの誠意を断れない。
「分かった」
(ああー……っ)
案の定、カイルは大真面目な顔で頷いた。
リーシェとしては有り難いのだが、その分心配にもなってしまう。
「カイル殿下、よろしいのですか?」
「我が国随一の学者が保証し、試してみたいと言っている薬です。元よりあらゆる手を尽くす覚悟の身、ここで新たな可能性が生まれたということであれば僥倖だ」
それから彼は、はっきりと言った。
「なにより、女神にも等しいお方に用意いただいた薬ともあれば、それだけである程度の効用はあろうというもの」
「……では、これより準備いたします……」
リーシェは少し遠い目をし、そう返事をしたのだった。