44 交えた剣が語ること
アルノルトは木剣の切っ先をリーシェに向けた。美しい型だが、どこか隙のある構えだ。
恐らくは、『打ってこい』ということなのだろう。
実力差があるのは今更なので、こちらも素直に木剣を構える。
それから、自分の四肢の状況を改めて確認した。
左手の拘束具は、フック状の留め具によって背部に固定されている。
強い力で戒められているわけではなく、多少の遊びがある状態だ。しかし関節の構造上、動かせる範囲は限られていた。
重い木剣を片手で持てば、それだけで筋力の足りない腕には堪える。
(打ち合いが長引くほど不利だわ。……だったら)
リーシェは短く息を吐くと、アルノルトの間合いへ一足に飛び込んだ。
アルノルトは動かない。そのまま彼の右顔面を目掛け、木剣を斜めに振り上げる。
カアン、と高らかな音が響いた。
リーシェの木剣は、アルノルトが翳した剣で軽々止められている。
それなりに勢いを付けて打ち込んだはずだ。なのに、アルノルトの剣はびくともしない。
(それなら……)
体の軸を捻り、身を翻す。遠心力を利用したその一撃も、アルノルトは容易く受け止めた。
二本の剣が交差し、噛み合って、その向こうにある視線と重なる。一時的な隻眼となったアルノルトが、その片目を細めて笑った。
「どうした。そんなものか?」
「っ!」
心底楽しむような目に、ぞくりと背筋が粟立つ。
リーシェはすぐさま後ろに飛び退き、呼吸を整えながら構え直した。
(重心がぶれている。握りが甘い。左手が使えるときの感覚に引きずられる……!)
反省点を挙げつらね、即座になんとかできそうなものを検討する。
(重心を修正する……と、間合いが変化するわね。もっと踏み込まないと、力の弱い剣先しか殿下に当たらない)
頭の中で計算し、踏み込みの位置を確かめる。握力はどうにもならないので、木剣を握り込む位置を上にあげ、少しでも剣先まで力が伝わるようにした。
小手先の技は通用しないが、無いよりは良い。それと、咄嗟に左手で平衡を取りそうになるのをやめなければ。
(もう一度)
リーシェがそう思うのと同時に、アルノルトが誘うような目をした。
呼吸を練り、浅く吐き出して、再びアルノルトに斬りかかる。
「やっ!」
振りかぶった一度目は防がれる。いったん後ろに引き、すぐさま二度三度と打ち込んで、アルノルトの懐に飛び込んだ。
そのまま下から斬り上げようとしたのを、アルノルトの剣で防がれ、ねじ伏せるように押し戻される。
「――へえ」
「……っ」
止められた。
だが、これまで木剣を翳すだけだったアルノルトが、初めて剣に動きをつけてきた形だ。リーシェは再び後ろに退いて、間合いを空けた。
「お、おい。リーシェさまの動き、殿下とたった数回剣を交えただけで、随分変わったような……」
「いや、いくらなんでもそれは! ……しかし、確かに」
近衛騎士の言葉は耳に入らず、アルノルトに打ち込む。防がれ、弾かれながら、打破する道を探った。
「動きが硬い。力で挑むな。足が疎かになっている」
「!」
指摘され、はっとした。
剣を交わしながら修正する。力ではどうしても男性に敵わず、それを補うために必死だった頃を懸命に思い出す。
「お前の身軽さを活用しろ。左足で踏み込め、まだ動けるだろう? もう一歩、まだだ、そら」
互いに木剣を弾き合いながら、アルノルトに従って踏み込んだ。
感覚が戻ってくる。ずっと昔のことだったような、ごく最近の出来事であるような、そんな人生の感覚だ。
アルノルトは端的に、それでいて的確な言葉でリーシェを指導していく。
(すごい。騎士だった私が、五年かけて辿り着いた動きなのに)
恐らくアルノルトは、いまのリーシェの動きを見ただけで、最適解が分かるのだ。
(だけど)
リーシェだって譲る気はない。体捌きに慣れるほど、視界はどんどん開けて行く。
すると、今度はアルノルトを見る余裕が生まれ始めた。
脳裏に過ぎったのは、『あの日』のアルノルト・ハインの姿だ。
(――右!)
