42 引っ越し準備は万端です
ここからはアニメの続きの内容となります!
※これ以前の小説の掲載話にも、アニメで泣く泣くカットされたシーンが複数含まれていますが、ストーリーのメイン部分はアニメで全て描かれています!
監禁騒動からの数日間、リーシェは、ふわふわの寝台でゆっくり療養した。
畑の世話も最低限にし、侍女たちへの教育はディアナに任せ、栄養のあるものをたくさん食べる。
寝台で商会への注文書を埋め、爪紅の商品化に向けた案を書き出しつつ、基本的にはよく眠った。
自作の薬を飲み、すっかり体力が回復して、皇城の侍医にも太鼓判を押された五日目のこと。
「これで準備が整いました。リーシェさま」
侍女のエルゼが、リーシェにそう告げて礼をした。
その場に集められた大勢の侍女たちも、エルゼに倣って頭を下げる。広間に満ちるのは、ある種の緊張感だ。
神妙な面持ちをした彼女たちは、密かにごくりと喉を鳴らしながらも、リーシェの言葉を待っていた。
「――みんな、ご苦労さま」
彼女たちの主であるリーシェは、ねぎらいの言葉を口にする。
「あなたたちのお陰で、この日を迎えることが出来たわ。素晴らしい仕事ぶり、心より感謝します」
それを受け、侍女たちがますます深く頭を下げた。
リーシェはすっと目を伏せて、一歩踏み出す。こつこつと響き渡る靴音が、扉の前で一度止まった。
「いよいよね」
「リーシェさま……」
侍女たちが固唾を飲み、退室する主人の背を見守る。
リーシェはそのまま二名の騎士を伴い、主城へと向かった。
訪れたのは、皇太子アルノルトの執務室だ。
「殿下。リーシェさまがお見えです」
「入れ」
騎士たちがゆっくりと扉を開け、左右に控える。
リーシェは彼らにお礼を言い、執務室へ足を踏み入れた。
「ご機嫌ようアルノルト殿下。ご多忙にもかかわらずお時間をいただいたこと、心よりお礼申し上げます」
「お前から面会の申し入れがあったのは、初めてだな」
書き物の手を止めたアルノルトが、傍らにゆっくりとペンを置く。
続いてアルノルトは、余裕のある笑みを浮かべて言った。
「一体どんな用件だ? 婚約者の顔を見に来ただけにしては、ずいぶんと緊張しているように見えるが」
「では、早速本題に入らせていただきます」
従者のオリヴァーが、警戒するような目を一瞬だけこちらに向ける。
リーシェはひとつ深呼吸をし、満を持してアルノルトに告げた。
「――離宮に、殿下のお部屋が用意できました!!」
「…………なに?」
アルノルトが思いっきり眉をひそめる。
整った彼の顔立ちは、渋面を作っても美しいものだ。そんなことを思いながら、リーシェは説明を続けた。
「執務室は二階に、寝室は最上階の四階に設けております。長らくお待たせしてしまい、申し訳ありませんでした」
正確には、部屋の準備は少し前に出来ていた。
だが、侍女たちが清掃などを完璧にこなせるようになるまでは、アルノルトを呼ばない方がいいと考えていたのだ。
仕事に不慣れな段階で皇太子が来るのは、侍女たちの心臓に悪すぎる。
「寝室と執務室がありますから、いつでもお引っ越しいただいて大丈夫です! お時間さえよろしければ、これからご案内いたしますが」
「……待て」
「なんですか?」
張り切るリーシェに対し、アルノルトは相変わらず渋面だ。
「お前の用件というのはそれか?」
「はい、そうですけど」
よく見れば、オリヴァーもぽかんと口を開けていた。
アルノルトはひとつ溜め息をついたあと、さらに尋ねてくる。
「なら、何をあんなに緊張していたんだ」
「緊張するに決まっているじゃありませんか! 私の大事な侍女たちが、今日のため懸命に頑張ってきたのですよ!? これが卒業試験のようなものだと考えたら、すごくどきどきしてしまって……」
