47 彼が殺してしまう人
その男の罪は、『皇帝アルノルト・ハインの暴虐を止めようとした』ことだった。
ルドガー・ラルス・ローヴァイン。
彼は、ガルクハイン国の最北にある土地の伯爵で、皇室に先祖代々仕える忠臣だ。
過去の戦場において、数々の武勲を立てた辺境伯であり、多くの人々に慕われたと聞いている。
しかしその忠臣ローヴァイン伯は、主君であるはずの人物に殺された。
いまから三年後、皇帝となったアルノルトの侵略戦争を諫め、逆鱗に触れて惨殺されるのだ。
(生きたまま嬲り殺しにしたとか、一思いに首を跳ねたとか、色んな噂を耳にしたわ。ローヴァイン伯の『反逆罪』を贖わせるために、皇帝アルノルト・ハインは一族全員を処刑したとも……)
諸国がひどくアルノルトを恐れるようになった一因が、ローヴァインの惨殺事件だった。
そんな人物がいま、リーシェの目の前に立っている。
ローヴァインはそこで、フリッツからリーシェに視線を移した。
「……っ」
灰色の目で見据えられ、少したじろぐ。
あくまで穏やかな表情なのに、纏っている雰囲気が武人そのものだ。
(辺境伯……国境という戦線を任されているだけはあるわ。ともすれば、すべて見抜かれてしまいそう)
このままでは、女であることを暴かれてしまうのではないだろうか。
そんな想像をし、リーシェは固唾を呑んだ。ローヴァインは、薄いくちびるを開いて静かな声で言う。
「……君は」
リーシェの緊張感が高まった瞬間、彼はこう続けた。
「――君は、鶏肉は好きか?」
「へ?」
思わぬ問い掛けをされ、ぽかんと口を開ける。
一方のローヴァインは、至極当たり前のことを聞いたという顔だ。
リーシェやその隣にいるフリッツの混乱を物ともせず、淡々と続ける。
「鶏肉が好きでなければ、ほかの肉でもいいのだが。それから豆、卵、牛乳」
「あの」
「……嫌いか?」
「い、いえ好きです! 嫌いな食べ物はありません!」
「そうか。それは良いことだ」
「……!?」
一体なにを答えさせられているのだろう。
聞きたくても聞ける雰囲気ではないのだが、ローヴァインはやはり生真面目な顔だ。
「食べるのに困る境遇でないならば、もっとたくさん食べなさい。君は見たところ、標準的な男より筋肉量が少ないようだ」
「は……はい! ご指導ありがとうございます!」
そういうことか、と安堵する。
人の体を作る食べ物については、薬師人生で学んでいた。いまはまだそれほど浸透していない知識だが、ローヴァインはそのことを言っているのだろう。
(私の場合、いくら食べても男の人と同じ筋肉量になれないのは、騎士人生で実証済みなのだけれど……)
そういう意味では、やはり女だと気付かれそうだったのかもしれない。表向きは笑顔を作りながらも、内心では冷や冷やする。
ローヴァインは満足したらしく、こくりと頷いた。
「若者はもっと育つべきだ。明日より私も君たちの指導に加わるが、よろしく頼む」
「うわっ、ローヴァインさまが俺たちの指導を!? すげえ! ……じゃなかった、光栄です!!」
嬉しそうにはしゃぐフリッツを見て、ローヴァインはふっと表情を緩めた。
「未来ある者たちの育成に関わることが出来るのは、私としても楽しみだ。旅程が遅れ、今日の訓練には参加できなかったが、君たちの所感はどうだった?」
「……」
フリッツとリーシェは、互いに顔を見合わせる。
先に口を開いたのは、フリッツの方だった。
「正直言うと、すごく俺たちを気遣ってくれてるなって内容でした! 騎士団の訓練っていうからには、もっと吐くまで走らされたり、一時間で立てなくなるような鍛錬をさせられるって覚悟してたんで!」
「僕も少し意外でした。定期的に水を飲ませていただけますし、休憩もありますし……。他国の騎士団の話を聞いたことがありますが、新人にはもっと厳しく指導するとばかり」
リーシェたちの発言に、ローヴァインは頷く。
「確かにごく数年前までは、この国でもそうだった。戦時中ということもあり、即戦力を必要としていたからな。だが、とあるお方がその悪習を変えたのだ」