身を引いた瞬間、想像した通りの場所から木剣の一撃が来た。
アルノルトの剣が、リーシェの剣のぎりぎりを滑る。咄嗟に躱していなければ、木剣は遠くに飛ばされていただろう。
(そのまま、私の間合いに踏み込んで、上から来るはず……!)
五年後のアルノルトと剣を交えた際、彼は今と同じ動きをした。騎士だったリーシェが、構えた剣で受けた一撃だ。
それを思い出すが、今の自分では絶対に止められない。だからもう一歩、無理矢理後ろに下がる。
直後、アルノルトの剣先が、リーシェの前髪を掠めた。
「……っ!」
寸前で止めてくれる気だったのは分かるが、本能的な危機感に嫌な汗をかく。
余裕のない回避でバランスを崩し、数歩ほど後ろにふらついた。
あれほどの一撃を、ぴたりと静止させてみせたアルノルトは、そこで少し表情を変える。
「……お前の知る限りで、俺の剣が最も強い、と言っていたか」
リーシェが先ほど、彼に言った言葉だ。
「だが今のは、俺よりも強い人間を知っている者の動きだ。……俺と剣を交えながら、そいつのことを考えていただろう?」
「……」
アルノルトは冗談でも言っているつもりなのか、挑発するような笑みを浮かべていた。
けれどもその視線は鋭くて、リーシェは木剣を握り直す。
「妬けるな。悋気を抱いてしまいそうだ」
「お戯れを。それに、私が知る中で最もお強いのは、正しくアルノルト殿下です」
リーシェは言い切って、アルノルトを見据える。
しかし、彼の指摘はあながち間違っていないかもしれない。リーシェが思い描いたのは、五年後の皇帝アルノルト・ハインだったのだから。
(――今の殿下よりも更に強く、残酷で、圧倒的だった)
あの男によって、こちらの騎士団は皆殺しにされたのだ。『怪我のひとつもさせるつもりはない』だなんて、そんな生ぬるいことを言う相手ではない。
そんな男と、今こうして剣を交えている。
「来いよ。……もう少し、俺に構え」
アルノルトが楽しそうに笑った。
普段より少しだけ崩れた言葉遣いは、十九歳という彼の年齢相応にも思えるものだ。
リーシェはそれに応じ、剣を構えて腰を落とす。
一歩、二歩と、距離を測りながらゆっくり間合いを詰めた。
アルノルトも剣を構える。そして呼吸が重なった瞬間、一気に踏み込んで木剣を真横に払った。
その一閃は躱される。アルノルトの横をすり抜けた形になり、リーシェはすかさず振り返った。
あちらも同様に身を翻し、そのまま木剣を振り払う。アルノルトの剣先が、リーシェの剣を強く打った。
「っ」
木剣同士が上段でぶつかり、すぐに引いて下段で一度、そこから再び頭上でも交わされる。硬い木のぶつかる音が響くと共に、リーシェの手へびりびりと痺れを与えた。
アルノルトは片目を塞ぎ、片足も思うように動かせないはずなのに、そんなことを全く感じさせない。
(まだ!)
半歩引き、その分を一気に詰めながら剣を振る。
アルノルトが後ろに引き、リーシェの木剣は大きく空を切ったが、そのまま突っ込んだ。
(あのとき、アルノルト・ハインに唯一傷を付けられた感覚を……!)