「……」
今日に至るまでの頑張りを、リーシェはよくよく知っている。
侍女たちは毎日早朝から、お互い助け合ってよく働いたのだ。
仕事が終わってからは勉強会を開き、文字を学んで、翌日の仕事に役立てようと努力をしていた。
最終確認をしたのはリーシェだが、よく磨かれた窓も、埃ひとつない床も、真っ白なシーツも素晴らしい仕上がりだ。
その成長っぷりには、教育係であるディアナたちも涙ぐんでいたほどである。
「緊張しますが、素敵なお部屋に仕上がったと自信をもって断言いたします。ですから是非一度、新しいお部屋をご覧いただけませんか?」
「……」
アルノルトは再び溜め息をつくと、肘掛けに頬杖をついた。
「お前は、あの離宮でひとり自由に過ごすのが望みだと思っていたが」
「まさか! それでは意味がありません」
「意味だと?」
「はい」
リーシェは執務机に歩み寄ると、机上に手を置いてアルノルトを覗き込む。
「私は、あのお城でアルノルト殿下と一緒に暮らしたいのです」
「――……」
元々は、アルノルトと現皇帝を引き離すための策なのだ。
三年後、彼は父親を殺して戦争への道を歩み始める。
そしてあの離宮は、父殺しを防ぐ一助となることを期待しての別邸だ。
あんな城、リーシェひとりには大きすぎる。そういう思いを込め、アルノルトをじっと見つめた。
アルノルトは、何故か驚いたような表情をしていたが、やがてその表情が笑みへと変わった。
「……なるほどな」
その視線は、こちらの内心まですべて見透かすかのようだ。
「どうやらまた何か、愉快な企みごとをしているらしい」
「ひ、人聞きの悪い……!」
だが、ある意味では図星だった。もしかすると、本当に心を読んでいるのだろうか。
(それとも、呼び出し方が強引すぎた?)
アルノルトが警戒心を抱いてしまえば、離宮に越してきてくれなくなるかもしれない。
内心で焦っていると、アルノルトは「まあいい」と立ち上がった。
「その企みに乗ってやろう。お前のおかげで機嫌が直った」
「え。ご機嫌って、どなたの?」
「俺のだ。――行くぞ」
訳が分からずにオリヴァーを見ると、彼は苦笑を浮かべながら会釈した。
その口元が、『助かりました』と声を出さずに動く。
(つまり、殿下は私がここに来る前、ご機嫌斜めだったということ?)
そしていまは、何故だかその機嫌が直ったらしい。
不思議に思っていると、呼び声がした。
「リーシェ」
「あ、はい!」
リーシェはアルノルトを案内するべく、急いで彼の後を追ったのだった。
***
「――こちらが殿下の寝室です」
扉の前に立ったリーシェは、傍らのアルノルトにそう告げた。
少し離れた廊下の先では、侍女たちが心配そうに覗き込んでいる。恐らくは、先に案内を済ませていた執務室がどうだったかを気にしているのだろう。
目が合ったリーシェが笑って頷くと、彼女たちは表情をぱあっと綻ばせて手を取り合う。
その微笑ましさに頬を緩めつつも、扉を開けた。
「どうぞ」
「ああ」
青を基調にした寝室は、隅から隅まで完璧に整備されている。
紺色の天蓋がついた寝台と、柔らかい枕。ぴんと張られたシーツに、飴色をした丸机。
敷かれた絨毯は密に編み込まれた滑らかな毛足で、靴音を一切響かせない上等の品だが、その上には埃一つ落ちていない。
「……これは」
アルノルトは意外そうな表情をした。
「どうです? 素晴らしいお部屋でしょう」
「ああ、そうだな」
素直な肯定の言葉を聞き、リーシェは嬉しくなる。
「オリヴァーさまとも相談して、ひとまず最低限の家具だけとさせていただきました。本棚やその他もろもろは、いまのお部屋から引っ越しの際に運んでいただくことになっています」