「悪習? 訓練がですか?」
フリッツが首を捻ると、ローヴァインは丁寧に教えてくれた。
「紛れもない悪習だ。新兵への厳しい訓練によって、『使えない者』をまず潰す。そうやって篩に掛けた人間を、短期間のうちに無理やり鍛え上げ、次々と戦地に送り込んだ」
(……あ)
「しかし我々年長者のやるべきことは、若者を選定するのではなく、育成することだ。最初の段階で選ばれなかった者が、適性のない者だとは限らないのだからな。――なにより今は平時であり、危険な方法を取る必要もない」
リーシェはふと思い出す。
アルノルトの従者であるオリヴァーは、『負傷して、騎士を目指せなくなった』と言っていた。
仮にオリヴァーの負傷が、騎士になるための訓練によるものであるとすれば、その悪習を変えたのが誰であるのかはなんとなく想像がつく。
「君たちも、今回の訓練で思うような成果を発揮できなかったからといって、悲観する必要は全くない。いまはただ、懸命に励みなさい」
「はい!」
「――失礼いたします、ローヴァイン閣下」
騎士の呼ぶ声に、ローヴァインが振り返る。
「間もなく、皇帝陛下が謁見のお支度に入られると。謁見の間にお越し下さい」
「ああ、すぐに向かう。……それでは、また明日」
「お話、ありがとうございました!」
フリッツと並んで頭を下げ、ローヴァインが訓練場から出て行くのを見送る。
リーシェはそのままの姿勢で、色々と考えた。
(……皇帝陛下。アルノルト殿下のお父君。私は一度も会わせていただけないけれど、確かにこの皇城にいらっしゃるのよね……)
リーシェがこの国に来て一ヶ月になる。
いくら広大な城内とはいえ、ここまで皇帝との接触がないのは、やはり故意にそう仕向けられているのだろう。
(とはいえ、いま一番気になるのは、皇帝陛下よりも……)
しばらくして顔を上げると、フリッツが深呼吸しながら胸を撫で下ろしていた。
「はー、緊張したなルーシャス! まさかローヴァイン伯爵と話せるなんて思わなかった」
「そうなの? フリッツは普通に振る舞ってるみたいに見えたけど」
「まさか! 実は汗だらだらだよ! でもあんな風に言ってもらえてやる気出た。ルーシャスこのあと時間あるか? 一緒に飯食おうぜ」
「あ!!」
そう言われ、はっとする。
さすがにそろそろ戻らなければ、近衛騎士たちに怪しまれるかもしれない。彼らからアルノルトに報告が行くと、それだけでバレてしまいそうだ。
「ごめんフリッツ、僕行かないと。午後は仕事があるんだ」
「そっか。残念だけど仕方ないな、頑張れよ!」
「ありがとう、それじゃあまた!」
慌てて訓練場を出たあと、近くの物置に飛び込んでカツラを外す。着替えるのはドレスでなく、侍女のための制服だ。
訓練着などの一式を洗濯籠に入れ、上からシーツを被せた。訓練生の格好では城内をうろつけないが、侍女の姿であれば問題ない。
そこから離宮に辿り着くと、いつも通りバルコニーから部屋に戻った。
震える腕でロープを登る際、途中でちょっと泣きそうになったけれど。
「エルゼ、ただいま!」
「おかえりなさいませ。ちゃんと準備は万端です」
男装のことを唯一知っているエルゼに協力してもらいながら、浴室で手早くお風呂を済ませる。汗を流し、清潔なドレスを着て身支度を調えた。
緩く波打つ珊瑚色の髪を乾かし、櫛を通して、これで万全だ。
「おはようございます、リーシェさま!」
「みんな、おはよう……」
うっかり疲れの色が出てしまい、『昼までぐっすり寝た上での優雅なお風呂』という設定が崩れそうだったが、侍女たちに気付かれなかったようでほっとする。
浴室から部屋に戻るべく、エルゼを含めた数人の侍女を連れて歩いていると、意外な人物と鉢合わせた。
「アルノルト殿下」
「……ああ」
珍しいと言おうとして、彼がいる理由に思い至る。
アルノルトのために準備をした執務室へ、複数人の騎士たちが荷物を運び込んでいるのだ。
「お引っ越しは順調ですか?」
「さあな。手を動かすのは俺ではないが」