記憶を必死に手繰り寄せながら、渾身の力で最後の一撃を入れる。するとアルノルトは一瞬だけ、驚いたような顔をした。
「――……」
だが、それで終わりだ。
リーシェの剣は、アルノルトの振るった一薙ぎにより弾き飛ばされた。
「あ!」
手から離れた木剣が、呆然と見ていた近衛騎士たちの頬を掠め、訓練場の石壁にぶつかる。
「うわああっ!?」
「だ、大丈夫ですか!? っ、あ!」
慌てて彼らに駆け寄ろうとしたが、リーシェの体からは力が抜け、訓練場の地面に座り込んでしまった。
「……っ、はあっ、は……」
「大したものだ」
呼吸ひとつ乱していないアルノルトが、リーシェのことを見下ろす。
「一歩以上は動かないつもりだったんだがな。どうやら見縊りすぎていたらしい」
「随分と、制約を付けてくださったようで……!」
「お前が相手でなければ、一歩も動かずにいる予定だったところだ」
肩で息をするリーシェを他所に、アルノルトが近衛騎士へ合図をする。慌てて駆け寄ったひとりの騎士が、アルノルトの手の拘束を外した。
続いてアルノルトは、足の拘束を自ら取ると、リーシェの前へ屈み込む。そして、左手の戒めを解いてくれた。
「……ご指導、ありがとうございました……」
分かっていたが、それでも負けたのは残念だ。そんな気持ちが顔に出ていたせいか、アルノルトは膝に頬杖をついてにやりと笑う。
「なんでもひとつ、俺の言うことを聞くのだったか?」
「ええ、なんなりとどうぞ! 二言はありません!」
いささか自棄になりながら、リーシェは言い切った。
いくらなんだって、本気で勝算があると思ったわけじゃない。これはリーシェにとって、勝っても負けても利のある賭けだったのだ。
万が一にもリーシェが勝てば、アルノルトに聞きたいことを聞ける。
想定通りにリーシェが負ければ、彼がリーシェに望むことが分かる。もしかすると、アルノルトがリーシェに求婚した理由を探る上での一助になるかもしれない。
そう考え、あんなことを提案したのだ。
(そうよ。これも計算のうちだもの。悔しくない、悔しくない……)
本当はものすごく悔しいが、自分にそう言い聞かせる。
アルノルトはしばらくその様子を眺めていたが、やがて眼帯の紐を解きながら、こう言った。
「そうだな。……では、二日後の午後を空けておけ。城下に出るぞ」
「城下に? もちろん従いますけど、何をなさるんですか?」
「そのときに話す」
アルノルトは立ち上がると、解いた眼帯を近衛騎士に預けた。
(ううん……皇太子とその婚約者として、何か公務をしに行くとか?)
いずれにしても、考えて分かりそうなことではない。そういえば城下に出るのは、商会長タリーに会いに行ったとき以来だった。
あのときはお忍びが見つかって、『今後、城下に出るときはアルノルトと一緒に』という約束をさせられたのだ。
アルノルトはどこまでもリーシェの上を行く。
そんな風に思って遠い目をしていると、アルノルトが不思議そうに見下ろしてきた。
「どうした。そろそろ立て」
「あ。……えっと」
いつまでも地面にへたりこんでいたリーシェは、そっとアルノルトから目を逸らす。
「私はもうしばらくここにいますので。殿下はどうぞ、先にお戻りください」
「なぜ」
「……」
言いたくないが、言わざるを得ないだろう。
腹を括り、恥を忍んで口を開いた。
「実はですね。今の手合わせで、手足がぷるっぷる震えてまして」
「……なに?」
「なんというか、体が動きについてこなかったみたいです……」
本当に情けない話だった。いま立とうとすれば、そのまま地面に顔から突っ込んでしまうかもしれない。
「なのでもうしばらく休息を。ちゃんと訓練場の戸締りはしておきますから、ご心配なく」
「……」
「殿下?」
アルノルトが、ふむ、という顔をする。
「素手で触れるのではないから、構わないな?」
「……え?」
なんだか嫌な予感がした。
本能的な判断で「駄目です」と言いたいが、何を確認されたのかが分からない。
そうこうしているあいだにも、アルノルトはリーシェの前へ膝をつき、黒い手袋を嵌めた手を伸ばしてくる。
「えっ!? え、ちょ、殿下――……」
次の瞬間、ふわっとリーシェの体が浮いた。