「それで構わない。……だが、驚いた」
アルノルトは部屋の中心に立つと、室内を興味深そうに眺めた。
「この離宮は長年放置されてきた場所だ。お前の部屋だけならともかく、三週間でここまで仕上げられるのか」
「ふふふ。すごいでしょう、私の侍女は!」
「まったく。大したものだ」
振り返ったアルノルトがリーシェを見る。
「新入りを一からここまで教育したのだろう? 皇族の住まう城内を整え、その仕事が皇太子に認められたとあれば、今後その者たちは職にあぶれることもない」
「殿下の仰る通りです。彼女たちがどこでも生きていけるようになれば、将来の不安からも解放されますから」
「得られるものは、他にもある」
首をかしげたリーシェに対し、言葉がこう続いた。
「誇りだ。――自分は確かな仕事を成し遂げ、他人に認められたのだという誇りが生まれる。それは人間の生死に直接関わるものではないが、時として、その誇りが人を生かすこともあるだろう」
「……殿下?」
アルノルトは緩やかに目を伏せる。
感情はあまり見えないのに、どこか優しい表情だ。
まるで大事なものを見るみたいなまなざしで、リーシェを見下ろす。
「お前には、他人に矜持を与える才があるな」
「……!」
思わぬことを言われ、リーシェは目を丸くした。
まったく心当たりがない話だが、一体なんのことなのだろうか。リーシェがぽかんとしていると、アルノルトが肩を震わせる。
「ふ」
それは、耐えきれずに零れたというニュアンスの吐息だった。
「俺が褒めると、お前はそういう顔をするのか」
楽しそうなその言葉に、リーシェは溜め息をついた。
「突然そんなことを仰って、私をからかおうとしましたね?」
「心外だな。これでも心から褒めたんだが」
心にもなさそうな発言だ。それでもリーシェは溜め息のあと、こんな風に答えた。
「残念でしたね。たとえ偽りでも、あなたに褒めていただくのは嬉しいですよ」
「……」
なにせ、常々『敵わない』と思っている男だ。
アルノルトが少しだけ目をみはる。仕返しが出来たような気持ちになり、リーシェは笑った。
「ところで気が付きました? このお部屋、離宮内では一番日当たりが良いお部屋なんですよ。窓を開けると風が気持ち良くて、お昼寝にもぴったりです」
「……あいにく、日中に寝室へ戻ることはそう無いがな。俺に譲るよりも、お前がこの部屋を使えばよかっただろうに」
「あら、私は人質同然の身ですよ? このお城でぐうたら暮らすつもりなのに、気まずいじゃないですか。こんな良いお部屋を、なにも仕事をしない妃が使うなんて」
「『なにも仕事をしない』妃……?」
「?」
物言いたげな目で見られるが、どういう意味だろうか。
気になったが、深くは突っ込まないことにする。
「そういえば、ここはお前の部屋の隣か」
「はい。警備をする方々も、私たちの部屋が近い方がやりやすいでしょうから」
「俺もその方がやりやすい。お前の無茶が事前に察知できるかもしれないからな」
「なんですか無茶って! 私は今後ごろごろする予定なので、そんなことはしません」
「ふうん」
「……ちょっとしか」
「馬鹿」
呆れた顔で、柔らかい声音が言う。
「自由にはしてもいいが、先日のように体調を崩す真似はもうするな」
「……はい。ごめんなさい……」
普通に叱られてしまった。
リーシェは反省しつつ、アルノルトに頼みたかったことを思い出す。
「そういえば殿下。この件について、おねだりしたいことがございます」
「……なんだ」
若干警戒している様子のアルノルトに対し、にっこりと笑った。
「以前お約束いただいたこと、覚えていらっしゃいますか?」