「我が君、じゃなかったアルノルト殿下! 困りますよ、きちんと指示をしていただかなくては……」
執務室から顔を出したのは、従者であるオリヴァーだ。彼はリーシェを見て、にこりと笑う。
「これはリーシェさま。殿下のために素晴らしいお部屋を、ありがとうございます」
「いいえ、オリヴァーさま。皆さまの働きやすい環境になっていれば嬉しいのですが。ところでいま、殿下のことを『我が君』と……」
尋ねながら見上げたアルノルトは、ひどく嫌そうな顔で答えた。
「その気色悪い呼び方はやめろと言っているが、こいつは一向に聞き入れない」
「人前ではなるべく避けているじゃないですか。そんなことより先月分の文献、右手の本棚でよろしいですね?」
オリヴァーはさっさと執務室に戻り、他の騎士たちを動かしている。
(……あの呼び方。ご自身の主君が皇帝陛下でなくアルノルト殿下であることを、明確に区分しているように聞こえるわ)
近いうち、オリヴァーからも改めて話を聞いておきたい。
そんなことを考えていると、アルノルトに名前を呼ばれた。
「リーシェ」
「はい、なんでしょう?」
彼はすっと身を屈めると、口元をリーシェの耳に近づけてこう囁く。
「……明日の午後二時、西門に来い。他の人間に見つかるな」
こうして声を潜めたのは、周囲に複数の侍女がいるからだろうか。少し掠れた声で耳打ちをされると、なんだかくすぐったい。
アルノルトが離れると、今度はリーシェが背伸びをし、口元に手を添えて返事をする。
「髪を染めた方が良いですか?」
「いや。そこまでする必要は無い」
「分かりました。では、街に溶け込める装いで参ります」
背伸びを終え、アルノルトから一歩離れると、そこで初めて侍女たちの視線に気が付いた。
「…………」
(な、なに!?)
侍女たちは頬を染め、きらきらした目でリーシェたちを見ている。
このときのリーシェは、お互いの耳元で内緒話をしている光景が、端から見るとどう映るのか気が付いていなかったのだ。
「殿下、早くいらしてください!」
「うるさい。……ではな」
オリヴァーに呼ばれたアルノルトが、面倒臭そうに執務室へ入っていく。
妙にそわそわしている侍女たちとも別れ、エルゼとふたりで自室に戻ると、エルゼまで落ち着かない様子で口を開いた。
「あの、リーシェさま。さっき、どうして内緒話を?」
ふたりきりの部屋で尋ねられ、エルゼにだけは話しておこうと思い立つ。
「実はねエルゼ。明日の午後、アルノルト殿下と城下に出るの」
「……!」
そのとき、いつも無表情であるはずのエルゼが目の色を変えた気がした。
「……それは、どのようなお出掛けなのですか?」
「内容は教えてもらえなくて。でも、私が手合わせに負けて、殿下のご命令をなんでも聞くことになったのよ。だからきっと、何かのご公務をお手伝いするんだと思うわ」
「…………」
「とりあえず、明日は目立たない格好をしないとね。茶色のドレスでいいかしら? 灰色のローブもあるから、それを程々に汚して旅人風の……わっ」
エルゼにがしっと手を掴まれ、リーシェは驚く。
「お任せくださいリーシェさま」
「え? な、なにを――」
「明日のお支度は絶対ぜったい、ぜったい私にお任せください。大丈夫です、リーシェさまを一番可愛くしますから」
「んんっ!?」
妙な宣言をされ、なんだか嫌な予感がした。
「あのねエルゼ。ちょっとお仕事で街に出るだけだから、そんな手間をかけてもらわなくても」
「いけません……! お洋服も髪も全部、明日は完璧でないといけません!」
「!?」
こんな気迫のエルゼは見たことがない。
怯えるリーシェをよそに、エルゼは気合いを入れてふんふんと息を荒くする。
「もちろん街に溶け込む服です。だけど可愛くないと駄目なのです」
「え、えええ……?」
「ディアナ先輩にお洋服を借ります。いますぐディアナ先輩を呼んできます!!」
「エルゼあなた、ディアナとすっかり仲良くなって……! じゃなくて、あ、ちょっと待って!!」
***
そして翌日。
候補生としての訓練を午前中で終えたリーシェは、そこからすさまじい気迫で準備をしてくれたエルゼによって、アルノルトとの待ち合わせに送り出された。
フードを目深に被った状態で合流し、皇族用の隠し通路を通る。
水路を兼ねた地下道から街外れに出て、数分ほど歩いたあと、アルノルトが立ち止まって言った。
「ここまで来ればもう良いだろう。フードを外して構わないぞ」
「……」
そう声を掛けられて、リーシェはぎくりとする。
なるべく顔を隠しつつ、フードの下から恐る恐るアルノルトを見た。
アルノルトの方が身に着けているのは、普段よりも簡素な青色の衣服だ。
首元が隠れる詰め襟で、形だけは庶民服に近いものの、仕立てが良くて布も良い。
金糸のさりげない刺繍もあり、見る人間が見れば高級な品だと分かるはずだった。
その上から薄手の黒いローブを纏い、口元を隠しやすくしている。彼が首から下げているゴーグルは、旅人が風や日光を避けるために普及しているものだ。
いざというときに顔を隠せるようにするが、基本的には普通に街を歩くつもりだろう。皇族の顔など国民にはほとんど知られていないのだから、それが正解だというのは分かっている。
(分かってる、けれど……!)
フードを外すのを躊躇い、ローブの前を手で押さえているリーシェを見て、アルノルトは訝しそうに言った。
「どうした?」
「……ええと……」
まごつくリーシェに対し、彼はこう続ける。
「それほど警戒しなくとも、俺やお前の顔を知る一般国民はまず居ない。いまから向かうのも妙な場所ではないから、後々俺たちだったと気付かれても問題は無いが?」
「そ、そうですよね」
「……そこまで頑なに隠していると、却って怪しまれるぞ」
アルノルトの言う通りだ。
こうなったら仕方が無い。リーシェは覚悟を決め、ローブを押さえていた手を離してフードを脱いだ。
「……」
意を決し、アルノルトを見上げる。
目が合ったアルノルトは、少し驚いた顔をしていた。
白いローブの下に隠していたのは、ふわふわと裾の泳ぐ水色のドレスだ。
ディアナが貸してくれたこのドレスは、城下の女の子たちに流行している初夏の服装らしい。
腰から下が花のつぼみのようなラインを描く、涼しくて可愛らしいデザインだった。
珊瑚色の髪は右側でまとめられ、ゆったりとした大きな三つ編みになっている。
他にも細かな編み込みがあるものの、それだけならよくある髪型だが、いまのリーシェはエルゼによって髪にリボンを編み込まれていた。
さすがエルゼというべきか、ちゃんと『街にいる普通の女の子』でありながら、随所に可愛らしくて洒落たこだわりが仕込まれている。
とはいえ、その姿をアルノルトに晒していると思うと、自分の顔が赤くなるのを感じた。
(確かに、街には溶け込んでいるけど……)
リーシェの着ているようなドレスも、三つ編みという髪型も、先ほどから城下のあちこちで見かけるものだ。
しかし、どうにも落ち着かない。
リーシェだってお洒落は好きだし、夜会などの場ではドレスや髪型に気合いを入れるが、今日はアルノルトと仕事をするはずなのだ。
「――……」
「いえ! 仰りたいことは分かっています!!」
アルノルトが口を開こうとしたので、リーシェはそれを遮った。
「今日がご公務だというのは、なんとなく察しがついていたのですが!! あまり簡素でも浮きますし、なんというか」
「……お前のことだから、てっきり麻のドレスに質素なローブ辺りで来ると思ったが」
「そこまで分かりやすいですか!?」
読まれていたことに若干ショックを受けていると、アルノルトは改めてリーシェの全身を眺めた。
「侍女の仕業か」
「…………」
「誤解をしているようだが、その服装でなんら問題は無い」
「……ほんとうに……?」
そう言われ、少しほっとする。
アルノルトは続いて、こんなことを言った。
「俺からも、後でよくお前の侍女を褒めておく」
「え」
「そろそろ行くぞ。このままでは、お前の危惧とは違う意味で注目を集めそうだ」
「あ、お待ちください!」
歩き出したアルノルトを、リーシェは慌てて追うのだった。